第二十一話
私は鏡が嫌い。暗闇の中に、物陰に、醜く歪んで息を潜める生き物の影を見つけてしまうから。
だから、部屋にある鏡はすべて壊してしまった。
粉々にひび割れた鏡は、しかし小さな醜い影を無数に映しだして、逆に私を竦み上がらせる。
――死にたい……。死にたい死にたい死にたい死にたい。どうしてこんなにしてまで生きていなければいけないの?
あの人は、もうすぐ治ると言った。だけど、とても信じられない。もういやよ。終わらせたい……もう終わらせたいの。
だれか、誰か、たすけて。
◆◇◆
一週間ぶりに戻ってきた自分のコンパートメントのドアを開けて、カナメは呆然と立ちすくんだ。
ここは……誰の部屋だ?
カナメの部屋は、もう何年も前に政府から貸し出された時のまま、何もいじっていなかった。だから全体的にモノトーンで寒々しい。それが一変していた。
暖かい黄色みを帯びた壁紙や、華やかな模様のカヴァーを掛けられたソファ、可愛らしいテーブルクロスを掛けられたダイニングテーブルの上には、今流行りの樹脂でできた造花が飾られ、焼き菓子が盛られた籠からは甘い匂いが漂っている。
二日前、イブキからフォボスのオフィスに連絡があった。部屋の模様替えをしてもいいかという伺いだ。あまりにも部屋が殺風景で、ディモルフォセカが可哀そうだとフェリシアが言うのだそうだ。無論、フェリシアがクレジットは負担するというのだが、カナメのクレジットを使ってくれて構わないと言っておいた。思っていたよりも、フェリシアとディモルフォセカは相性が良いらしい。仲が良すぎるあまり、フェリシアが部屋にほとんど戻らなくなったので、仕方なく自分もカナメのコンパートメントに良く出入りしているのだとイブキは言った。こんな風にフェリシアと打ち解けられたのは結婚して以来、実は初めてなんだとイブキは照れ臭そうに言った。
だから、部屋の模様替えのことは既に聞いていて、了承済みではあったのだが……。
ドアを閉めて、ディモルフォセカの名を呼んだ途端、ディモルフォセカが小部屋から飛び出してきた。
「お帰りなさいっ」
飛び出してくるなり、ディモルフォセカはカナメに飛びつく。思いがけず飛びつかれてカナメはよろめいた。
「ディム、誰が来たのか確認しないうちに出てきちゃダメだろう?」
「だって、声で分かったもん」
少し上気した頬に、喜色を湛えた瞳が輝いている。戸惑ったカナメの腕はしばし空中でさまよった挙句、結局、ディモルフォセカをぎこちなく抱きしめ返した。
これじゃあ、まるで久しぶりに再会した恋人同士みたいだ。
カナメは苦笑して、僅かだが鼓動を早めた心臓のふるまいに戸惑う。
一方、ディモルフォセカは内心驚いていた。
カナメが抱きしめ返してくれた。
今日は朝からドキドキしていたのだ。カナメが帰って来たらお帰りなさいと言いながら飛びつく、それは、あれ以来再々やってきては、カナメの心を掴む方法と称して怪しげな助言とレッスンをしていくコブの指導の賜物だった。
そんなことしたら、絶対にカナメに嫌われて拒絶される。そう言い張るディモルフォセカにコブは、そんなことは絶対に無い、昔から知っている俺の方が良く分かっているのだと言い張り、カナメの好む服、話題、果てはコロンまで指定して強制する。
コブの助言、実は凄いかも……。
いつものように先に寝ていなさいと言われたので、ベッドに横になったままカナメを待つ。起きて待っていようと思うのに、ベッドに横になってしまえば、あっという間に眠り込んでしまう自分の体質が今夜は恨めしい。
カナメに訊きたいことがあったのに……。
意識を浮上させようと何度も寝がえりを打つ。しかし甲斐なく、逆にいつもと違う滑らかな肌触りの夜着が素肌に纏わりついて、更にディモルフォセカを心地よく夢の世界にいざなう。
今夜着ているパジャマもコブが指定したものだ。薄くテロンとした生地のロングタイプのネグリジェで、アプリコット色の光沢のある生地は、ディモルフォセカの痩せぎすの体を比較的豊かに見せてくれる。これでも抵抗して、おとなし目のデザインに変えたのだ。これを着ないと、コブはあることないことカナメにばらすと言った。例えば、カナメの悪口をイブキに言ってたとか、ヴィジシアターの有料アダルトサイトばかり見てたとか……。
「ちょっと待ってよ。あることないことばらす……って、それ、ないことないことじゃないの! 私、そんなこと言ってないし、そんなの見てないし……」
憤慨して声を上げるディモルフォセカに、コブはこう言って睨みつけた。
「おまえは、ここに居たくはないのか?」
その一言にディモルフォセカは黙りこむ。
自分でもどうしようもないくらい、ここを追い出されることが恐くなっていた。カナメが帰れない代わりにフェリシアが来てくれるようになってからは尚更、カナメの不在が実に心もとない。いつの間に自分はこんなにもカナメに依存してしまっているのか、自分でも訝るほどだ。
ところで、どうしてコブは、カナメの心を掴む方法をこんなに熱心に自分に教えるんだろうか。ふと感じる違和感。
コブが最初に部屋に来た日、コブは自分の来訪をカナメには絶対に言うなと言った。散々森の民を恐れていた自分が、今更、森の民と仲良くしていると知れるのはきまりが悪いと言うのだ。
しかし、本当にそれだけだろうか。
コブには言わないと約束したけれど、ディモルフォセカはカナメに確認するつもりだった。
コブは、本当にファームの民なのかと……。
学校の教科書で習ったファームの民は、緑色の肌は葉緑体を持っているからであり、それによって彼らは体内で光合成ができる。だから水分やミネラルを経口摂取する以外は、食物を口にしないと習ったのだ。しかしコブは、ディモルフォセカがついうっかり勧めた焼き菓子を何の躊躇いもなく口にした。食べても大丈夫だったのだろうか。アルビノだから、十分な光合成ができないのだろうか。
しかしその疑問をカナメに問うことは叶わぬまま、ディモルフォセカはいつしか深い眠りに引きずり込まれていった。
フォボスから帰って来たばかりで、できることならさっさと休みたいところだったにもかかわらず、カナメが小部屋に籠って大して急ぎでもない仕事をダラダラとしていたのは、ひとえに動揺していたからだった。
ぎこちなく抱きしめたディモルフォセカの体の柔らかさに、ふと香った懐かしい匂いに、ひどく動揺していた。
更に、ぐっすり眠り込んでいつものように冷たくなっている彼女の体を、いつものように抱きしめて更に動揺する。いつもと違う薄い滑らかな布地が、彼女の体の線をダイレクトに伝えていたからだ。
今までは背後から抱きしめて温めながら眠っていたのだが、そうすると彼女の胸辺りに当たってしまう手のやり場に困るので、今夜は前から抱きしめてみる。冷えきった足先に足を絡ませ、冷えた指先を胸に抱え込む。それでもなんだか手のやり場がなくて落ち着かないので、彼女の髪を何度も梳きあげる。そうしているうちに、やがてカナメもまた深い眠りに落ちて行った。