第五話
ひどい気分だった。体が鉛のように重く、痛い。
少年と間違えられた少女、ディモルフォセカは目覚めると、自分が四角い白い小部屋の寝椅子に横たえられていることに気がついた。慌てて起きあがり、辺りをキョロキョロと見回す。
ここはどこだろう? 確か、地下都市に侵入して……。
訳あって地上から地下都市へ潜入し、公安から逃げ回り、見知らぬ誰かの部屋に忍び込んだ挙句、そこで行き倒れたのだとようやく思い出す。
ディモルフォセカはドアの隙間から外の様子を覗った。誰もいないようだ。
逃げた方がいい。心の中で警鐘が鳴る。
逃げなくちゃ。今しかないっ。
戸口まで全速力で走る。ドアの外に飛び出すと、周りも見ずに通りへと駆けだした。入り組んだ住宅街の小路を抜けて、人の通りがあるところまで来て一息つくと、ようやく辺りに目をやる余裕ができた。
あれ? 見られてる?
誰もが一様に、怪しいものを見るような目でディモルフォセカを見て通り過ぎる。
え? 何? 私、何か変?
ディモルフォセカは自分の格好を確認して赤面した。
バスローブだ!
ディモルフォセカが身につけていたのはバスローブただ一枚だけで、他には何も身に付けていなかった。真っ赤になって、二、三歩後ずさると出てきた部屋に慌てて駆け戻る。ドアの前には、銀髪ショートヘアの背の高い見知らぬ男が腕組みをして立っていた。男は呆れたようにディモルフォセカを見つめると、低い声で言った。
「まさかバスローブ一枚で通りに出ていく女がいるとは思わなかった」
「ふ、服を返してもらえませんか?」
ディモルフォセカはビクビクと男を見上げる。
女ってばれてるってことは……このバスローブはこの人が……。
ディモルフォセカは事情に気づいて赤くなり、事態が悪化していることに気づいて青くなった。ディモルフォセカの言葉には返答せず、入れという仕草だけで部屋の中へ入って行った男の後を、ディモルフォセカは仕方なくついて行った。
「で? 君は何者で、どこから来て、何のために僕の部屋にいたのか説明してくれるかな? ま、とにかく、座ったら?」
男は顎でソファを指すと、自分はダイニングの椅子を引っ張ってきてそれに座った。
「服を返してください。そうしたら、すぐに出て行きます。ご迷惑をかけるつもりはありませんから……」
ディモルフォセカは立ったまま俯く。
「服を返してほしいなら説明をしなさい。迷惑なら既に被っている」
男は冷たく言い放った。剣のある言葉にディモルフォセカはびくりと顔を上げる。
ところが、座って足を組んでいる男の瞳を見た瞬間、ディモルフォセカは息を呑んだ。男の目の色が、深紅で禍々しい血の色をしていたからだ。
なんてひどい充血!
ぐっと体を乗り出して顔を覗き込むディモルフォセカに、男が反射的に体を引く。怪訝そうに首を傾げる男に、ディモルフォセカは慌てる。
「あっ、あのっ、それ、すぐに冷やしたほうがいいですよっ!」
「は?」
急に男の瞳から力が抜け、ポカンとした表情になる。
「は? って、痛くないんですか?」
「何を言っているんだ、君は?」
男は眉間にしわを寄せる。
「目が真っ赤ですよぅ」
ディモルフォセカの声に、男は不快そうに顔を顰めた。
「君の目は瞳が赤くなって痛くなることがあるのか?」
男は呆れて問い返す。
「え? あ……あぁ……」
言われてみれば、普通充血して赤くなるのは瞳ではなく、目の白い部分の方だ。彼のは瞳自体が赤いのだと気付く。赤い瞳など見たことがなかったので、つい動転してしまった。
「君は……初等部で苛められているだろう? 馬鹿だって」
その男は冴え冴えとした目で言い放った。
ディモルフォセカは脱力して、ストンとソファに腰を下ろした。同時に男の言葉に憮然とする。
人が心配して言ってるのに、なんという暴言。しかも初等部って言いきったし、この人……。
初等部は六才から十五才までの子供が通う学校だ。ディモルフォセカは、十八歳、高等部だった。やせっぽちのせいか、年齢よりも幼くみられることはよくあることだったが、確認することさえ考えていない様子の口調にムッとする。
「僕の瞳のことで話を誤魔化そうとしているなら、馬鹿げたことで時間をつぶさないでくれと言うよ。質問に答えなさい」
男の言葉にディモルフォセカは小さくため息をつく。
だからぁ、心配して言ったんだってば……。
「名前は?」
「……ディモルフォセカ」
「ファミリーネームは?」
「……オーランティアカ」
ディモルフォセカは投げやりな様子で名前を口にする。
「では、ディモルフォセカ・オーランティアカ君、事情を説明したまえ」
この人、裁判官……とかなのかな? まさか公安だったりしないよね……。
自分とさほど歳は離れてなさそうなのに、やけに威圧感があって偉そうだ。男の厳めしい表情をしげしげと見つめながら、ディモルフォセカは想像を巡らせる。
「実は……」
ディモルフォセカはソファに腰を下ろすと、言葉を探すように視線を泳がせる。
やっぱり、何とか隙を見て逃げた方が良いよね。この人絶対やばいって。どうしたらいい?
「あの……その前に、お水をもらえませんか? 喉がカラカラで……しゃべるのが辛いんです……けど」
ディモルフォセカは上目づかいに懇願する。ダメもとで頼んでみた要求を、意外にも男は聞いてくれたらしい。盛大な溜息をつくと水を汲みに行く。男の背中をチラ見してから、ディモルフォセカは再びドアへと走った。
ダイニングでサーバーから水を汲んでいるとドアが開く音がした。カナメは慌てて振り返る。逃げ出したディモルフォセカの後姿が一瞬だけ見えた。
「あいつっ!」
イブキめ! あんなの押しつけやがって! しかも、イブキの言葉なんて全然あてにならない。服がなきゃ逃げないだと? バスローブで逃げる女がいるぞ、ここになっ!
* * *
もう、やめるっ。私、女やめるよ! バスローブだろうが何だろうが構わない。
ディモルフォセカは構わず逃げることにした。
そもそも、自分が女だからこんなことになったのだ。男ならば、まだオーランティアカの家にいられたはずなのだ。女だから逃げるのにもあんなに苦労することになったのだ。髪だってこんなに短くしちゃったんだし、もう、女なんてうんざりだっ! やめる!
もう二度とここには入らない、そう心の中で誓ったはずだった。だけど、行く当てがない。ディモルフォセカは地下へと続く階段を降りたところで蹲った。柵の中へ入る勇気は……まだない。
カメリア……。
ディモルフォセカは頭を抱え込んだ。お尋ね者なのだということを実感する。その時、唐突に強い力で柵の中に引きずり込まれた。
「おいっ! おまえ、ヒースの所にいたやつだろう?」
野太い男の声に、ディモルフォセカはびくりと顔を上げる。
地下都市に来てすぐに、わけも分からぬまま下水道へ逃げ込んだ。下水道は、ハル政府の敷いた体制からドロップアウトしたお尋ねもの達の巣窟になっていた。そして、そこで出会ったのが、ヒースとカメリアだ。ヒースは森の民であることを隠し、下水道の一角に身を潜めて暮らしており、カメリアは森の民の管理官になることを拒否して下水道に逃げ込んでいた。ディモルフォセカは覚えていなかったが、目の前に居るこの男は、ヒースの部屋で自分を見たことがあるらしい。
「へぇ、いい格好してるじゃねーか」
男はディモルフォセカの胸倉をぐっとつかんだ。
「はなしてよっ!」
ディモルフォセカはめちゃくちゃに腕を振り回した。意図せずして拳が男の顔を殴る。男は顔を顰めるとディモルフォセカの頬を何度も叩いた。最後に拳で鳩尾を殴られて、ディモルフォセカは崩折れた。
「ぐぐっ」
だからやめるって……言ったのに……女なんてやめるって。この力の差は反則でしょう?
上からのしかかってくる男の吐息に顔を顰めながら心の中で愚痴る。
その時辺りが青白く光った。天井からパラパラと光の粒子が落ちてくる。
「なんだ? こりゃ?」
男がそれに気をとられた一瞬、ディモルフォセカは男から逃げ出そうともがく。しかし、それくらいのことで逃げられるはずもなく、男の意識はすぐにディモルフォセカに戻ってきた。
「おまえもヒースと同じ化け物なんだな?」
男はニヤニヤしながら言った。
「でも関係ねーさ。こんな光の粒かぶったって、何の害もねー」
男の言うとおりだった。苔ほどの力では、いくら森の民の力を使おうと、できることは高が知れていた。バスローブの裾から差し込まれた男の手が、内またを撫でる。
気持ち悪い……。
悪寒とともに、体の端々から血の気が引いていくのをディモルフォセカは感じていた。意識さえぼやけてくる。森の民の力は命を消費すると言われる。それ程、体力を消耗するのだ。ディモルフォセカを絶望感が包み込む。何度か空しく抵抗した後、ディモルフォセカは意識を手放した。
カナメがディモルフォセカを見つけたとき、ディモルフォセカには意識がないようだった。男が一人、覆いかぶさっている。
それを見た瞬間、カナメの頭に一気に血が上った。
「おい!」
カナメの声に、男は顔を上げて振り返った。
「なんだぁ? おまえ」
地下都市の明かりを背にして立っているカナメを、男は胡散臭げに目を眇めて睨みつけた。下水道にはびこっているチンピラだ。それはその男の風貌を一目見れば分かった。
「今すぐ、立ち去れ。そうすれば公安には黙っていてやろう。今日のところは見逃してやる」
下手に騒いで、彼女を盾に取られては困る。
「なんだとぉ? おまえなんぞに何のかんの言われる筋合いはねー。お前こそ立ち去りな!」
男は立ち上がるとカナメに詰め寄ってきた。
腕っぷしに自信があるらしい。好都合だ。だてに長く生きてきたわけではない。
久しぶりの手合わせに高揚する。
いきなり繰り出された拳を避けると、カナメはすばやく男の後ろに回り込み、背後から腕を締め上げた。
「うわっ!」
男が悲鳴を上げる。
「他愛もないな。どうする? このまま腕を折ってしまおうか?」
嗤いを含んだ余裕のある声だ。
「ううっ」
脂汗を流し始めた男は、カナメを振り返って驚愕の色を浮かべる。強い光を湛えた瞳は血のように赤く、静かだが冷酷で残酷な色を湛えていた。まるで獲物を甚振って楽しんでいる肉食獣の瞳。
「た、助けてくれっ」
男の懇願にもかかわらず、カナメは腕を締め上げた。ゴリュッと嫌な音がして、男の悲鳴が下水道に響き渡る。
「しばらく悪さができないように、外しておいてやったよ」
まるで、服についていたゴミをとってやったよとでも言うように、にこやかに言うと、カナメは手を離した。男は痛みと恐怖に顔を歪めた後、だらりと垂れた腕を庇いながら一目散に下水道の闇に消えて行った。
「じじぃのままでなくて良かった。若いと、やはり体の動きが素早くていいな」
一人呟くと、カナメはディモルフォセカのもとへ歩み寄る。まくれ上がったバスローブを直し背中に担いだ途端、その体の冷たさに驚いた。
「もしかして森の民の力を使ってしまったのか……」
本来ならば、壁の高い位置にしか生えていない光苔が、床面に散らばっているさまを見てカナメは納得する。
「急ごう」
カナメは顔を顰めると足早に立ち去った。
地下都市ハデスは、地熱の為に気温が常に高い。冷やす装置や器具なら五万とあるが、温めるものは乏しかった。暖かい飲み物くらいだろうか。それさえあまり人気がないので、メニューの隅っこに数種類ある程度だ。
カナメは空調を切ると、寝室から剥がしてきたブランケットをディモルフォセカに巻きつけてソファに横たわらせた。
「おい、君、しっかりしなさい」
蒼白な顔を両手で包んで揺する。ずいぶん強く叩かれたのか、目の横の皮膚が内出血していた。カナメは自分の迂闊さに舌打ちする。あんな格好をさせていた以上、外へ出られないようにしておくべきだったのだ。彼女は逃亡中だっだ。止むにやまれず逃げだす可能性があった。
「……寒いよ、ママ……」
まだ、子供なんだ。うっかりしていた。
カナメは深いため息をついた。