夜に咲く花
「あら、今お帰りなのね。随分長く頑張っていたみたいだけど、執筆は捗った?」
本を片付け終え、帰宅間際のメルデリッタは入口付近で司書に捕まった。
「ご親切にありがとうございます。とても、参考になりました」
「それは良かった。また、いつでもいらしてね」
さらには見送りまでされてしまった。
(せっかく親切にしていただいたのに、申し訳ないかも。ならいっそ、本当に物語でも書いてしまおうかしら。書くとしたら……魔女が幸せになる物語、なんて素敵よね)
でも幸せとは何だろう?
(年長の魔女たちは、魔女であることこそ幸せだと言う。でも私は、魔女で幸せだった?)
無実の罪で拘束され、同族から憎まれ。矜持や誇りは、幸福と同義ではない。
(閉じ込められて、寂しくて。誰も信じてくれない毎日が続いて)
それを幸せと呼べるわけがない。魔女であった十六年を不幸だとは言わないけれど……。
ならば今はと考えてみる。外の世界は広く、誰もメルデリッタを恐れない。温かく夢のよう、束の間の――
(そうだ。私は今、幸せなんだ)
その言葉はすんなりと心に沁みわたる。全てを賭けてまで魔女に戻りたいと願ったくせに、人間である方が幸せだなんて滑稽だ。
(いっそ、このまま――)
決して望んではならない考えが頭を過ぎる。
「駄目よ! 私、何を考えて……」
口にするも恐ろしいそれは、ルエナへの裏切りだ。彼の力で居場所を得たメルデリッタに許されるはずがない。
(たとえ今が幸せだとしても、私は魔女に戻るの。戻らなければならない)
それは義務なのだと言い聞かせ、小さく拳を握った。前世と同じ過ちは犯さない。そしてルエナとの約束も守るという決意だ。
「にゃ、にゃー」
まるで呼ばれているような猫の鳴き声に周囲を見渡す。
「あ、メル!」
「ひっ!」
人生最大級の悲鳴を上げずに済んだのは、ルエナのお陰だ。息を吸い込んだところで口を塞いでくれた。けれど元凶を作り出したのも同一人物である。
「な、な、何なんですか、あなたは!」
解放された口をパクパク動かしながら、メルデリッタは高速に音を立てる胸を宥めようと必死である。酸素まで足りなくなってしまったようで、今ならマイスの気持ちがよくわかる。
(この人、意地が悪い!)
「あはは、驚かせたね。図書館に行ったと聞いて、追いかけて来たんだ」
「何か用事でしたか? もう帰宅するところですよ」
「出掛けよう」
「えと、今からですか?」
「そ、女の子一人だったら危ない時間になるけど、俺も一緒なら問題ないよね。二人には遅くなるって伝えてあるからさ」
じきに太陽は沈んでしまうだろう。こんな時間からどこへと問い掛ければ、着いてからのお楽しみとはぐらかされてしまった。
商店が立ち並ぶ大通りを、ゆっくり進む。
歩幅を合わせてくれているのだろう、本来のルエナはもっと足早だ。これまでその背を追い続けたのでよくわかる。
連れてこられたのは公園で、察するにアンが話してくれた観光名所だろう。
「もしかして、ここに最古の魔女が住んでいるとか?」
「それはないでしょ、ここ観光地だし」
「そ、そうですよね」
メルデリッタは、いまいちしっくりこないでいる。まだ疑問符を浮かべていた。
「分かってなさそうだから言うけど、普通に観光しに来ただけだよ」
回りくどい言い方では伝わらないと観念したのか、ルエナは率直な言葉をくれた。
「え、どうしてですか!」
「時間が出来たから、君に見せたかった。それだけ」
そう言って、眼前に広がる花を見るよう促される。
奥に進む間、なおもメルデリッタは連れてこられた目的を考えていた。どうしてもルエナの真意が掴めないのだ。
いかに有名な観光名所だろうと、花に意識を傾ける余裕などなかった。そもそも夜に花など見えないだろう。動物たちを起こすのは忍びなく、夜の光景はあまり見たことがない。鏡に映しても暗闇では面白もみなかった。
けれど呼びかけられて顔を上げれば、促された光景は幻想的に尽きる。
宵闇に浮かぶ無数の灯り。計算された場所に置かれているのか、互いに干渉することなく周囲の花を存分に照らしている。
野に咲く物だけではない。木に芽吹いた蕾も満開だ。風に揺られ、花弁が踊っている。
「うそ……。私、こんなの初めてです!」
光に彩られた花が美しいなんて初めて知った。あの花の名前も、その隣に咲く花も知っているのに、こんな風に観賞したことはない。
「お気に召したかな」
聞かなくてもわかっていると言わんばかりの声音だとしても、礼はしかと伝えておかなければ。
「はい、とても! 連れてきてくれて、ありがとう」
未だ感動から抜け出せないメルデリッタは、幼子のように瞳を輝かせていた。




