アンの想い
アンは顎に手を当て、唸ること数回。
「んー、メルも知ってるだろうけど、お優しい人かな! 私たち親子も旦那様に助けられたくちよ。私の父さんは暴力を振るう人でね。母さんと二人、この街まで逃げてきたの。でも行き場なんてなくて、路頭に迷っていたら旦那様が助けてくれたわ。行くとこがないなら、住み込みで働かないかーって」
アンの顔は夕陽に照らされていた。何でもないことのように告げられているのに、その表情はどこか切なげにも感じる。
「そんなことが……」
メルデリッタは言葉を失った。暴力を振るわれた経験はないけれど、それはきっと辛いことだろう。心も体も痛いはずだ。イザベラもアンもそんな素振りは微塵も感じさせなかった。明るさに溢れており、メルデリッタは二人を羨んだ。そんな過去があるなど考えもせずに。
「辛かった、のね……」
もっと気のきいた言葉をかけられればよかった。こんなものは、ただ過去に同情するだけの発言で、そんなことも出来ない自分が歯痒い。
「ああ、もう大丈夫よ。そんな悲しそうな顔しないで!」
「でも!」
なおも言い募ろうとするメルデリッタに、アンは優しい笑顔を浮かべる。
「メルには私が不幸に見えるの?」
責めるような問いかけではなく落ち着かせるように首を傾げている。
「いいえ、そんなことない! アンは……元気で明るくて、笑顔で、私には眩しいの。だから私は、そんなアンが羨ましいと思っていた」
「羨ましいって……うーん」
アンは目を覆う。
表情が隠れ、メルデリッタは足場が崩れ去るような気分だった。気の利かない自分に幻滅しているのかもしれない。せっかく出来た友達に呆れられてしまったら、しばらく立ち直れない気がする。それどころか、このまま友達を辞めようともちかけられたら? 立ち直れないどころか、泣きわめきそうだ。結果として、メルデリッタの想像は杞憂に終わる。
「それ私のセリフなんだけどね。メルってば、美人でお姫様みたいだし。旦那様にも――って、まあこれはおいといて」
仕切り直しとばかりに咳払いを一つ。
「ねえ、聞いて! 私はお姫様じゃないけど幸せだよ。気まぐれな旦那様がいつ帰ってきてもいいように家の管理を任されて、寝食付きの有り難いお仕事にも恵まれてる。メルが不安がる必要、ないんだよ。だから笑ってなさい。あんたはお姫様なんだから笑顔が一番。ああ! お優しい旦那様は、まるで王子様だものね」
メルデリッタは瞬いた。
「私、お姫様ではないわ。それにルエナが王子様? 彼は王子なの?」
ちょっとした例えのつもりが、あやうく本気で信じかけられたのでアンは焦って訂正する。
「いやいや、違う違う! 物の例えよ。あのね、女の子にとって自分を助けてくれる人は、誰だって王子なの。そして誰もが王子様に恋をするお姫様ってだけの話」
「それは、アンも?」
失言だった――
アンの表情はくるくる変わる。今もまた、しまったと言わんばかりの表情で口を噤んでいた。
「あ、あー……まあね。だ、だって考えてみてよ! 路頭に迷ってるところ、颯爽と助けてくれたのよ。あの時の旦那様、とても素敵だったわ。惚れるに決まってるじゃない。私の初恋だった」
アンは恥ずかしそうに頭をかく。染まった頬は夕陽のせいか判別出来ない。
「でも勘違いしないで。だった! 過去よ、過去系。今は尊敬する旦那様としか思ってないから。そもそも旦那様が、あたしなんて相手にするわけないじゃない。メルが心配することは何もないわよ!」
「心配って?」
必死に説明しているのに、メルデリッタは何食わぬ顔で首をかしげる。
恋人が取られる心配はないのだろうか、それとも絶対の揺るがぬ自信があるのだろうか。アンは勝手にメルデリッタの懐の深さに関心していた。
「だーかーらー、あたしが二人の仲を裂いたり、横やりを入れることはないって言ってんのよ。そりゃ、旦那様が女連れで戻ったって聞いた時は、やきもきしてたけどね。でも嫉妬っていうより、あたしらの旦那様に変な女が取り入ってたら成敗してやるんだからっていう、親心みたいな?」
「う、うん?」
「何度か女が訪ねてくることはあったけど、あたしのカンでは恋愛って感じじゃないわね。そっち方面マイスは鈍いけど、あたしはカンが効くんだから! 信用なさい」
「そ、そう?」
「そうよ! だからメルは胸をはっていなさい。私も母さんも、メル押しなんだから! こんな可愛くていい子、応援しないはずないわよね」
ひとしきり語り終えたアンは「あ、これください」と目的の品を入手し始める。なんでもルエナの気に入っている茶葉なのだとか。
それはそうと……。
(どうしよう……。今さら、何の話か聞ける雰囲気ではない、わよね)
ルエナについて質問していたのだ、そしてアンの過去を垣間見た。気の利かない自分が嫌になって――その流れは、しかと心に刻んでいる。
けれどその後、どこをどう流れたのか。アンは納得して切り上げるも、最終的にメルデリッタは会話を見失っていた。
申しつけられた市場での買い物を終え、メルデリッタも荷物持ちを手伝っている。そうはいっても、力なら絶対あたしの方があると殆どはアンに奪われた。
平坦な大通りを抜ければ、もう家までの距離は近い。
軒先に飾られている花を堪能していたメルデリッタは、唐突な話題に反応が遅れた。
「メルはさー、旦那様を怖いと思ったことある?」
アンは表情を消し、前を見ている。そうしなければならないような衝動に駆られ、メルデリッタも倣った。
ここに至るまでの道行きを思い返す。
「意地悪とか、失礼だとか感じはしたけれど……怖いとは少し違うわよね。そういう感情を抱いたことは、ないと思うわ」
塔から連れ出される過程には戦慄したが、本人に抱いた怖れとは違うだろう。
物騒な仕事は知っている。その現場を見たことがないという甘えかもしれないが、不用意に人を傷付けることはしないだろう。
雇い、雇われの関係ではあるが、メルデリッタは自分が思うよりも深くルエナを信頼しているのだと実感した。
当然付き合いの長いアンも同じだろうと考えるも、彼女の答えは違っていた。
「あたしは、あるよ……。あの方は遠くて、怖い。いつもどこか遠くを見てる。長い付き合いだけど、近付けるとも思えないわね。そういうところが、ちょっと怖いかなーって。底が知れないっての? でもねメル、あんたと話している時は違うのよ」
「えと、私?」
さらに急に水を向けられては、驚き足を止めてしまった。互いに前を向いておりアンは気づいていない。メルデリッタは慌てて開いた距離を埋めに走った。
「やーっぱ本人にはわかんないかな。旦那様、とても楽しそうにしてるのよ。あんたは、あの旦那様が初めて自分から連れてきた人、もっと自信を持つべきだわ。あたしも母さんも絶賛応援中なんだから!」
ドン――強く背中を叩かれ、メルデリッタは少しだけよろめいた。多分、元気づけようとしてくれたのだろう。だが自信とは? そもそも何をどう持てばいいのか、ふに落ちないまま玄関を潜っていた。




