使い魔は見た!
「ここから出て行けば、逃げたとみなされるでしょう。それは不本意です。私は無実なのですから。大丈夫。良い子にしていれば、いつか家に帰れます」
それもまた、他人事のような響きだった。
「いつかって――」
「気にされる必要はありません。私、ここで元気に暮らしていますもの」
メルデリッタは膝の上で手を握りしめていた。早口で捲し立てられ、グレイスは悟る。きっと彼女にも分からないのだろう。けれど信じて待つことしか出来ずにいる。そしてこれは無責任に自分が口を挟んで良い問題ではないと。
「あの、グレイス様! 私、友達もたくさんいます。その……人ではないけれど、いつも歌を聴きに来てくれますし!」
よほど沈んでいるように見えたのか、年下の女の子に元気付けられるなんて、まだまだだ。
「御伽話で君みたいな子を助けるのは、王子である僕の役目だろうに。肝心の姫君は望まない、か」
グレイスは自嘲気味に笑った。
「私、御伽話は苦手です。王子様がいたら、逆に退治されてしまう。人の世で、魔女は悪者と決まって――」
急にメルデリッタは引きつった表情で固まった。
「……もしかして、王子様、ですか?」
「こんなところで立場も何もないけど、これでも一応、王子だよ」
「……退治しないでください! 誓って何もしてません!」
垂直に腕を掲げ、メルデリッタは無実を主張する。
「わかってる。君は悪い魔女じゃない。命の恩人、優しい女の子だよ」
「お上手ですね。グレイス様の方が優しいです」
互いに口元を緩め、弾んだ声が満ちていた。そんな微笑ましいやりとりを、非常に気に食わない面持ちで観察している者がいるとも知らずに。
「さて、随分と楽しそうなご様子ですが。主様、これはどのような状況でしょうか」
躊躇う素振りもなくかけられた声。陰る日差しに、気配なく割り込んでき男。
二人は同時に振り向き、グレイスは弾かれたように席を立つ。
「お前! 気配が無かった、いったいどこから!」
するとメルデリッタは睨みあう男たちの間へと割り入った。
「お帰りなさい、ルビー」
その口から紡がれたのは、ごく自然な挨拶。それを受けたルビーと呼ばれる男は恭しい動作でメルデリッタへ頭を下げた。
「主様、ただいま戻りました。本日は良質な旬の野菜を仕入れてまいりました。というのは、この場において些末なことでしょう。誰です、その男は!」
「こちら、王子のグレイス様。道に迷われたそうなの」
動揺しているルビーを落ち着かせようと、メルデリッタは穏やかに告げるが、ルビーは紹介されたばかりの王子には目もくれず部屋へと視線を巡らせている。
窓辺に置かれた水が汲まれた痕跡の残るバケツ。
椅子にかけてある使用済のタオル。
テーブルに用意されている温かな飲み物。
「なるほど。それとなく状況は呑みこめました」
メルデリッタと同じ瞳と髪の色、まるで兄妹のようだと感じたグレイスだであったが、即座に考え違いだと頭を振った。似ても似つかぬほどルビーの眼差しは鋭い。
「どうやら主様にお教えした、勘違い野郎撃退法を実践される機会があった様子。ですがその後、親切にも部屋に上げる必要はないのですよ」
怖っ!
グレイスは心の底から叫びたかった。ガンをつけるなんてものじゃない。視線で射殺されそうだ。
「グレイス様、ご心配なく。私の使い魔、ルビーです」
「わたくし主様と契約を結んでおります、ルビーと申します」
言葉こそ丁寧であるが、視線は丁寧なんてものではない。殺る気満々で不安要素しかないだろう。
人間離れした美しさ、とでも表現すればいいのか。そもそも使い魔と紹介されている辺り、人間ではない可能性が大きい。名前通りの深紅の瞳、漆黒の髪。執事のような身なりで、すらりと伸びた手足を黒が引き立てている。そして見惚れるような切れ長の眼差しがなおもグレイスを睨み続けていた。
「グレイスだ」
臆することなく名乗れたのは、王子のプライドあってのこと。
「ああ、そうですか。今後一切お会いする予定がございませんので、覚えるつもりはありません。無論あなたのような存在が、わたくしの名を覚える必要も微塵もございません。むしろ、虫唾が走るので即刻お忘いただきたい。この挨拶は主様の顔を立てた社交辞令にすぎません。わたくしの存在は主様のみが、そのお心に記憶してさえいればいいのです」
興味はなさそうなのに、それでいて長い嫌味だった。