第二十四話
カナメは小部屋の端末の前に座っていた。記憶採取装置からデータが送り込まれている端末に端子を差し込み、電極のついた器具を頭に装着すると採取されたデータが直接脳に伝達される。目を閉じれば視神経をはじめ、様々な五感を司る神経に作用して、まるでその記憶の中の登場人物になったかのように見たり聞いたり感じることができる。大脳コンタクトと呼ばれる方法だ。
カナメはディモルフォセカが横たわっているリクライニングの横に腰を下ろすと器具を装着しようとして、ふと手を止めた。
どうせ僕は嘘つきだからね。
嘘をつかないとは初めから言ってない。しかし、昨夜ディモルフォセカに嘘つきだと泣かれたことがかなり堪えているらしい。ひとり言い訳じみたことを呟いてしまっている自分に苦笑する。
「あぁ、懐かしいな。アール・ダー村だ」
カナメがアール・ダー村に行ったのは三百年も前のことだ。ディモルフォセカの記憶の中のアール・ダー村は、一見したところカナメが訪れた頃とあまり変わっていないように見えた。
イブキとカナメが十三歳。驚異の早さで飛び級をして高等部に編入された二人は、既にその年高等部を卒業しようとしていた。
教育課程最後の休暇、三人はガイアエクスプレスに乗って初めてハルの地上に出た。アール・ダー村で研修を受けるためだ。研修という名のご褒美旅行だった。
イブキは自ら考案した新たなシステムへの褒美で、カナメは半年間教師ロボットを分解しなかったことへの褒美だった。自分のやったことに比べるとおまえのやったこと、否やらなかったこととでは、随分社会への貢献度が違う。おまえはいつでも優遇されていて不公平だったと、今でもイブキが文句を言う所以だ。コブは、お目付け役として同行を許可された。
当時難しい年頃で、並に輪をかけて生意気だった二人を、ほとんどの大人は腫れもののように扱った。しかしコブだけは、持ち前の子ども好きを発揮して、根気よく忍耐強く二人の面倒を見たのだ。それを認められた。
何はともあれ、その旅行がきっかけとなって三人は、親友になった。
カナメは、ディモルフォセカが見ている記憶の中のアール・ダー村へと深く潜り込んでいった。
ディモルフォセカ、三歳の記憶は、眩しい強烈な光の記憶から始まっていた。
もう随分長い間、ディモルフォセカは泣いていたはずなのだ。なのに何が悲しかったのか覚えていなかった。ただ強すぎる光が恐くて、光の向うから吹いてくる風が恐くて、不安で、ただ不安で一人泣きじゃくる。見知らぬ部屋、見知らぬ家具、見たことのない透明な壁は少しスライドしていて、そこから風は吹いているのだった。
後ろでドアを叩く小さな音がして、栗色の長い巻き毛の女の子が入って来た。
「どうしたの? 何が悲しいの?」
その見知らぬ少女は首を傾げて問いかける。
「ママが……ママがいなくなっちゃったの」
ディモルフォセカはしゃくりあげた。
そうだ、ママと離れ離れになってしまったんだった。
幽かに浮上する記憶。
「ママなら下にいるよ? 泣かないで?」
長くカールしたまつ毛が縁取る大きな褐色の瞳が、ディモルフォセカを心配そうに覗き込む。
「ママ? ママが下に居るの?」
目を見開くディモルフォセカに、女の子は力強く頷いた。
「行こ?」
伸ばされた女の子の手に、戸惑い気味に、同時に嬉々としてディモルフォセカは手を伸ばす。しかし立ち上がった途端、ズキンとひどい頭痛がしてよろめいた。一瞬目の前が真っ白になって歪む。
「何してるの? 早くぅ」
女の子に急かされて、ディモルフォセカは小さく肯いた。
階下には、確かに人がいた。新聞を広げて読んでいる男の人と、キッチンに白いエプロンを付けた女の人が立っている。
「ママぁ」
女の子は、白いエプロンをつけた女の人に縋りつく。
「あらあら、アリッサム、どうしたの? ディムと仲良くしている?」
「ディムはママがいないって泣いているの」
女の人は少し緊張した面持ちでアリッサムと呼ばれた女の子に頷き返すと、ディモルフォセカの目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
「あらあら、ディモルフォセカ、どうしたの? ママはちゃんと下にいたわよ。こんなに目を腫らして……可哀想に」
その女の人は、少し不安そうに首を傾げると、エプロンの端でディモルフォセカの涙を拭いた。ディモルフォセカは混乱する。
この人が……ママ? なぜ……。
「ママ?」
声に出して質問してみる。
「どうしたの?」
その人は深い肌色のふっくらした手で、ディモルフォセカの青白い手をとって返事をした。ディモルフォセカは戸惑う。彼女は、何故あなたがママなのかと問うたつもりだったのだ。ちらちらと様子を見ていた男の人が、新聞を置いてディモルフォセカに微笑みかけた。
「どうした? 夢でもみたのかい? ぼうっとした顔をしているね」
「……」
この人は誰?
「ほら、パパのところへおいで。いつもみたいにキスをしておくれよ」
その人はにっこり微笑んで両手を広げた。
「……パパ?」
声が掠れる。
いつもみたいに? いつもって……どうだったかな。
「なんだい?」
その人は返事をするとディモルフォセカをふわりと抱き上げた。ディモルフォセカは硬直したまま抱き上げてくれた人の胸に頬を寄せた。不安な時の癖で、左の親指を吸ってみる。
「ディム、いい子ね。あなたにはパパとママとアリッサムがついているからね」
ママはそう言って、ディモルフォセカの頬にキスをした。
どうしてあなたたちが私のママとパパなの? どうして返事をして、私を抱きしめるの?
しかし、それを問うことができない。何か尋常でない強い力が、ディモルフォセカの中の疑問を否定する。世界が彼女の中の違和感を全力で否定していた。そしてそれは更に、この世界の秩序の中に身を沈めろと無言の圧力を掛ける。幼いディモルフォセカには、それを言葉にすることはできなかったが、本能で理解しやがて受け入れた。
ディモルフォセカは泣いた。それは抗うことのできない圧力に対する幼子の精いっぱいの抵抗だったのだが、皮肉にも、泣くことによって昂ぶった神経は僅かに残っていた彼女の中の違和感をかき消した。結果として幼いディモルフォセカは、それより以前の記憶を完全に喪失したのだった。
採取された記憶を追いながら見ていたカナメは、慌てて浮上すると記憶採取装置を緊急停止させる。しかし、時は既に遅かったようだ。
「ディム? ディム……」
目を見開いたまま反応の無いディモルフォセカの肩を揺する。
違う……違う、違う!
天地が逆転して、頭から真っ逆さまに落ちたような気がしてディモルフォセカは目を覚ました。誰かが自分の名を呼んでいるのは聞こえていたが、何が何だか分からない。
ぼんやりとしたまま考える。
――この子は森の民なんかじゃない!
そう叫んで泣きじゃくる、夢に出てくる輪郭だけの女性、あれは……私のママだったんだ。ゆるゆると記憶が蘇える。
おいで、おいで、と名を呼んで、歩み寄れば抱き上げて、頬ずりをしてくれたあの人は私のママだった。好きで、好きで、片時も離れたくなかった人だった。輪郭の中に鮮やかな笑顔が蘇える。
そうだ……私のママは、私と同じ緑色の瞳をしていたんだった。
大好きだった笑顔もまろい声も思い出したのに、名前が思い出せなかった。
ごめんね、ごめんね、ママ。私はあなたの名前が分からない……。
泣きじゃくるディモルフォセカの肩を抱きしめて、優しく髪をなでながら、思い出すな。忘れろ。忘れるんだと耳元で囁く心地よい響きの声を聞きながら、ディモルフォセカの意識は薄れていった。