第二話
ハル連邦公安委員長室に、足音も荒く一人の老人が入ってきた。白髪に褐色の鋭い瞳。深い皺が刻まれた色素の薄い顔には、怒りが濃く滲んでいる。
「ルド、昨夜保護した森の民の母親を、その場で処分したと言うのは本当のことなのか?」
老人は、デスクで市長専用端末に向かっているルドを睨みつけた。
「おぉ、カナメか。何だ? お前、いつまでそんなヨボヨボの姿でいるつもりなんだよ。俺より年下の癖に……。まさか、俺よりも年上に見せたいが為にそうしている訳じゃあるまいな。それが理由なら、ちと子供っぽ過ぎないか?」
ルドは端末から目を挙げると、目を細めて悪戯っぽく笑んだ。
「質問に答えろ、ルド」
子供っぽいと言われた老人は、眉間にしわを寄せて更に詰め寄った。
「あぁ、本当のことだ。仕方がなかったのさ。少し前、おまえが言ったように、森の民の子供を匿った母親を見逃してやったことがあるんだが、その母親どうしたと思う?」
ルドは、口をへの字に曲げて続けた。
「子供に会いに行く為にガイアエクスプレスに忍び込んで、アール・ダー村に入ろうとしたんだぜ? ハデスの無修正情報がアール・ダーに入ってみろ、プランDはめちゃくちゃだ。お陰でアール・ダーの入村管理システムを強化する羽目になったんだぞ? お前のクレジットから人件費を引いてやろうかと思ったくらいだ」
ルドはアイスグレーの瞳で上目づかいにカナメを見つめながら、両手の長い指を開いたまま軽く打ち合わせた。
「それとこれは別件だ。ハデスでは、いつから他人の罪まで償わなければならなくなった? 命を軽く扱うなといつも言っているだろう?」
カナメはルドを睨みつける。
「その命の重みとやらを軽くした張本人に言われたくねーな」
ルドは、端末のキーを乱暴に叩いて終了させると、片手で頬杖をつきながら挑発的にカナメを見上げた。
「……」
カナメは、歯ぎしりをしてルドを睨みつける。
「昨夜のあのチビの目、お前に見せたかったぜ。燃えるようなサファイアブルーの瞳をしていてな。思い出したよ。アイリスをな。あのチビは役に立つ森の民になることだろう」
カナメは、ルドの言葉に益々怒りの度合いが高まった様子でこめかみをピクピクさせていたが、しばしの沈黙の後、無言のまま踵を返すと市長室のドアの開閉ボタンを叩き壊さんばかりの勢いで押した。そして振り向きざま、ルドをねめつける。
「僕が、どうしてこんなじじぃの姿のままでいるか教えてやろうか?」
カナメの瞳が、憎々しげにルドを見下ろす。
「あんたを殴り殺さないでいられるようにだ」
カナメはそう言い捨てると、肩をいからせて出て行った。
「やれやれ、歳をとると怒りっぽくていかんな」
ルドは唇を歪めて微苦笑すると、再び何事もなかったかのようにデスク上のモニターを睨みつけた。
地熱でむせかえる路地を抜けて、警備の厳しい居住地区のエリアゲートをくぐる。利き腕ではない方の腕に書き込まれた生体認証システムのデータで通行許可が下りる仕組みだ。
「異常はないか?」
カナメは警備員に問いかける。
「ええ、全く問題ありません」
恰幅のいい警備員は敬礼してカナメに返答した。
「御苦労」
カナメは警備員に軽く敬礼を返すと、無表情のまま中へ入った。
カナメはエリアC特別居住地区で一人暮らしをしている。長年の政府への功績を認められ、一人暮らしにしてはかなり広めのコンパートメントを用意されていたが、たまに帰るその部屋は、まるで他人の家のように肌になじまずよそよそしい。
カナメは上着をリビングのソファに投げ捨てると、深いため息をついた。
アイリスの名前を聞いて、思った以上に激昂してしまった自分に腹が立つ。年甲斐もなく怒り、怒りにまかせて早足で家まで戻った。息が切れる。
その時、それは唐突に起こった。
「うううっ!」
激しい胸の痛みがカナメを襲う。机の引出しにある薬を取り出そうともがいたところでカナメは気を失った。取り出しかけた薬の瓶が床に転がり、中の錠剤が床一面に散乱する。
後は、ただ、闇……。
* * *
赤いライトの明滅が緑に変わった途端、カナメは深い沼の底から引きずり出されるように目覚めた。
見慣れた部屋、見慣れた機械、いつもの威圧感のある重苦しい空気。
――カナメ、キブンはどうです?
いつもの気遣わしげな声が頭の中に響いてくる。
「……」
最悪だ。
しかし答える必要などない。ここにいる限りすべてを把握されているからだ。脈拍だって血圧だって脳波だって、体調だろうが、気分でさえ、お見通しなのだ。聞く必要のないことを何故訊くのか。カナメはイライラと起き上がる。
――イライラしていますね?
声はどこまでも優しげだ。
「……」
カナメは、目の前の精密な機械をハンマーでたたき壊す……想像をしてイライラをやり過ごした。
――ハッケンがアトイチジカンオクれていたら、サイセイできなかったかもしれません。ですからイッコクもハヤくサイセイチリョウをウけるようにススめていたのですよ。
あと一時間……。
一時間先にあったはずの別の未来を思い浮かべてみる。冷たい骸となって横たわる自分。老いさらばえて、小さく縮んで見えたことだろう。しかし、その顔は平穏な表情を浮かべているに違いなかった。
深く溜息をつくと、皺ひとつなくなった自分の手のひらを見つめて、ギョッとした。
自分の手?
――コンカイのサイセイはヒジョウにフアンテイでした。シキソのテイチャクがかなりワルかったので、エリアEにハイるバアイはサングラスだけでなく、シャコウフクもチャクヨウすることをススめます。
再生される度に色素が少しずつ抜けていたのには気づいていた。しかし今回のように一目で分かるほどなのは初めてだ。機械の金属部分に映る自分の姿に驚愕する。二十代くらいに見えるが、髪は銀色で瞳はポモナの実のように赤い。
どうして……どうして、こんなにしてまで……。カナメは両手で顔を覆った。
どうしてこんなにしてまで、生き続けなければならない?
――カナメ、プランEの、イチニチもハヤいシドウをネガっています。
分かっているさ。それなしに僕に平穏は訪れない。それまでは餌を鼻面にぶら下げられた馬のように、ただ疾走するしかない。分かっているとも。
カナメは体についている器具を引き剥がし、よろめきながら立ち上がると、壁のスイッチを幽かに震える手で押し、部屋から退出した。