第二十三話 *
残酷描写があります
今日は早く帰る、そう決めていた。
数日前、些細なことで彼女と言い争いをしてしまったのだ。自分が悪かったとは思っていないが、いい加減機嫌を直しておかないと厄介なことになることは経験的に分かっていたし、何よりも、ベッドで一緒に眠れないのが不便だった。もう何日もソファで眠っているので、首の筋を痛めてしまったのだ。
コンパートメントのドアを開けた途端、彼は違和感に気がついた。
幽かに何かが滴る不規則な音。不均一に混ざりこんだ饐えた匂い。
ぴちょん ぽつん ぽつっ ぴちっ
果たして、リビングには大きな血だまりがあって、そこから色々な部屋に点々と血の染みが続いていた。一つは寝室に、一つは書斎に、一つはシャワールームに。
彼は息を呑む。慌てて彼女の名を呼んだが、しかし返事は無い。
荒々しく寝室のドアを開くと、彼女はベッドに横たわっていた。彼は安堵の声を上げる。
「なんだ、眠っていたのか。リビングの血はどうした? 怪我でもしたのかい?」
よく眠っているらしい彼女の髪に手を伸ばした。しかし、その頭を支えているはずの首は頼りなく揺れ、次の瞬間、頭はごとりと鈍い音をたてて床に落下した。
「うわぁぁぁぁぁ」
◆◇◆
いつもより外が騒がしいのは気のせいだろうか。
ディモルフォセカはドアに耳を寄せて外の様子を窺う。
慌ただしく近づいてくる靴音が聞こえて、ディモルフォセカは慌てて小部屋の机の下に逃げ込む。
緊迫した様子でドアは荒々しく開けられ、入って来た人物は無言のまま小部屋のドアも開くと、真っ直ぐにディモルフォセカが隠れている机に歩み寄ってきた。机の下のディモルフォセカは身を縮めて目をきつく閉じる。
「ディム!」
恐る恐る目を開けると、切羽詰まった様子の双眸が覗きこんでいる。
「カナメ……もう、ちゃんと名前を呼んでよね。びっくりしちゃったよー」
ほっとした様子でモゾモゾと机の下から這い出すと、途端にふわりと体が持ち上げられ、抱きしめられた。
「無事でよかった」
「カナメ? どうかしたの?」
「三日後のガイアエクスプレスに乗れるように手配した。君はそれに乗ってアール・ダー村に帰るんだ」
記憶採取は後三年分を残すだけになっていた。カナメは、それが終わったと同時にディモルフォセカを帰すつもりらしい。
「……随分急なんだね」
抱きしめられたまま、ディモルフォセカは顔を歪める。
「大脳生理学研究所の職員が君に同行してくれることになってる。彼女が、研究目的で君を地下都市に招聘したんだと証明してくれるだろう。彼女はフェリシアの知り合いで、とても親切な人だそうだから、きっと大丈夫だ。問題なく君はアール・ダーに戻れるだろう」
「……戻りたくないよ。私、戻りたくない……」
ディモルフォセカはカナメを見上げて懇願する。
「君はアール・ダー村に戻って幸せになるんだ。君の幸せを……心から願っている」
「私、戻っても幸せなんかになれないよ? カナメが居ないのに……一人ぼっちなのに……」
見上げた瞳から涙が零れ落ちる。
「一人ぼっちなんかじゃないだろう? 家族もいるし、婚約者も居る。なかなかハンサムで誠実そうな人じゃないか。君にはもったいないくらいだ」
カナメの言葉にディモルフォセカは瞠目する。次いでクシャクシャに顔を歪めてわめき散らした。
「記憶を見たの? 私の記憶を見たのね? 嘘つき! 見ないでって言ったのに……。カナメ、見ないって言ったのにっ! 嘘つきっ、嘘つき!」
ディモルフォセカは寝室に駆けこむとドアを閉めた。ドアの向こう側から泣き声が聞こえてくる。
寝室のドアを見つめて、カナメは小さくため息をついた。
嘘つき……か。だけど、採取した記憶を見なければ採取した意味がないだろう? 何の為に記憶採取してると思ってるんだよ。
カナメは一人ごちる。
それに……。
カナメは更に深くため息をついた。
森の民は地下都市には居られないんだ。仕方がないだろう?
カナメだって手放すことを望んでいる訳じゃない。時間を費やして、手間をかけて、一つ一つ紡いできた二人一緒の時間が、自分でも驚くほど大切なものになっている。だからこそ、もう二度と会えないだろうことを思えば、痛みにも似た寂しさが胸に湧く。
しかし、ここには未来が無い。僕は一般人で、彼女は森の民だ。それ以前に、途轍もないほどの年の差なのだ。
再生治療を繰り返してカナメの体は摩耗している。再生治療といっても完全ではないのだ。子孫を残せるのは再生三回までが限界で、その後は限りなく困難になる。未来を紡げない一般人の自分と、未来を築くことを望まれている森の民の彼女。何一つとっても、何をどう考えても、一緒に居られる道が無かった。
カナメの住居があるこの地域は、高度警ら地域に指定されていて、セキュリティの厳しい地区だ。住人のほとんどがハルのブレインなのだ。しかし、そんなセキュリティの高さをあざ笑うかのように、今日、例の殺人鬼が現れた。
地下都市ハデスでは、近年、凶悪犯罪件数は増える一方だ。プランE始動への期待と不安で人々の心が不安定になっているのではないか、というのが専門家の意見だが、その不安要素を取り除く術はなかった。もうハルの人々には退路がない。後戻りはできないのだ。
ここには未来もない、安全さえない。あとカナメにできることは、ディモルフォセカを、彼女にとって一番安全なアール・ダーに戻すこと、それだけだった。