第二十六話
抱きしめられたまま、ディモルフォセカは頭を優しく撫でてくれる手に頬をすりよせた。同時に気遣わしげな声が降ってくる。
「ディム……君、記憶は……」
「……カナメ、森の民が地下都市のことを知るとどうなるの? 私、もうアール・ダー村には帰れないんだよね? 本当のママの顔を思い出したの。もう忘れないと思う。私……処分されるの?」
見上げると、悲しげに顔を歪ませたカナメと目が合う。
「……やっぱり、忘れてなかったか」
「私、オーランティアカの本当の娘じゃなかったんだね。あ、でも心配しないで。なんかね、色々なことが腑に落ちてすっきりした気分なの」
何故自分は、家族の中でこんなにも小柄なのか。何故姉弟で、両親の扱いが微妙に違っていたのか。すべてがパズルのピースのようにピタリとはまっていく。
それは、姉のアリッサムが生きていた頃から感じていたことだった。幽かな違いでしかなかったけれど、子ども心にも何か妙に腑に落ちない差のようなものが、自分と他の姉弟との間にあると感じていた。
それは簡単に言えば、優遇する順番と優先する順番の違いだった。
プレゼントや褒美に関しては、両親はディモルフォセカを微妙に優遇した。他の姉弟よりも、少し値の張るもの、少し豪華なプレゼント。それは小さいホルトが贔屓だと陰でやっかむ程度の僅かな差だったけれど、そこには確かに差が存在していた。そして逆に、怪我や病気の時には、ホルトやアリッサムの方をより優先して心配しているようにディモルフォセカには感じられたのだ。
それはディモルフォセカが養女であり、他人の子であるという意識がどこかにあったからだとしたら、妙にストンと腑に落ちる。
結婚話が持ち上がった時の母親のふるまいだって奇妙だった。
森の民とは言え、結婚相手を拒否する権利だってあったのだ。
ディモルフォセカの結婚相手として政府から決められたシーカス・エウオニムスには恋人がいた。金色の髪に碧い瞳のその女性は、シーカスとは似合いの人で、二人は誰もが知っている有名なカップルだった。森の民といえど、ある程度結婚相手は選択できる。しかし、二人は結婚していなかった。シーカスの親が反対していたからだとか、政府の許可が下りなかったからだとかいう噂はあったが、本当のところはどうだったのかは分からない。
ディモルフォセカとの結婚話が持ち上がった時、一番喜んでいるように見えたのはシーカスの両親とディモルフォセカの母親だった。いや、ディモルフォセカの母親は、むしろほっとしているように見えた。だからなのだろう、この三者によって結婚話は勝手に勧められ、本人や他の者が気づいた頃には、もう覆せない程に話が進んでいた。
二人の結婚話は波紋を呼んだ。
シーカスとその恋人は、親や政府によって引き裂かれた悲劇のカップルとして、ディモルフォセカは恋人の間を裂く邪魔者として、周囲は認識した。それまで仲の良かった友は急によそよそしくなり、それほど仲が良くなかったものは、これ見よがしに嫌がらせの言葉をディモルフォセカにぶつけるようになった。
『いくら政府から勧められたからって、普通断るでしょ? そんな結婚話。信じられないよね』
『森の民にだって拒否権はあるのにね』
そのうち、噂はどんどんエスカレートして悪質になった。
――この結婚、実はディモルフォセカの我がままで決まったものらしい。
とか、
――ディモルフォセカはシーカスの恋人に嫌がらせをしているらしい。
とか、身に覚えのない噂が立ち始め、ディモルフォセカは徐々に孤立していった。
ディモルフォセカは途方に暮れる。こんな話、白紙に戻してしまいたい。シーカスとその恋人だって気の毒だ。誰もが不幸になる結婚でしかない。
しかし、ディモルフォセカの願いは母親に却下された。
『ディモルフォセカ、政府の決めたことは絶対なのよ。結婚をやめたいなんて馬鹿なことを言わないで』
母は、自分をオーランティアカから出したかったのだ。そう考えればつじつまが合う。
ディモルフォセカを構い過ぎるとしょっちゅう父と喧嘩していたことも、ホルトと二人っきりでいることに過剰に反応していたことも、ディモルフォセカをよその子だと意識していたからではなかったか?
ずっと以前から感じていた幽かな疎外感の正体が、もしそれだとしたら、自分がオーランティアカの家に居ること自体、家族にとって困惑の種だったのではなかったか。
自分という存在の要らなさに、ほとほと嫌気がさす。
「私、どこに居ても要らない存在みたい。記憶が戻って良かった。そのせいでオーランティアカの家に戻れなくなったのなら、もうこれでみんなを困らせることもないし、処分されるのなら、カナメだって私のことで悩まずに済むもんね」
そう言って弱く笑ったディモルフォセカの頬を軽く平手がぶつ。
「君は本気でそんなことを言っているのか? だったら僕は君を買いかぶり過ぎていたようだ。君はいつだって表面にとらわれずに物事の本質を捉えられる人だと思っていたんだけどな。がっかりだ」
頬に走った衝撃に驚いて、ディモルフォセカは目を見開く。カナメは続けた。
「オーランティアカの家の人たちが、事情はどうであれ追い詰められて逃げ出した君が帰って来なくてほっとしていると思うのか? そんなに簡単に君を諦められるくらいなら、もらい子の君など、要らないと思った時点でとっくに手放しているさ。僕だって同様だ。要らないのなら、不法家宅侵入の君などとっくに公安に引き渡している。そもそも要らない人間ってなんだ? 君の中では要る人間と要らない人間に分類されているのか? ならば君にとって僕は単に要る人間で、要らなくなればお払い箱って訳か?」
「違う! そんなこと一度だって思ったことないっ」
ディモルフォセカは拳を握りしめて、声を張り上げた。
「みんな大事だから、みんなが笑顔でいて欲しかったから、それを自分の存在が邪魔するのなら自分なんかいない方が良かったって……そう思ったの。私、カナメを困らせたくない、カナメのお荷物になりたくないよ。私……カナメが好きだから。もう、私のことで困ってほしくないのっ」
涙が勝手に流れ落ちて止まらなかった。
「僕だって同じだ。君に笑顔でいて欲しいから、君に幸せでいて欲しいから、あれこれ悩んで、色々あがいてる。僕はまだ諦めていない。君も諦めるな。どうしたら君が幸せでいられるのか。どうしたら君を安全にアール・ダーへ帰すことができるのかを含めて、もう少し考えてみるから……」
頬をつたう涙を指先で拭いながら、カナメはディモルフォセカの額に口づけた。
◇◆◇
カナメが考えさせてくれと言い残して部屋を出て行ってから、入れ換わるようにコブがやってきた。
少し疲れた様子の、しかし少し荒んだ雰囲気の彼は部屋に入ってくるなり、一つのメモリースティックをディモルフォセカに差し出した。
「おまえ、カナメの正体を知りたくは無いか?」
「カナメの……正体?」
「あいつはおまえが思っているような善良で優しい奴なんかじゃない。ここにあいつの正体が記録されている。見てみろよ。その目でちゃんと見てみろよ」
「コブ? どうしたの? カナメと喧嘩でもしたの? 何かあったの?」
差し出されたメモリーには手を出さずに、オロオロと言葉を紡ぐディモルフォセカに小さく舌打ちをすると、コブは足音も荒く寝室に入ると、メモリースティックをヴィジシアターに挿入した。スイッチを押すと、間もなく映像が開始された。
画面いっぱいに、どこかの研究室のような部屋が映し出される。白衣を着た男の人たちが取り囲んでいるのは、繭のような細長いドーム型をしたカプセルだ。開けろと指示を出した老人の服には見覚えがあった。精緻な刺繍が施された上着だ。顔にもどことなく見覚えがある。瞳の色はごく薄い褐色で、その人とは違っているけれど、彼が歳をとればこんな感じになるのだろうと思わせる顔立ちだ。ディモルフォセカは首を傾げる。
――カナメ? まさか……ね。
しかし次の瞬間、そんな疑問が頭から吹っ飛んだ。カプセルから出てきた少女にも見覚えがあったからだ。
亜麻色の巻き毛にアンバー(琥珀色)の瞳。華やかな目鼻立ちのその少女は、ディモルフォセカが見間違えるはずの無い、死んだはずのアリッサムだった。
少女は虚ろな瞳を開けると、まるで人形のように手をとられるままカプセルから出てきた。すぐに薄い検査衣のようなものを着せられたが、ほぼ半裸の状態で様々な検査器具が付けられていく。アリッサムは相変わらず無表情で、何をされてもまるで反応が無い。感情が感じられない。
――何? 何が行われているの?
しばらくして、検査装置から送られてくるデータを見つめていた一人の男が振り返りざま首を小さく振り、この子は森の民の力を持っていないと告げると、年老いた男性は冷たく言い放った。
「そうか、では分解しておいてくれ」
――間違いない。あれはカナメの声だ。でも、どうして……。
「でも、カナメさん、そんなすぐに分解しなくても……せっかく再生したんだし……。こんな綺麗な子、すぐに分解するのはちょっと……」
後方で見守っていた男が、少し嫌な感じで顔を歪めて笑うと、カナメは鋭い一瞥をくれて冷たく言い放った。
「分解しろと言ったんだ。聞こえなかったのか? 今すぐその子を分解するか、君をプロジェクトから外すか、どっちがいい?」
鋭い視線で睨みつけられた男性は、軽く肩を竦めると、無表情なままのアリッサムを再びカプセルに押し込んで、スイッチを押した。
――どうして? どうしてなの? アリッサムは生き返っていたのに……。どうしてまた分解されたの? どうしてカナメはアリッサムを分解したの? 森の民の力がなければ分解されるの? どうして? どうして?
気づいたら、ディモルフォセカはコブの腕を掴みながら、どうして、を繰り返していた。