嫁さま側の話―2
「――うわぁ……!」
――空の上は、青と白の世界でした。
上を見ても、左右を見ても、視界に映るのは、どこまでもどこまでも広がり続ける鮮やかな青色と、海原のように乳白色の雲が広がっておりました。
雲海の下には、時折緑や茶、純白の大地が見え隠れしており、雄大な山脈や多な湖沼地帯、大小様々な街の様子が見てとれました。
寧々子の雲の下の眼下に広がるのは、広い大地、魔大陸。群島とはちがい、見渡す限り広がり続ける大地は、果てがないように見えました。
寧々子は、島育ち。いいかえれば、島と島の回りの海しか知らないのです。島と海――それが、寧々子の知る世界のすべてだったのですから。
そしていま、寧々子は世界の外へ出ているのです。寧々子が知らなかった世界の外にいるのです。
「……世界は広いんだな」
――寧々子の世界が広がった瞬間でした。
めりーごーらうんどの白馬に横座りして騎乗する寧々子は、眼下に広がる広大な景色を見て、何度目になるかわからない感嘆をもらしました。
「そーさぁ、広いのさ。空は無限に、どこまでも、どこまでーも続いていくのさ。
お嬢ちゃんは空の旅は初めてかい?」
ワテカッコいいこといった、とばかりに歯を煌めかせてカケルくんは馬上の寧々子に声をかけました。
「ああ、初めてだ。わたしは生まれてこのかた、環藤を出たことがない」
寧々子は環藤から出たことがありませんでした。生まれてから今まで、ずっと環藤の両親や、寧々子を慕う仲間たちや友人たちの庇護にあったのです。
これまでは、そうでした。
――『いいかい寧々や。あんたはいずれ嫁ぐ。嫁ぎ先は島の中かもしれないし、島の外かもしれない』
寧々子は、母の言葉を思い出していました。
強い感情がゆえに、人間から妖になった半妖半人の母はそういいました。
寧々子は跡継ぎたる長子でもなく、嫁ぐことは確実視されていました。また人間の血も混じっています。だからこそ、寧々子の母は心配でなりませんでした。いずれ、母たる自分と最強の名で知られる父の庇護下から離れていく愛娘が。
――『だから、寧々にはともをつけよう』
寧々子の母はいいました。寧々子の父と相談し、寧々子が嫁いで自分たちの庇護下から離れても、守り寄り添う伴であり友を。
そして、環藤を発つ際に、寧々子は彼らと旅立ちました。今は事情により姿を見せていませんが、彼らは寧々子に今も寄り添っています。
「そうかい、出たことがないのかい。
――なら、今日がお嬢ちゃんのでびゅたんとさぁ。お嬢ちゃんのでびゅたんとにえすこーとできるなんて、ワテ、嬉しいね」
ふぁさぁ……と風もないのにカケルくんは鬣を靡かせて、歯をきらんと煌めかせました。
「――さあ、目的地へれっつらごーさぁ!」
スピードを少しあげ、白無垢の寧々子を乗せた白馬が青空を背景に、雲海の上を軽やかに駆けます。
「……世界は広いな」
しみじみと呟く寧々子に、カケルくんは何も言わずにただただ前を進むだけでした。
☆☆☆☆☆☆☆☆
「――そろそろだねぇ」
ぽつ、とカケルくんが呟きました。どことなく疲れが見える声でした。
寧々子は労りを込めて、無機質の鬣を撫でました。はじめは艶々で毛糸のようであった鬣は、今では陶器のような硬い素材に変質してしまっています。
カケルくんは、付喪神。妖力で変えていた鬣も、疲れから妖力が切れてきて元の素材に戻ってしまったのでしょう。
――故国の環藤を出て幾時間が経ったかわかりません。けれども、東の水平線より昇り始めていたお天道様が、もう天頂に移動し始めているので、長い時間が過ぎたはずです。
天頂にさしかかるお天道様を見るに、今の時刻は、おそらく。
――ぐきゅるぅぅ……
「おや、空腹かいお嬢ちゃん?」
「……………みたいだ………」
あらあらまぁまぁ。やはり、お昼みたいです。しかし、高らかに鳴り響くとは、見事なお腹の音ですね!
寧々子は恥ずかしくなりました。今すぐ毛をドリルのように固めて、地面を掘って穴を拵えて入ってしまいたい気分でした。蓋はもちろん、寧々子の髪です。
「お嬢ちゃん、もうすぐさ。ほら、下を見てみな」
カケルくんの言葉に、寧々子は少し身を乗り出しました。
――それが、ダメでした。
「っお、おっ、お嬢ちゃあああ?!」
身を乗り出して、寧々子はそのまま重力に従い、遥か下の真っ白な大地へまっ逆さま。落ちていく寧々子に、カケルくんはあるはずのない血がひいていくのを感じました。血が流れていないのにひいたと感じた、ならば何がひいていったんでしょうね。付喪神は生態の奥が深いんですね!
――『カケル、振り落とさないように。決して空中大回転捻り三回転なんて飛行しないで。飛行ショーではないから』
カケルくんは、空中大回転捻り三回転もしていませんし、後方連続螺旋捻りも、一匹ジェットコースターもやっていません。
なのに、寧々子は落ちてしまいました。カケルくんの顔色は、絵的にいえば真っ青な状態でしょう。陶器などでできていますので真っ青になれないのですが。
「っと」
カケルくんとは違い、絶賛落下中の寧々子は冷静でした。落下中だというのに、なんて肝が据わっているのでしょう!
そんな寧々子は綿帽子をとり、結い上げていた髪に手を突っ込んで髪をほどきました。長い長い艶やかな黒髪が、日差しにキラキラと輝きながら空を漂い――ぶわっと一気に“増え”ました。
見た目の質量と重み、そして長さが倍に増した髪が、海中を漂う藻のように揺らめきながらも、地を這う蛇の大群のように蠢いて、カケルくんに迫りました!
「ぐぇ」
しゅるしゅると衣擦れのような高い音を立てて、寧々子の髪はカケルくんのデコレーションされた腹へと巻き付き、そのままがしっとしがみつきました。
――雲海の上で、澄み渡る青空を背景に、玩具のような白馬に生き物のように絡み付く黒髪、その黒髪を伝って馬上へ這い上がる、髪を乱した白無垢の若い女……実際は違えども、この光景……な、ななんてシュールでホラーなんでしょう!
「び、び、びっくりしたさぁ……」
そりゃあ、びっくりするでしょうよ。
びしっと固まるカケルくんの体に、寧々子はよいしょよいしょと座りました。
寧々子の髪は再び結い上げられた髪形に戻っており、先ほどまで生き物のように蠢いていたとは思えません。
……しかし髪形が戻るとは、形状記憶機能でもあるのでしょう多分。
毛倡妓の力として、髪を自由自在に変化できるのだそうです。長さも量の増減の変化は見ててホラーですね!
「………………お嬢ちゃん、そういえば毛髪の妖だっけ」
「ああ、わたしは毛倡妓だ」
寧々子は毛倡妓。自分の髪を自在に操る毛髪の妖だからこそ、髪を増やしてのばして、網のように広げて、対象に毛を巻き付けるのは朝飯前なんですね。髪(の操縦でしょうか)に関してはエキスパートです。
「………………敵に一番回したくない妖だ」
カケルくんは、戦々恐々と呟きました。軽いノリの彼にしては、珍しく重い呟きでした。
「何かいったか?」
綿帽子を被りなおす寧々子は首をかしげながら問いました。寧々子は天然のようです。
「何も、何も」
――この先長い妖ライフ、例え何が起きようとも、寧々子と寧々子の出身地である環藤の国だけは敵に回すまい、カケルくんはそう胸に決意を掲げたのでした。
そんな会話をしつつも、付喪神たるカケルくんの足は止まりません。
だんだんと、ゆっくりとカケルくんは下降していきます。
真っ白でいて、けれども日差しに銀色に輝く永久凍土の世界が――彼らを今か今かと待ち構えておりました。
「さあ、もうすぐさぁ〜!」
――魔大陸最北端、ケイオス国ケルニー地方。
これから起こることも知らずに、これから起こることの主要人物がやって参りました。
毛倡妓の寧々子、付喪神のカケルくん、そしていまだ姿の見えない寧々子のおともたち。
――さあ、登場人物が出揃いましたよ。