第二十八話
カナメは足早に薄闇の中を歩いていた。ヴィジシアターのコントローラーの傍らに、わざとらしく置かれたバッジには見覚えがあった。多くの者が欲しがる、しかしカナメにとっては何の意味もないそのバッジは、地下都市市長だけが付けることを許されたものだ。
ルドがディモルフォセカを連れ出したのだ。間違いない。
しかし、ルドが公安のトップとしてあるいは地下都市市長として森の民であるディモルフォセカを拘束したのだとしたら、この状況はあまりにも不自然だ。つけっぱなしのディモルフォセカの姉の再生実験映像も、わざとらしく置かれたバッジもあまりにも暗示的すぎる。
どう考えても、映像はディモルフォセカを動揺させる為のものであり、バッジはカナメに誰が訪れたのかを知らせる為のものだ。
――何を考えている? ルド。何をするつもりだ。
ルドのコンパートメントの呼鈴を押したが返答が無い。しかし、施錠していなかったらしくドアは触れただけで簡単に開いた。
人気のない部屋。
「ルドっ、ルド、居ないのか?」
この部屋を訪れたのはいつ以来だろうか。もう軽く百年以上は経っている。ルドがハデス市長になってから、めっきり交流が減っていた。
カナメがルドと初めて会ったのはアール・ダー村だった。その頃ルドは既に駆けだしの政治家として、地下都市やアール・ダー村やダイモス村(その頃はまだ流星群で壊滅していなかった)を駆けずり回っていた。森の民の存在が確認されて間もなくの頃で、地下都市は食糧危機と衛生と治安の悪化にあえいでおり、アール・ダー村は単なる療養の村として姥捨て山的な扱いをされていた、そんな時代だった。
奥の部屋に気配を感じて、カナメは歩み寄る。そこにもヴィジシアターが付けっぱなしの状態になっていて、モニターにはディモルフォセカが映った状態で静止していた。
慌てて駆け寄り一時停止を解除する。
ヴィジシアターは、無情にも、哀れな姿のディモルフォセカを映し出す。両手を後ろ手に縛られて、猿ぐつわを噛まされた彼女は泣きじゃくっていた。涙の粒が後から後から流れ落ちる。
カナメは息を呑んだ。
そこへゆっくりした足取りでルドが映像の中に映りこむ。
『よぉ、カナメ。ちゃんと辿りついたようだな。今からルールを説明したいんだが……その前に、おまえコンパートメントの鍵は掛けたか? 誰にも聞かれたくないんでね、誰も居ないことを確認してから施錠して来てくれ。そうしないと彼女の無事は保証できないぜ?』
ルドは顎でディモルフォセカを指した。そこで映像が勝手にストップする。
――ルドのやつ、何やってるんだよ。
カナメは混乱して文句をいいつつも、言われたとおりにコンパートメントの無人を確認すると、映像を再開する指示を送る。
『まず状況説明だ。俺、市長をやめることにした。プランEが一部始動し始めただろ? それで俺も踏ん切りがついた。今やらないともうやる機会はない。ずっとわだかまってて、でも踏ん切りがつかなくて躊躇していた復讐をすることにしたんだ。ターゲットのやつが、早々とプランEの先陣を切るって知ってたからな』
カナメは目を見開く。
――復讐……。
『俺の妻が暴行にあったのは知ってるか? ニュースで大々的に流していたから知ってるよな? その暴行したやつら、ニュースでは犯人は不明と言われてたと思うんだが、その後、かなり時間を掛けて記憶採取をしたら身元が割れた』
ルドの配偶者が事件に巻き込まれたのは十年ほど前のことだ。犯人は不明で現時点全力で捜査中であること、そして特例により被害者はただちに再生治療を受けられることになったことを当時のニュースは伝えていた。
今では、殺害事件の被害者だと認定された場合、無条件に再生治療を受けられることが法律によって定められているが、その処置はルドの配偶者の件を前例にして、法として確立したものだった。
――そもそも被害者を救済する法とは復讐をさせぬ為のものだ。それに誰がやったのか分かったのならば、法に則ってその者たちを裁くべきだろう。少なくともハル連邦は法治国家という体裁をとっているのだから。
『おまえのことだから、復讐なんて法律に則ってないとかなんとか、考えてるんだろうがな。法律なんて人が便宜的に作った単なるルールだよ。平等じゃない。そもそも人間自体が最初から平等じゃないんだから、それぞれの身の丈に合った法なんてありはしないんだよ。そうは思わないか? それぞれ、どこかが足りないとか、ここは余ってるとか不満に思いながら、それでも我慢して着ている服みたいなものさ。だからたまに、それに我慢できなくなるやつが出てくる。今まさに俺がそれだ。なぁ、カナメ、森の民が再生できない理由は解明できそうか? 俺はその件に関しては限りなく悲観的だ。森の民は再生できない。俺の妻が不完全な再生しかできないようにな……』
――不完全な再生?
カナメは息を呑む。
『おまえやイブキには悪いがな、もともと俺は分解再生装置なんてものが存在する事自体、神への冒涜だと思っているんだ。そんなものに縋って生き延びた命がまともな未来を手に入れられる訳がないとも思ってる。だからこそ、それを使って生き延びた俺は、こんな報いを受けているんだと思えて仕方がないんだ。一度しかない命だからこそ、人は命を大事にするんだ。何度も再生できるなら、そんなもの大事にする価値がない。そう思わないか? だから俺は、妻に乱暴して殺したやつらと、分解再生装置なんて忌まわしいものを作ったおまえらと、それからそんな忌まわしい装置を使ってハルから逃げだそうとしているやつらに復讐することにしたんだ。しかし、おまえに復讐するのは難しくてな。ほら、おまえ大事なものを持たない主義だったから。もうタイムリミットで無理かと思っていたところに、この女が現れた。神の配剤だと思ったね。この女には気の毒だが、運が悪かったと諦めてもらうしかない』
「勝手なことを……」
カナメはギリと奥歯を噛みしめる。
『人は他人の痛みに疎いものだ。同じ痛みを得て初めて共感できるようになる。人とはそう言ったものだ。大事なものを失う悲しみを痛みをおまえは知っていたはずだが、もう随分前のことだから忘れちまっただろう? 忘れることも人の特徴だからな。だから、もう一度思い出させてやる。しかしまぁ俺だって鬼じゃない。人間だからな。ということで、ルールの説明だ。二時間以内にXポイントまで一人で来ること。そうすればおまえに彼女の救命のチャンスをやろう。それを過ぎれば機会はない。以上だ』
そう言うと映像からルドもディモルフォセカも消え、Xポイントを指示した地図が映し出される。否、それは地図ではなく、星図だった。
◆◇◆
もし一つだけ願い事がかなうならば、私は何を願うだろうか。
――森の民の力を発症しないこと?
そうすれば、私は一般人として本当の両親とずっと一緒に居られた。
――シーカスとの結婚話が持ちあがらないこと?
そうすれば、私はアール・ダー村を逃げ出さずに済んだ。
――あるいは地下都市に逃げ込まなければ良かった?
そうすれば、こんな風にカナメを困らせずに済んだ。
ディモルフォセカは激しく首を振る。手首に食い込む紐の痛みよりも、口を覆う布の息苦しさよりも、それはもっと切なく胸を痛く苦しくさせる。
違う、違う……。今の私にはそんな未来など何の意味もない。
良い子のふりをして表面を取り繕って生きていく未来など、私はちっとも欲しくなかった。私は我がままで独善的で利己的な人間だ。
ゆらりと立ち上がる、自分でも手に負えないほどの自己主張。それは喪失した記憶とともに目覚めたかのようだった。
誰が泣こうと、誰が傷つこうと、誰が困ろうと、私には欲しいものがある。私の過去に起こった出来事で、どれか一つ欠けてそこへ辿りつけないのならば、私は何一つ欠けて欲しくなかった。それが一瞬の間しか手に入らないものだとしても、それが大事な人を更なる困惑に落とし込む未来なのだとしても、私はその為になら何一つ欠けて欲しくなかった。
薄暗がりに転がされたまま、ディモルフォセカは嗚咽を堪えながら泣く。
こんな事態にならなければ気づけないことって、きっともっとたくさんあるんだろう。だけど、私はそれをまだ完全に失った訳じゃない。ルドとは違う。だから、私はここで待ってる。ずっとここで待ってる。
――カナメお願い無事でいて。あなたが無事でいてくれればそれでいい。
……だけど、もし叶うことならば、カナメにもう一度会いたい。もう一度会えたら、謝って、こんな私の為に色々してくれてありがとうって伝えたい。
……愛してる……カナメ……愛しているから。