王子との別れ
「もう、ルビー!」
眉を釣り上げたメルデリッタが窘めるも、反省する態度は皆無である。
「道に迷われたそうですが、災難でしたね。まあ、危険な森においそれと立ち入る人間が悪いのです。立ち入り禁止の文字、読めませんでしたか?」
「僕だって、好きで立ち入った訳じゃない!」
いくら外れだろうが領地の視察を――
難癖をつけられ、ここまで連れてこられた。隅々まで統治出来ずして、なにが次期国王かと叩かれまくった結果である。
「左様で。では、とっととお帰り下さいませ」
ルビーは、それがどうしたと言わんばかりの態度を改めようとはしない。口調は丁寧だが心底どうでもよさそうである。
「もう、せっかくのお客様に失礼よ!」
メルデリッタは腰に手を当て詰め寄るが、逆にルビーから腕を掴まれ詰め寄られることになった。
「いいですか、主様。男は狼、危険物なのですよ。確かに主様はお強い方ですが、わたくしは心配なのです。この男これから毎日、主様目当てにここへ通った挙句、孕ませる気に違いありません。なんと汚らわしいことか」
グレイスよりも身長は高く、見下されている感がよーく表れていた。深紅の瞳がゴミを見る如くだ、仮にも王子相手に。
「おい、僕は恩人に無体な真似はしない」
「信用致しかねます」
「なんだと!」
「用は済んだのでしょう。お帰りくださいますか」
ご丁寧に出口兼出窓を示されるが、グレイスに出て行く術はない。
メルデリッタは小さなため息を零した。これ以上続けさせては喧嘩に発展しかねないと、いよいよ覚悟を決めたらしい。
「グレイス様、私の使い魔が申し訳ありません。長くお引き留めしたこと、重ねてお詫び致します。どうぞこれを」
そう言って差し出された一輪の赤薔薇は、不思議な輝きを放っている。まるで道標のように、その存在から目が逸らせなかった。
「あなたの道に祝福が訪れますように。残念ながら神の加護ではありませんが、魔女の加護をあなたに。これがあれば、もう迷いません」
グレイスは引き寄せられるように手を伸ばした。
触れた花は熱を持つように温かく、艶やかな花弁は優しい少女の瞳と重なった。
「綺麗だ」
殆ど自然に口をついて出た言葉に少しキザだったかもしれないと反省するも、薔薇を褒められたと解釈したメルデリッタは素直に喜んでいた。
「はい。私もローズですから、お気に入りです」
そんな和やかな雰囲気をぶち壊すようにグレイスの足が宙に浮く。
「うわっ、おい! 放せ!」
ルビーが片手で襟を掴んでいた。
「ルビー、その扱いはちょっと……」
まるで猫のようだとメルデリッタは控えめに指摘する。
「まったく主様は、お優しいのですから。主様の手を煩わせる必要はないでしょう。わたくしが元の場所に返してきます」
捨て猫を拾ってきたわけではないのだが……。
ルビーは反論をまるまる無視して、すたすた窓へと歩き出す。
「わたくしとて主様であれば、両手で宝の如く大切に抱えて差し上げますが、このような人間風情を? 想像しただけで吐き気と寒気がいたします」
それは自分も御免だと密かにグレイスは同意してしまう。
ルビーの背に、蝙蝠のような黒い翼が生えた。この翼で窓から入ってきたのだろう。あっという間に塔の下まで人一人を運んでしまった。
ルビーはよほど気にくわなかったと見える。別れの挨拶も済んでいなかったメルデリッタは、慌てて窓から顔を覗かせた。
言葉通り元の場所(塔の下)に置かれたグレイスは、仕方なく声を張り上げた。
「メルデリッタ!」
「はい! あの、グレイス様、どうかお気を付けて」
もはや距離は遠く、夢のような出会いだった。けれどこの先グレイスが少女を忘れることはない。
残ったのは薔薇が一輪。折れないように、そっと握りしめ掲げる。
「また会えたら最大限お礼する! ありがとう、この恩は一生忘れない」
グレイスは一目散に駆け出した。不明瞭だったはずの足取りが軽く、どう進めばいいのか、知らないはずなのに足が勝手に動く。
戻るべき場所、成すべきことがある。立ち止まっている暇はなかった。