第一話
(注意)この作品は、作者が思いつくままに書きながら更新しております。なので矛盾が生じた場合や単に展開が気に入らない場合でも、ちょこちょこマイナーチェンジする場合があります。そう言った運営方法が嫌いな方は、ご注意ください。m(__)m すみません。
人気が途絶えた暗闇の中、女は住居の壁面を擦っていた。ザスザスと硬い壁面を擦る音が闇に吸い込まれていく。
どうして……女は思う。どうして、こんなに光ってしまうんだろう?
答えは出ていた。かそけく光るその光が、自分と愛する家族を闇に引きずり込もうとしていることも知っている。それでも女は、その答えを打ち消すように壁を削り続ける。
突然、背後から聞こえた明朗で快活な声に、女ははっとして振り向いた。
「奥さん、困るなぁ。光苔は政府によって繁殖させられている、いわば公共物だ。それを、こんなに擦り落としちまって……」
公安の職員を従えた、すらりとした長身の男が立っている。歳の頃は四十代半ば、しかし、その若い容貌とは裏腹に、彼が遥かに長い年月を生きている人間であることを、この地下都市ハデスで知らないものはいない。銀色の鋼のような髪に冷徹無比なアイスグレーの瞳、国家公安委員会の委員長であり地下都市ハデスの市長、ルド・B・ラキニアータは、穏やかで砕けた口調でありながら、大抵の者を竦みあがらせてしまう存在だ。
「ひっ……」
女は息を呑むと、大方の定石通り竦みあがった。
「ママぁ? どこ? リリィ寂しいよぉ」
その時、稚い声とともにドアが細く開き、中から三歳くらいの小さな女の子が顔を出した。亜麻色の長い巻き毛にサファイアの瞳。
「ほぉ。これは見事な森の民だ」
ルドは目を細めて嘆息すると、鋭い瞳で女の子を凝視した。
「リリィっ!」
母親は慌てて娘を腕の中に抱きしめた。無論ルドの視線から隠す為だ。
「奥さん、その子を渡してもらおうか。ちょうどその子が生まれたあたりからだそうじゃないか。光苔がこんなに光るようになったのは」
ルドの朗々とした声が、闇の中で閃く鋭利な刃物のように響いた。
「違います。この子のせいじゃない。この子は森の民なんかじゃないわ! この壁は前からこうだったのよ!」
女は絶叫すると、リリィを抱きしめたまま部屋の中に飛び込んで鍵をかけた。
「やれ!」
ルドの一言で、公安隊はあっという間にドアを開錠し、家の中へと乱入した。女の悲鳴と子供の泣き声が闇を切り裂く。
「トウキ、女を処分する。子供を確保しろ」
トウキと呼ばれた少年は、軽く頷くと、部屋の隅で抱き合って震えている母子と対峙した。
トウキは目を細め、手を伸ばすと怯えた表情の母親の眉間に指先で軽く触れる。女は、一瞬大きく目を見開いた後、クタリとその場に倒れこんだ。
「ママっ? ママっ!」
母親に縋りついて泣く子供に、トウキは静かに話しかける。
――ママは少し疲れちゃったんだ。眠っているんだよ。静かにしてね。
その優しげな声は、直接リリィの脳内で響いた。だから半狂乱になって母を呼ぶリリィにも届いたのだ。はっとしてリリィはトウキを見つめる。人懐こそうな深い紫色の瞳。トウキはその場に相応しくない程、何事もない様子で穏やかに微笑んだ。
「ママは、眠っているの?」
床に倒れこんでいる母親は、確かにただ眠っているだけのように見える。
そうだよね。ほっぺだってこんなに温かい。リリィは、縋りついた母親の胸に顔を埋めた。いい匂い。
ママの匂いは、いつだってリリィを安心させる。
ほら、胸だってちゃんとトクントクンって動いてる。このお兄ちゃんの言う通りだ。
「そうだよ。あっちのおじさん達が、ママにお話しがあるんだって。だから、少しママとはお別れだよ」
今度は、トウキも声で対応する。
「やだ、ママと一緒にいる」
リリィは、再び母親に縋りついた。
「君が一緒にいると、おじさん達もママもお話ができないよ。後で必ずママと会わせてあげるから、いい子でいようね。用事が終わるまで僕がついていてあげる。僕はトウキ、君を守るものだよ」
「トウキ?」
「そう」
「後でママと会えるの?」
「ああ、必ず会えるよ」
トウキは、揺るぎない様子で頷いた。
トウキが会わせるというママと、本来の母親が、確かに同一人物なのかなどと、僅か三歳のリリィに、どうして疑うことができただろうか。リリィはトウキの言葉を信じ、従った。
『森の民』の力は、植物を操る力。力を発症した者は、地下都市には居られない。当時のハル政府は、森の民を保護すると言う名目で、捕獲し、隔離し、管理していた。それこそが、地下都市の子を持つ親が、力の発症を極端に恐れていた理由だった。