不審者の訪問
プロローグは終わりました。
ついに物語は、いろんな意味で本格的に動き出す!
絶望の淵で甘い香りがした。
ゆらゆら宙を漂っているような……。
蜜に誘われる蝶は、このような気持ちなのだろうか。ふわふわして、覚束ない思考。立っているのか、倒れているのか教えてほしい。
ひんやりとした風が、頬を撫でたように感じる。か弱い蝶であったなら、どこかへ流されてしまったかもしれない。
彼らが羨ましい。自分には、彼らのような自由がない。もう、どこへも行けない。そのための力は失ってしまった。自分には何も残っていないのだから。
ぼんやりした意識で瞬きをすれば、見なれたと言っても過言ではないベッドの天井。
「……夢?」
少し休憩するだけのつもりが、寝てしまったのだろうか。いつのまにか火は消え、室内は薄暗い。差し込む月光が唯一の灯りだ。けれどメルデリッタには、灯りを点けて回る気力がなかった。
流れ続けていた情景が脳裏に消えていく。とても鮮明な、長い長い夢。それでいて懐かしく、魅入られてしまった。
そういえば、あの日出会ったグレイスは、無事に森を抜けられただろうか?
傍らの彼に問いかけようとして、寸前で止めた。もはやこの部屋にはメルデリッタしか存在しない。たった一人の友達、家族とも呼べるルビーは消えた。
冷たい夜風が頬を撫で、頬に在る違和感の正体は涙だ。もう強がる必要もないだろう、そう考えて乱暴に甲で拭う。
悪夢から抜け出せた心地がしない。悲しくて、苦しくて、発狂しそうになる。けれど感情的になることは無意味だ。ろくに食事も摂っておらず、そんな体力も残っていない。
無気力に寝転び、覆った瞼の下、また記憶が蘇る。繰り返し夢に見る嫌な過去。突き付けられる現実。
魔力を奪われたメルデリッタは放置されていた。釈放される気配もなく、時だけが過ぎている。魔女でなくなったとしても、自由は許されないのだろうか。このまま死ぬのを待っているのだろうか。どこまでも嫌な想像ばかりが渦巻く。
このまま一生ここに閉じ込められる?
誰に知られることもなく、時と共に老いる?
やがて骨になり、朽ち果てる?
そんな終わり方、良い人生だったとは言い難い。けれど一向に、どうすればいいのか分からない。ただの人間になって、それで――
「私、どうなってしまうのかしらね」
「俺に攫われるんだよ」
その声は軽やかに、透明感があり青年という印象を受けた。
(ああ、そうなのね)
あまりにも当然のように促され、メルデリッタは自然と頷いてしまうところだった。もう何でもいい。それでいい、構わないと項垂れていたはずだったのに。全ての無気力は、この発言で瞬く間に吹き飛んだ。
軽い口調で言われたけれど、自分しかいないはずの塔。誰も訪れるはずのない空間。ましてや訪れることなど出来はしない空間に他人の声がするなんて。
「誰!」
飛び起きて見回せば、開け放した窓へ視線が固定される。差し込む月明かりを背にして、宵闇に浮かぶ影。何者かが窓枠に腰かけていた。目を凝らすと、全身を覆う外套にフードを被っているようだ。
「ん? そんなに慌てることないよ。一応お邪魔しますくらいの挨拶はしたけど。あんた、寝てたからさ」
声音から察するに『彼』は、さらりと言ってのける。不法侵入の相手は、とても冷静だった。気軽に語りかけられるも、全然、全く、これっぽっちも知らない人だ。
「まあ正確には、寝てもらったわけだけど」
まるで思惑通りだとでもいう口調、聞き捨てならない表現だ。一拍置いて後、メルデリッタは理解すると同時に叫んでいた。
「ああっ! 甘い香りがすると思ったら、これラベンシア!」
「へえ、ご名答。褒美はあげないけど、詳しいんだね。ちょっと驚いた」
一応褒められたのだろうが、そんなことはどうでもいい。
甘い香りの正体はラベンシア。何処か懐かしく感じたそれは、メルデリッタにとっても馴染みの花が生み出す香り。
森で暮らしているのだ、草花には詳しい自身がある。現物はルビーが採取してくれたし、聞けば詳細まで教えてくれた。知らぬ草花はないとしても過言ではない。ラベンシアは睡眠誘発効果が強い花だ。効能も多く、薬物生成が趣味である身として頻繁に使用していた。別名、夢誘いの花。その名の通り、夢を見せる効果もある。
(や、やられた!)
得意分野で負けたような気がしてならない。なんだか、じわじわ落ち込む。
「手の込んだ真似をして、あなた誰です? そもそも一体どこから入って! だってここは――」
「はいはい。分かったから、落ち着きなよ」
うんざりといった様子であしらわれる。
(わ、私が悪いの?)
そうはいっても、これが落ち着いていられるはずもない。人を眠らせてまで何用だというのか。それも遥々、塔の上まで。おかげで色々と思い出してしまったではないか。
(これは悲鳴を上げるべきなのかしら? でも誰もいないし、誰か来てくれる見込みもないし。悲鳴上げ損よね。意味もなく叫んで変な女だと認識されても……)