一
「あー、であるからして〜」
四月の柔らかな日差し降り注ぐ御名方高校一年一組の教室に、初老の教諭のしわがれた声が響く。真面目に聞いている生徒は、半分いるかいないか、といったところだろう。
その少年は聞いていない方に属し、今は窓の外に視線を投げていた。
グラウンドでは別のクラスが体育の授業中だ。どうも短距離走の記録会のようなことをやっているらしい。
少年は男にしては髪が長い。左右に流している前髪は鼻っ柱にかかるくらいある。耳が髪で覆われているのは嫌いで、耳は出ているものの、後ろ髪は肩口あたりまであり、後姿はもとより、顔立ちも女性的で、前からでも少女に見間違えられることがある。
黒のズボン、反しの襟元と袖口や裾に赤いラインの入ったブレザー、ネクタイは赤と、ホストのような格好に見えなくもないが、それが御名川高校の制服だ。女子は赤地チェック柄のプリーツスカートとなっている。
「ねえ、桐島君」
右手側に位置する別の少年が、その少年――桐島由宇の背中を、教諭の目を盗んで突付いた。
「ん?何だよ高坂」
高坂と呼ばれた少年は、童顔によく似合うくりくりとした目を輝かせている。
由宇は知っている。この高坂昌信という、どこぞの戦国武将と同姓同名の友人がこの目をしている時は、由宇の知らないであろう情報を話す時だ。
「ほら、今から走る子、見てなよ」
「ほう?」
言われて、再び視線をグラウンドへと戻す。
由宇はこの高校に入って最初にできた友人が、噂話や各種様々、多岐にわたる情報に関して精通していることを、入学式からまだ二週間と経っていないうちに、これでもかと思い知らされている。
中にはまったく興味のない事柄も多かったが、それでも高坂の情報の精度は極めて高く、またその情報を教えようとする時の高坂の楽しそうな、嬉しそうな顔が嫌いではないので、今こうしているように、高坂が教えようとするままにするようにしている。
白線によってグラウンドに作り出された短距離走用のトラック、そのスタート位置に二人の女子生徒が、一人は面倒くさそうに、一人は楽しそうについた。
「奥の、茶髪のショートの子、あの子」
小声で、高坂が言う。由宇は視線を言われるまま、ショートカットの女子生徒に移す。遠目でよく分からないが、その仕草からして、活発そうな子かな、と感じる。
ピッ、と体育教諭が口にする笛が短く鳴るのと同時に、二人の女子生徒が駆け出した。
面倒くさそうにしていた女子生徒は、見るからに手抜きしていたが、高坂が見ろと言ったショートカットの女子生徒は全速力で駆けた。その速さは目を見張るほどで、帰宅部である彼がたまにグラウンドで見かける陸上部員よりも、格段に速く見えた。
「はあ〜、凄いな。前世は馬だったのかね」
思わず漏れた由宇の呟きに、高坂は含み笑いで答えた。
「彼女、同じ一年なんだけど、体育の授業でソフトボールやったときは全打席ホームランを打ったり、バスケットボールのときはダンク連発、走ってもあんな感じで、スポーツ超万能少女なんだ。各運動部からひっきりなしに勧誘されてるらしいんだけど、まだどこにも入部してないんだって、もったいないよね」
「他にやりたいことがあるんじゃないの?」
長々とした説明に、一言で返す。
最初の頃、興味のない情報を延々と教えられたときに、思わず素っ気なく返答してしまったことがある。しかし高坂は気にする素振りはゼロで、気を悪くした風もなく、矢継ぎ早に次の話題を切り出し…という事があってから、由宇も相槌の言葉の長短を気にしないことにした。
「桐島君がバンドをやりたいように、ね。それはありそうだね。取材でもしてみようかなぁ」
「おお、頑張れ、新聞部のエース」
「そんなのないってば」
苦笑する高坂に、由宇は笑顔でばしん、と一つ肩をはたき、
「あ〜、そこの二人。私語は慎むように」
教諭のしわがれた声に、二人は肩をすくめることによって答えた。
昼休みになり、由宇は自前の弁当箱を開いた。
「相変わらず美味しそうだね」
三つの机を寄せて、顔を付き合わせる一人、高坂が弁当の中身を覗き込む。
「違う、美味しそうなんじゃなくて、美味しいんだ」
「桐島、将来いいお嫁さんになれるぜ」
顔を付き合わせるもう一人、軽薄そうな茶髪の少年、東田昭史が購買で買ったパンの包みを破りつつ、けたけたと笑う。
「ああ、俺も最近そう思ってきた。玉の輿に乗れるかな?」
「イケルイケル、もうちょっと趣味を大人しくすれば、どっかのお嬢さんつっても通用しそうだしな」
ともすれば少女に見える由宇、ただでさえ子供なのにさらに子供に見える高坂、軽薄そうに見えて中身も軽薄な東田、この三人は性格も違えば趣味も違うし、それぞれ出身中学校も違ったが、不思議とすぐに仲良くなった。
「そういえばうちの担任の田嶋先生」
昼休み、食事中の会話の口火を切るのは、大抵が高坂だった。情報好きなだけでなく、話し好きなようで、放っておけばいつまでも喋る。
「おお、あのド美人、なんかマスクデータでもあった?」
食いついたのは東田。担任の田嶋先生というのは、東田が言うようにかなりの美人で、この学校で知らない者はいない、という程の有名人であり、明るく気さくな性格も手伝って、男子生徒のみならず、高坂の伝えるところによれば、男性教諭からも人気が高いらしい。
「あの切れ長で知的な目元に、泣きボクロ。卑怯だよなぁ。スタイルも抜群だしな〜」
パンを両手に振り振り、東田は年上に憧れる一少年の心象を代弁する。
「胸なんて、そのうち垂れてくるだけじゃないか。大きければ大きいだけ、年とった時に酷いことになると思うけどな」
由宇は苦笑しながら、弁当箱を眺めて、どれから手をつけたものかと悩む。
「桐島、女は胸だよ、胸!分かってないなぁ」
「まあ、それについては個人的趣味の相違ということで…」
やたらと興奮する東田をとりあえず他所に、由宇は目で高坂に話の続きを促した。
「うん、その田嶋先生ね、クリスチャンなんだって。ほら、西中のあたりに教会あるじゃない?毎週日曜日、ミサに通ってるんだって」
「へえ、その情報はどこから?」
「その教会の子が、三組にいるんだけど、その人から聞いたんだ。たぶん間違いないよ」
由宇の誘導に、高坂が破顔して答える。
「あのド美人が教会に…こ、今度見に行こうぜ!」
東田が手にしたパンを握りつぶさんばかりに興奮するのを見て、由宇はご飯を口に運ぶ途中で箸を止めて、
「教会ねえ…賛美歌なら興味あるけど」
と呟いた。
「はあ、桐島はなんでも歌に繋げるなぁ。もうちょっとこう、健全な十五歳の男児らしく、異性というものに目を向けてだなぁ、んん?」
ため息混じりに東田が首を傾げて、由宇の顔を下から覗き込む。
「お前が興味を持ちすぎなだけだって。俺だって、人並みには興味を持ってるよ」
由宇は口で言うほどに気のない素振りで、弁当箱の中、銀紙の器で他の食材から隔離されたほうれん草のお浸しを摘み上げて、口に運んだ。
「へーえ、じゃあ今の桐島の興味対象は誰なのかなぁ?」
「べ、別に誰だっていいだろ」
咀嚼しつつ、さらに顔を五センチほどにじり寄せてくる東田から、身を反らせて距離を取る。
「いいじゃないか、減るもんでもなしに、教えろよ」
ほれほれ、と言わんばかりにニヤついた笑みを浮かべる東田に、由宇は口の中のほうれん草を飲み込んでから、恥かしさから顔を赤らめ、
「俺のは減るの!」
と言い放った。それを受けて高坂は丸い目をさらに丸くして驚き、東田は由宇以上に顔を赤らめながら、姿勢を正した。
「そ、その顔で、そんな声で、そんなセリフを、恥かしそうに言うんじゃねえよ、思わず萌えそうになっちまうだろが!」
友人の危険な発言に絶句する由宇を他所に、高坂はころころと声を立てて笑った。
「…お前、そっちの気もあったのか」
やや間を置いてからようやく、リアクションを取ってちゃんと冗談にしておかないと、場の空気が変えられないと察して、由宇は顔をしかめつつ弁当箱を自分に見立てて、東田から遠ざける。
「桐島君の気になる人、当ててみよっか」
さらにそのネタが広がる前に、高坂が文字通りのニコニコ顔を浮かべた。
「当てなくていい!」
「おっ、流石ボクラの情報通、目星は付いてるのか!」
「由宇、授業に飽きるとすぐ窓側を見るじゃない?しかもやや後ろ」
にっこり微笑む高坂に、それを聞いて、あちゃー、とわざとらしく額に手をやる東田。由宇は二人を恨めしそうに交互に睨んでから、
(この二人、絶対分かっててやってるんじゃないのか?)
ほぼ確信めいた疑問を心の中でぼやいた。
「窓辺の毒薔薇か」
何の異名かと思わず失笑したくなるような語句を、東田は演技がかった口調で重々しく言い、高坂は嬉しそうに頷く。
窓辺の毒薔薇とは、三人のいる一年一組のクラス内のみならず、学校内でも有名なとある女子生徒のニックネームだった。
一年一組の窓際の最後方に座する雨宮沙希を見た者は、男であれ女であれ、美的感覚が常識の範疇から余程逸脱していない限り、誰もが認めるであろう美少女だった。
腰まである黒い髪は艶やか、眼鏡に隠れた目元は凛としていて、それを飾る睫毛はマッチ棒どころか鉛筆でも乗りそうなほど長く、やや小ぶりな唇は濃い桜色。
少し痩せ気味で肌は雪のように白く、健康的というのではなく儚げな美しさで、人間離れする寸前のその雰囲気は、どこか病的な美しさと言えた。ただ一つ、欠点があるとすれば、冷然としているというべきか、周りに対して壁を一枚置くかのように、冷めたところがあった。
しかし、冷めていようがいまいが、そんな少女が身近にいれば、奥手でもない限りあれこれとアプローチをするのは当然の事だった。
「あ、雨宮さん、もしよかったら、学校終わったら映画―」
いつぞやの昼休み、自らを奮い立たせて声をかけた男子生徒に、雨宮沙希は言い終わる前に一刀両断。
「うるさい。黙って」
絶句するクラスメイトを他所に、雨宮沙希はカレーパンと牛乳を友に、手にした文庫から視線を上げることなく、黙々と読書を進めた。
いつぞやの朝のホームルーム前、言い寄る男子生徒をばったばったと斬り捨てていくのを見かねた学級委員長の少女が言った。
「ねえ、雨宮さん、いつも本を読んでいるけど、もうちょっと皆と仲良―」
「うるさい」
とびきり不機嫌な目と声とで完封。
そんな具合で雨宮沙希はクラスメイトの誰とも仲良くしようとせず、いつしか付いたあだ名、それが「窓辺の毒薔薇」だった。幸いな事に、由宇は自分が犠牲者になる前に、雨宮沙希の正体が判明したため、その毒気を直接浴びたことはない。
「ありゃあ、言葉のまんま、猛毒だぞ」
東田が深いため息とともに、女みたいな顔をした友人に忠告する。
「田嶋先生も凄い美人だけど、雨宮さんは別次元の美人だよね」
高坂は由宇に確認でもするように、視線を向ける。
「見てるだけなら、毒も関係ないだろ」
由宇はしれっと言って、漬物を口に放り込んだ。実際、気になる、という程度で、恋心を抱いているとかそういう事実はなかった。が、こう二人に突付かれるのは、正直あまり愉快には思えない。
「ま、いつも本読んで黙りこくってるし、桐島には似合わないな」
東田は他人事の愉快さを心底から楽しんでいるような、人の悪い笑みを浮かべた。それでも憎めないのがこの東田という男の美点で、クラスの誰からも等しく好かれている(例外は約一名いるが)のだった。
「だからなんとなく目がいくだけで、そんなんじゃないって」
「なんとなく目がいくってだけでも十分だ」
由宇の本音は、言い訳にしか聞こえないようだった。
放課後になって、帰宅部である由宇と東田は、駅前にあるゲームセンターにいた。
少ない小遣いで何をやるかひとしきり悩んでから、二人はアップライト筺体のコンバットシミュレーション、要するに戦闘機のゲームをプレイしたり、やり慣れた格闘ゲームをプレイしたりと、長く遊べるゲームを中心に、あれこれと遊んだ。
十六時近くになると、二人は言い合わせたわけでもないのに、自然と店を出た。
「ったく、立川の奴、これでもかと宿題出しやがって、こんないたいけな少年少女をいびるのが趣味なんじゃねえのか」
自動ドアを抜けながら、背伸びをして、東田はこれから家に帰ってそれを処理する様を思い浮かべて、分かりやすいほどに意気消沈した。
「あ、いけね。教科書、机の中に入れたままだ」
その言葉で、由宇はそれを思い出して、鞄をまさぐりながら呟く。
「なんだよ桐島、お前ってそんなチャレンジャーだったのか」
「ド忘れだよ」
「そーかい。じゃ、俺は先に帰って、姉貴にでも教えてもらうとするか」
「いいなあ、大学生のお姉さんだっけ?」
「ああ、いっとくが、姉貴は年下には興味ないと思うぞ」
あからさまに警戒するような素振りの東田に、由宇は眉根を寄せながら呆れてみせた。
「…別にそんなんで聞いたんじゃないんだけどね…ま、それじゃ、今日はここで」
「おう、また明日な」
手を振りあって、二人は分かれた。
(学校の門限は何時だったかな…確か十八時くらいだったと思うけど…急ぐに越したことはないか)
由宇は落ちかける陽を眺めながら、そんなことを考えて、少し早足で学校へと戻る。
駅前はまだサラリーマンの帰宅時間ではないため、夕飯の材料を買い込んだ主婦や、自分と同じような学生などばかりだ。
普段は駅前で遊んだあと線路沿いを歩いて帰るところを、また学校へ戻る、ただそれだけの事だったが、由宇は奇妙な違和感を感じていた。何か現実がズレていくような、違うところへ踏み外すような。
ただいつも日が暮れる前に見ていた景色が、夕陽に赤く染まっている、ただいつもとは逆方向から歩いている、それだけなのに。
(考えすぎか)
由宇は歩きながら、そんな変なことを考えていることに、自嘲的な笑みを浮かべた。
学校に着くと、運動部もほぼ全員帰っているのか、正門をくぐった先は静寂に包まれていて、閑散としてた。
白い校舎は夕陽によって真っ赤に染まっていて、見ようによっては綺麗だったが、不気味さも感じられる。普段見慣れた風景が、色彩から雰囲気から違うのだから、不気味にも思えるのだろうか。
文化系の部員だろうか、ちらほらと校舎から生徒が出てくる。
由宇は校舎へと向かっていくためか、その生徒たちの視線を一通り受けた。興味本位、奇異の眼差しだろうか、それとも忘れ物をしたという事実に偶然行き当たったのだろうか。
(あまり気持ちのいいものではないなぁ…ま、これを教訓に、今後は学校に忘れ物をしないように気をつけるか)
精神的な疲労を覚えながら、下駄箱で上履きを突っかけて、教室へ向かう。
御名川高校の校舎は一年が一階、二年が二階、三年が三階という、分かりやすい区分けがされており、由宇の所属する一組は、校舎に入って左側の突き当たりにある。
「――――――」
「ん?」
誰かの声が微かに聞こえた。
(まだ誰か残ってるのかな)
首を捻りつつ、廊下を進んでいく。
廊下も外と同じく、夕陽によって赤々と照らされている。
心が落ち着く柔らかな赤。そのはずなのに、今日は何故かそれが不愉快な色に見えた。
(…なんだろうな、別に疲れてるわけでもないのに)
それも気になったが、ぽつぽつと進むにつれてはっきりと聞こえるようになってきた、声、歌声が気になった。
「ララ――――――」
綺麗な声だった。今までに聞いたことのない、透き通るような、それでいて芯の強い凛とした女性の歌声だった。ややファルセット気味で、オペラ的な歌声。
その歌声を聴いていると、不愉快に思えた赤い廊下も、神秘的なものに見えてくるのだから、不思議に思わずにはいられない。
旋律は悲しげで、しかしそれも乗り越えるべき悲しさを歌っている、というように感じられる。きっと、歌っている女性は、歌声のように透明感がありながら、心根の強い人なんだろう。
(雨宮…沙希?)
ふと、窓辺で不機嫌そうに授業を受ける雨宮沙希の顔を思い浮かべた。
儚げながら凛とした眉目の雨宮沙希と、その歌声のイメージがぴたりと一致した。
(声すらろくに聞いたことないのにな)
苦笑しながら、足を止めた。目の前には教室の扉がある。
由宇は扉を開けようと手を途中まで上げて、少しばかり躊躇った。
もう少し、この歌声を聴いていたい。
開けたら歌声は止まってしまうだろう。
人を前にして歌うことを恥じる人もいるし…
逡巡している間にも歌は止め処なく歌い続けられる。
何かの曲を歌っているわけではないらしく、同一性のないメロディが、つらつらと流れるように続いていく。それはときに物憂げになり、刹那的な煌きを放ち、闇に彷徨うような寂しさを内包する。
ふと気が付けば、由宇は涙を一筋、流していた。
頬を伝うそれの感触にしばらく気が付かず、顎のあたりまで流れてきてようやく気が付いた。
制服の袖で涙をぬぐい、それをきっかけにして、扉をゆっくりと、なるべく音が立たないように開けた。
それでも学校の扉というのは、わざとらしいほどガラガラと音を立てるように作られているのか、音は立った。
歌声がぴたりと止まる。
夕陽により赤く染まった教室にはその少女の他には誰もいなかった。
机の上に膝を抱え込むようにして、こちらに背を、黒く長い髪を見せ付けるようにして。
少女が振り返った。眼鏡が夕陽にきらめいて、由宇は一瞬だけ目を細める。
「雨宮――さん、か」
射るような視線を受けて、由宇は声を発した。
「き、綺麗な歌声してるんだね、思わず聞き惚れたよ」
なんとか言葉を続けながら、由宇は教室へと踏み入って、ちょうど教室の真ん中に位置する自分の机へと歩く。その間も睨まれているわけではないが、視線を注がれる。
机の中から目当ての教科書を取り出したのとほぼ同時に、背後で扉が閉まった。振り返ると、雨宮がいなかった。
由宇はとっさに、教科書を鞄にねじ込みつつ、教室を急いで出た。
廊下に、雨宮の後姿があった。
「あ、雨宮さん、ちょっと待ってよ!」
由宇は声を上げたが、雨宮沙希は気にもせずに歩く。
(流石、窓辺の毒薔薇)
内心で苦笑しながらも、由宇は小走りに雨宮を追いかけた。
すぐに追いついたが、真横に並ぶと雨宮が、夕陽に染まる世界にいる雨宮沙希があまりにも美しく、息が詰まりそうになってしまうので、情けないなと思いつつも、由宇は半歩遅れる形を取った。
「雨宮さん」
声を間近でかけても、反応する素振りを見せない。
下駄箱で背中合わせになりながら靴を履き替えて、校舎を出て、校門を出て。その間に、
「歌、物凄く巧いね。同い年であれだけ巧い人、聞いた事がなくって、びっくりしちゃったよ。
気が付いたら涙まで流れてて、あんなの生まれて初めて経験したよ」
「あれって即興?あんなにメロディがつらつら出てくるなんて、凄いセンスしてるね」
「俺、ギターやってて、曲を作ったりもしてるんだけど、あんなにメロディがほいほいと出てこなくってさぁ」
由宇はあれこれと話しかけてみたが、全て華麗に無視された。
それでも由宇はなんとか反応を得ようと、駅へと向かう道すがら、一方的に話し続けながら歩いた。
話のネタは、音楽ばかりでもつまらないだろうと、クラスメイト――主にあの二人の事になるが――をだしにしたが、まったくの無反応が繰り返された。
再び駅前の繁華街へと入るあたりになると、無視されているとしても、そろそろ本当に言いたい事を言っておいた方がいいな、と、由宇はどう言おうかと頭を捻った。
「なあ、俺、バンド作ろうと思ってるんだけど、歌わないか?」
結局、頭を捻ったところで、ありきたりな言葉しか出てこなかった。
言葉遣いに遠慮というものがなくなり、東田や高坂と話すようなものになっていたのは、意識したものではなくて、ただ話しかけているうちに面倒になったからだった。
そこで雨宮は初めて歩みを止めて、振り返った。
由宇は返事を期待したが、雨宮が悲しそうで苦しそうな目をしているのを見て、驚いた。
話しかけ続けたことが苦だったのかとも思ったが、そんな思考も雨宮の一言で停止した。
「貴方、これ以上ついてくると、死ぬわよ」
「へっ?」
雨宮は物騒な呟きを残して、目の前にあった路地へと駆け込んだ。
急に速く動くものだから、消えたように錯覚しそうになる。
由宇は一瞬、躊躇したが、すぐに後を追いかけた。
バンドに誘うとか、そんな事は関係なくなっていた。
悲しそうな、苦しそうな目をして、呟いた。
その目が、助けを求めているように見えてしまった。
(そんな目をした子を放っておくほど、馬鹿じゃないからなぁ)
路地はビルとビルの間、幅は三メートルほどと、さして狭くない。
小さな雨宮の背中は、それほど遠くに行っていなかった。路地を二十メートルほど入ったところで、立ち尽くしていた。
「雨宮さ、どうしたんだよ…なんか悩んでる事でもあるんなら、俺でよければ相談に乗るぞ」
すぐに追いついた由宇は、言葉を選びながら、少し照れながら雨宮の肩に手を置いた。
「貴方、馬鹿ね」
雨宮は振り返りもせずに、再び呟いた。それと同時に、視界がぐにゃりと曲がった。
「えっ!?」
由宇は驚き、雨宮の肩に乗せていた手を離し、そのまま自分の顔へ当てた。そうすれば収まるのではないかと、本能的にそうしたが、その歪みは収まらない。
視界は渦を巻いていく。
酷い眩暈を起こしたようで、嘔吐感がこみ上げてくる。
「な、なんだ…」
しかし意識ははっきりとしている。空間が歪んでいくのに、自分の感覚が付いていかない、そう感じられた。が、空間が歪んでいくとは、いったいどういう事なのか。
あまりにも気分が悪くなって、由宇は両手を地面に突いた。
まともに立っていることができない。
目を閉じても、渦を巻くのが分かるのだから、どういうことなのか考えることすらできない。
キリキリと、こめかみを締め上げるような痛みが脳に突き刺さる。
「が…あぁっ」
苦痛の声をあげると、口腔内が刺激を受けて、嘔吐感が増す。
「ぐうぅぅぅっ」
歯をへし折らんばかりに食いしばる。
これ以上続けば、気が狂ってしまう、と思った瞬間、渦巻く感覚は嘘のように消えていた。
「あ、雨宮…?」
気が付けば、フルマラソンを走った直後のように息はあがり、全身びっしょりと汗をかいていた。
由宇は呟きながら、力を振り絞って顔を上げる。
灰色の世界。
景色自体は何も変わらない。ただ、色彩が薄く、例えるならモノクロのテレビを見ているような、そんな感覚。
自らの呼気すら感じられる、静寂を通り越した無音。
目の前には、そんな灰色の世界にも動じず、直立する雨宮の背中があった。
「死にたくなければ、動かないことね」
雨宮がざっと髪をかきあげると、雨宮の周りにある空気が揺らいだ。
由宇はピリピリと肌を突き刺すような圧迫感を雨宮の背中から感じながら、完全に停止しかけた思考回路を、何とか必死に呼び起こす。
(何だ?これは何だ?ここは何処だ!?落ち着けよ、落ち着け…)
まとまらない思考を、自分の呼気と心音が掻き乱して止まない。
(止まれよ、くそっ!)
ぼたぼたとしたたる汗を手で乱雑にぬぐい、自分の胸倉を鷲づかみにした。
(いや、止まるのはまずいよな。静まれ、静まれ…)
変に落ち着いてきた事に気づけず、由宇は自らの目を、さらに疑う事になった。いや、もう目どころではなく、これが現実なのか、それすらも判別できなくなった。
気がつけば、周囲を取り囲まれている。
何に?
人らしいモノ。
としか言い様がなかった。
身の丈二メートル以上はゆうにあるだろう巨体の群れ。
毛むくじゃらだったり、男性的なフォルムを持っていたりするが、総じて言えることは、人に似た形をしているだけだ。ということ。
虚ろに光る目、発する気配、ただならない殺気――そんなものを由宇は今まで感じた事などなかったが、正にそれだとしか思えない。本能による直感がそう告げていた――が、人ではない、と告げていた。
いや、それは由宇の本能が、殺気を殺気だと感じさせたのと同じく、そうだと確信させている。
ジリ、と空気が焦げたように思われた。その瞬間。
「グオォォォォォォォォォォッ!」
正に人ではない雄叫びを上げ、毛むくじゃらが身を躍らせた。向かう先は雨宮沙希。
数メートルに及ぶ跳躍の頂点、毛むくじゃらは大木のような右腕を振り上げる。
「あ…」
雨宮、と叫ぼうとしたが、咽喉が詰まって声が出なかった。
ずどん、と地を揺るがす轟音とともに、アスファルトが打ち砕かれた。
由宇は強い喪失感に胸を突かれたが、毛むくじゃらの向こうに、黒い髪がなびいていた。
ゴッ、と鈍い音とともに、毛むくじゃらが吹き飛んで、由宇の真横をかすめていく。
由宇の目の前に、蹴りを放った直後のフォロースルーでくるりと回る雨宮の姿があった。
それを合図にしたように、回りの人のようなモノが次々と襲い掛かり、雨宮は舞う髪にすら触れさせる事なく、嵐のような攻撃を避け、カウンターの一撃を叩き込んでいく。
吹き飛んでいく人のようなモノ。
それらを吹き飛ばしている本人、雨宮の動きは、殴り合うというよりも踊っているという表現が当てはまる。
くるくると舞う雨宮の動きにあわせて、長い髪が踊る。それを見て由宇は陶然とした。
あまりにも非現実的に過ぎるせいか、まるで映画でも見ているような、そんな感覚しか持てない。
閃光のような突きと蹴りとを駆使し、次々と人のようなモノが動かなくなっていく。
「オォォォォッ!」
そのうちの何匹かが、由宇を狙ってきた。その時になって初めて分かったが、由宇は腰が抜けていたようで、逃げる事すらままならない。
咆哮に引かれるように振り返った由宇にできたのは、ただ腕で頭をかばい、声をあげることだけだった。
「うわぁっ!!」
何が起きたのか、分からなかった。
由宇が自分に襲い掛かる人のようなモノに気が付いた次の瞬間には、由宇はビルの壁に叩きつけられ、次いで地面に落ちた。
手足どころか、身体中の感覚がない。
「あ……」
声を出そうとしたが、声帯を震わせて息を漏らすのがやっと。
手足の感覚はないのに、末端から身体が冷たくなっていくのだけが分かる。
(死ぬのか…夢じゃ、ないのか)
薄れていく意識の中、そんなことを思いながら由宇は急速に暗くなりつつある視界に、雨宮の姿を見た。
眼球はまだ言うことを聞いてくれた。ゆっくりと視線を動かしていくと、由宇に襲い掛かったモノも含めて、雨宮はその場にいたモノを全て打ち倒していた。
視界と意識とが落ちる寸前、由宇は雨宮が自分の方へと振り向く姿を、見た、ように思えた。
「ぶえっくしっ!!」
強烈なくしゃみがビルの合間の路地に響いた。
「ん〜…寒いな…」
ぼりぼりと頭を掻きながら由宇は起き上がり、地面で寝ていたおかげで痛む節々を伸ばしながら、周囲を見回した。
寝起きのおかげでぼんやりとしている視界も、秒単位で晴れていく。
暗い。
「……夜?」
辺りはすっかり日が暮れ…どころではなく、夜中のようだった。
由宇は慌てて携帯電話を制服のポケットから出し、時刻を確認する。
しばらくディスプレイ画面を凝視してから、しばたいたり目をこすったりして、それからまた視線をディスプレイに転じる。
「十時四十七分」
いくら見ても、表示は変わらなかった。
「あ、四十八分になった」
否、時が過ぎるにつれて、数字は増える。
携帯電話をポケットに仕舞って、ぎしぎしと悲鳴をあげる身体を持ち上げた。
「いちちち…何でこんなに身体中痛いんだ?」
歩きながら、ようやく回りだした頭が、記憶を呼び起こそうとする。
渦巻く世界、人のようなモノ、それらと戦う雨宮沙希、それらに――。
(しかし、俺、生きてるしなぁ…夢だったのか。さて、だとしたら、なんで寝たのかが疑問だな)
極希にある、やけに鮮明な夢。夢の終わりで自分は確実に死んでいたため、今こうして生きているからには、それは夢であったと確信しながら、その夢を振り返る。
何処までが現実で、何処からが夢だったのか。
駅へ向かい電車に乗り、一駅先で降り、そこから自宅へと歩く間、ずっと考えてみたが、答えは出なかった。
(路地に入ってからかなぁ…いや、うーん……ま、明日、雨宮に聞けば分かるか。ちゃんと誘ってみるついでに、な。うんうん)
などと取り敢えず答えは先送りにして、玄関の鍵を開けて、帰宅する。
と、その玄関口で、座布団の上に座り、膝の上に毛布を掛けて、うとうととうたた寝する母、桐島百合子と対面した。
ぱたん、と極力静かに扉を閉めた音で百合子は起きた。
ぼんやりと目を覚ます百合子に由宇は苦笑した。
「あ、由宇…おかえり。こんな時間まで何処行ってたのよ…もう、」
「心配で寝れなかった、と言いたいんだろうけど。ただいま、おはよう。母さん」
百合子の言葉尻をさえぎりながら、由宇は靴を脱いで、足取りも軽く自室へと向かうため、階段を上がって行った。
「由宇!晩御飯は?」
その背中に百合子の声を受けて、由宇は階段を上りきってから振り返り、
「お茶漬けでいい!けど、その前に風呂に入る」
と短く答えた。
風呂に入る間はなるべく何も考えないように、好きな曲を頭の中で再生して、食事の最中は目の前に陣取る百合子の尋問に答える事になった。
「で、何をしてたのかしら?」
テーブルに肘を置いて、組んだ手の上に顎を乗せ、百合子は目の前で茶漬けを掻き込む我が子を見つめた。その顔には、子を心配する親の色が濃い。
「えーっと…駅前をうろついてたら貧血で倒れたらしくて、気が付いたらこんな時間に…」
由宇はしどろもどろに答えながら、箸を置いて味噌汁をすする。どう答えたものか、悩みながら。あり得そうなところとしては、このあたりだろう。貧血なんて今まで起こしたこともないし、強いて言えば血の気は多い方だと自覚している。
「由宇、あんたが貧血なんかになるわけないでしょ。あんたが帰ってこないもんだから、母さん久しぶりに夕飯作って、一人で食べたのよ」
百合子はずばりと突っ込む。由宇もそれには反論の余地がなかった。
百合子が「久しぶりに夕飯作って」と言うのは、百合子の夫、つまり由宇の父は、由宇が十歳の時に亡くなっている。それ以来、百合子は結婚する前の会社へと出戻りをして、母の手一つで由宇を育てた。
その時から由宇は言われもせずに家事を手伝うようになり、気が付いたら料理までするようになった。
由宇の料理の腕前はめきめきと上達して行き、中学二年の頃には百合子と均衡した技量を持つまでに至り、百合子もこと夕飯に関しては全てを我が子に任せるようになっていた。
由宇も家事の中でも料理が特に気に入り、また百合子が素直に「これ美味しいわねー」なんて嬉しそうに食べる様が嬉しくもあり、それを当然の役目としてこなしていた。
「う…でも、本当によく憶えてないんだから、仕様がないだろ?」
百合子が自分の料理を好み、またそれを毎日楽しみにしているのをよく知っている身としては、口ごもらざるを得ない。
「ほんっっとうに貧血で倒れたの?」
百合子は少し拗ねたように睨みつける。このようにして、由宇が連絡もなく帰宅時間を遅らせた事は今まで一度もなかったし、その初犯が零時前の帰宅という暴挙だ。十五歳の息子を持つ母として、驚き、怒り、そして悲しく、寂しかった。
「それも分からないけど、とにかく気が付いたら道端に倒れてたっていうか、寝てたっていうか…俺も分からないんだって」
「……そう、母さんは、由宇を嘘付くような子には育ててないからね。信じるけど、それとは別に、次の土曜か日曜、病院に行った方がいいわね」
百合子は母親としての意地の手前、そう露骨に言葉にできなかったが、由宇はそれでも十分に百合子の複雑な気持ちを、ほぼ寸分の狂いなく思い知った。
「い、いいって、本当に貧血だったか分からないんだし」
由宇は残っていた茶漬けと味噌汁を一気に流し込んで、食器を両手に台所へと逃げた。
背後に百合子の視線を受け、由宇は冷や汗をこめかみから頬のあたりに感じながら、食器に水を浸して、冷蔵庫からペットボトルに入った自家製麦茶を取って、自室へと駆け上がった。
すでに日付は変わっているので、由宇はギターを弾こうと伸ばした手を引っ込めて、ベッドに転がり込んだ。
(寝られるかどうか分からないけど、徹夜するわけにもいかないしなぁ…)
などと気にした甲斐もなく、由宇はあっさりと眠りに落ちた。
翌朝はいつものように起き、自分と百合子の弁当を作るついでに朝食を用意し、昨夜のせいかやや機嫌の悪い百合子と朝食を共にして、由宇は学校へ、百合子は会社へと向かう。
ようやく慣れ始めてきた通学路を、由宇は歩く。
今朝は晴れているものの四月にしては薄ら寒く、犬に散歩させられている近所に住む主婦も、元々が太っているうえに着膨れしていて、さながらテーマパークの着ぐるみのようだ。
「あ、あら、由宇、ちゃん、おは、よう」
「おはよーございます」
息を切らしながらも挨拶してくる顔見知りの主婦に、由宇は苦笑しながらも答える。
(毎日やってるんだろうけど、あれでなんで痩せないんだろうなぁ)
と人体の不思議について考察していると、背後で自転車の鈴がちりりん、と注意を呼びかけてきた。
由宇が条件反射的に背後を振り返ると、自転車に乗った東田がいた。
「よー、桐嶋〜。おはよーさん」
「おう、おはよう。東田って、この道なんだっけ?」
「いんや、なんとなく気分転換ってわけじゃないけど、いつもと違う道通ってきたんだ。普段は川を渡ってから線路を渡って…なんだけど」
「ああ、東田は東中だもんな。線路の向こうか」
由宇達の住んでいる御名方市は、東北から南西へ走る線路と、北西から南東に走る河川によってX字に区切られている。西側に高校があり、由宇の家と出身中学である北中は、もちろんその北側にあり、東中は東側にある。なので、出身中学を聞けば、だいたいどのあたりに住んでいるのかは見当がつくのだった。
「ああ。本当は、ほんの少しだけだけど、御名高より近いとこにも高校はあるんだけど、そこは治安が悪いって噂でね」
「なるほどな。治安の悪いとこ行ったら、ろくな目に遭いそうにないもんなぁ」
「そうそう、せっかくのハイティーン、できる限り楽しまなくちゃな。じゃ、俺は先行って教室で寝てるわ」
「ああ、気にせずちゃっちゃと行ってくれ」
自転車で先に行く東田の後姿を見送りながら、由宇がぽつぽつと歩いていると、何の前触れも無く腰のあたりに何かが猛烈な勢いでぶつかって来た。
どん!
「ごあっ!?」
鈍い音とともに由宇は前に押し出され、全速力で転倒した。
鈍痛の走る腰のあたりをさすりながら身を起こし、何事かと振り返ると、その眼前を塞ぐように自転車の車輪が迫り、次の瞬間には――
「んぎゃあぁぁ」
ゴリゴリゴリなんていう擬音が似合いそうだが、生憎そんな音が鳴る事もなく――由宇は轢かれていた。
それからようやく甲高いブレーキ音が鳴り、自転車が止まった。
由宇は怒り狂うどころか、あまりの事に何が起こったのか理解できずに、呆然と、再び身体を起こして、それを見た。
赤い自転車、俗に言うママチャリに乗った、長い黒髪と眼鏡ですぐに分かる、雨宮沙希だった。
「おまっ…馬っ鹿じゃねえの!?何をどうやったら、真正面にいる奴を轢けるんだよ!」
ようやく自分が何をされたのか、それに思い至って、由宇が声を上げる。周囲の視線が釘付けになっている事を、視界の端で自覚しながらも、声を上げずにはいられなかった。
「寝てた」
やや間を置いてから、眠そうな目でしれっと言い放たれ、由宇は絶句する。
「……元気そうね」
たっぷり十秒近く睨みあった後、ふと雨宮は何かに気が付いて、眉をしかめた。
「ああ、元気だけど…」
「そう、てっきり死んだと思ったのに」
さらに予想外の言葉に、思わず眉をしかめた。
「雨宮、よく俺が昨日見た夢の内容知ってるな」
そう言ってから、由宇はふと首をかしげた。
「そうか、やっぱり、夢だったのか…夢じゃなけりゃおかしいよな。傷もないんだし」
「そう、じゃあ夢だったのよ」
雨宮はつまらなさそうにそう言い捨てて、ペダルに足を乗せた。
由宇はすかさず荷台のフレームを掴んで、自転車を走らせようとするのを止める。
「いやいや、ちょっと待ってくれ。その…俺、なんつーか、昨日、雨宮の後追っかけたよな」
「……そうね。こんなにしつこい男、初めてだわ」
不機嫌さも隠さずに言う雨宮に、由宇は「面白い顔でメンチを切る睨めっこ」とでも表現するしかない、不可思議かつ珍妙な表情で怒りを表すとともに、押し殺した。
「ひ、人の事轢いといて…んん、いや…それは一先ず置いとくとしてだな、いや、後でちゃんと追求するからな?とにかく、昨日、俺は気がついたら夜の十時くらいに、路地で寝てたんだ」
前置きも長く、ようやく昨夜からの疑問を投げかけた由宇だが、
「そう、変な趣味してるのね」
帰ってきた答えは短いうえに、良し悪しを含めて期待されたモノとは程遠い。
「ちっげえよ!寝たくて寝たんじゃないの!とにかく気絶したらしいんだけど、その原因、雨宮なら知ってるかと思ったんだよ」
思わず少しばかり興奮しつつも、由宇は路地裏で目覚めてからの疑問をぶつけた。
「知らないわよ。確かに貴方を撒く為に路地に入ったけど、その後は知らないわ。大方、眩暈でも起こしたんじゃないの?」
「そうか、知らないのか…」
知らない、という最も期待外れな答えを告げられ、由宇は少なからず落胆してしまった。何故か雨宮沙希であれば、確たる答えを知っている、と勝手に思い込んでいた。
「気が済んだ?」
雨宮は忌々しげにため息をついて、ペダルに足を乗せる。
「あっと、待った!」
革靴がペダルにかかる音で現実に戻り、由宇は再び荷台を引っ掴んで、雨宮が行こうとするのを止めた。
「何よ…本当にしつこいわね」
雨宮は深く息を吐いて、足を下ろす。
「ああ、しつこくもなるね。俺は雨宮の歌声が、少なくとも日本で一番凄いって思ってるんだ。昨日訊いて、答えて貰ってない。もう一度、改めて言うから、答えてくれ。俺のバンドで歌って欲しい」
先ほどの落胆も何処へやら、由宇は意気込んで、一気にまくしたてた。
「そのバンド、メンバーちゃんと居るの?」
「いや、これから集めるところだ」
うるさそうにする雨宮の問いに、由宇は胸を張って答える。
「話にならないわね、せめて他のメンバーを集めて来なさいよ」
フン、と鼻で笑いながら雨宮がそう言うと、由宇は目を輝かせた。
「メンバー集めたら歌ってくれるのか!?」
言葉の勢いを持て余して、身体ごと雨宮に詰め寄った。
「ちょっ、顔近いわよバカ!」
「今、メンバー集めて来いって言ったよな!?条件を出すってことは、それを達成すれば歌うって事だよな!?」
驚き慌てる雨宮を気にせずに、由宇は自然と声を大きくする。
「そ、そんな事言ってないわよ…」
雨宮は尻込みしてしどろもどろになる。
「いいや、集めて来いって言っておいて歌わないってのは、矛盾してないか?今、雨宮は確かに、メンバーを集めて来いっていう交換条件を出したぞ。ということは、集めてくれば歌うってことだろ?俺にはそうとしか取れないけど、何か別の解釈が、自然にできるか?」
由宇がひとしきり言い終えてから、雨宮は反論しようとして二度三度と口を開閉させたが、うまい言葉が出て来ずに、口をあひるのようにして黙りこくった。
黙りこくる雨宮を見て、責めるつもりはなかった由宇は気勢を削がれ…というよりは、罪悪感に囚われ、それを紛らわすように周囲を見渡した。
雨宮とのやりとりが最初から大声を上げるものだったせいか、道行く人々の視線の大半が集まっている。
「げふん!」
とわざとらしく咳払いをすると、意図を察して視線が散らばる。それで少し落ち着きを取り戻した由宇は、今さらのように付け加えた。
「ごめん、別に無理になんていうつもりはないんだ。ただ、そう思ってしまうくらい、雨宮の歌声が素晴らしかったというか…そのあたりを汲んでくれると、助かるというか…」
由宇は言いながら、途中からただの言い訳になっていくのに気が付いて、言葉が濁り、続かなくなる。視線を雨宮から外して、誤魔化すように頭を掻いた。
「もう一つ」
数秒の間を置いて、雨宮がぽつりと呟いた。
「条件を追加するわ」
じろり、と睨みつける視線と言葉に、由宇はごくり、と唾を飲み下す。
「一週間以内に集めなさい。きっちり一週間後、朝までよ」
「い、一週間!?」
由宇は思わず声をあげてから、トーンを少し落とした。
「そりゃまた、無茶な」
「無理ならいいわよ、それなら―」
「解った!一週間で集めてやる!」
由宇は否定の言葉を口にされる前に、遮るようにして承諾した。
「………」
雨宮は、由宇の顔をじいっと睨みつけ、何かを確認するように一度、ゆっくりと目を閉じる。
「そう、じゃあ、せいぜい頑張ってよ」
そう言い捨てる雨宮の顔は、心に壁を作っているような、いつもの冷めた顔に見えた。
「お、おう」
由宇は何故かその冷然とした表情に、含むような笑みがあったように思えて、戸惑った。
反す言葉に詰まったのを見計らったかのように、雨宮は由宇に一瞥をくれてから自転車を走らせた。
「しまった…走らないと遅刻じゃんか」
つい、と遠ざかっていく背中を見ながら、由宇は話し込んでいたために時間的余裕がゼロどころか、マイナスにまでなっている事に気がついた。