第十六話
薄紅葵のハーブティーにレカンの輪切りを入れると、一瞬にして薄紅色から薄紫色に変わる。リラックスしたい時によくオーダーするフェリシアのお気に入りだ。肩で揺れるフワフワの金髪に淡紫の瞳、自分ではちっとも気に入ってないのだけれど、細い癖に胸周りだけはやけに豊満で、人が羨むほどの体型に恵まれたフェリシア・アメロイデスは、自室のリビングのソファで分厚い本をめくりながらくつろいでいた。
ハル大紀行、その分厚い本には、ジタン大災害以前のハルの自然が色彩鮮やかな画像で掲載されていた。山の尾根に積もる白い雪、雪解け水でできた川のほとりに可憐に咲く水葵。一面に広がる黄色い花の中で舞う虹色の蝶。紫色の夕べに浮かぶ赤い月と黄色い月。水辺で魚を狙うエメラルド色の尾羽をもつ鳥。そして……海に掛る虹。どれもこれもフェリシアが肉眼で見ることもないまま失われてしまった景色ばかりだ。
ハルが、これほどまでに美しかった時代に生まれたかったと、何度見てもそう思う。地下都市生まれ地下都市育ちのフェリシアは、幼いころから、最後に残された地上の森にあるというアール・ダー村にあこがれていた。しかし、行きたいというフェリシアの願いがかなえられることは無く、同じことだからと、両親は彼女をエリアEによく連れて行ってくれた。しかし、そこはフェリシアが思い描いていたハルの風景とは、何かが決定的に違うような気がしていた。
地下都市の人間がアール・ダー村に行けるのは稀なことだ。地上最後のオアシス。その村に行けば、かつてのハルのカケラでも見ることができるのではないかとフェリシアは今でも思っている。仕事柄、森の民と接触する機会が多少ある為、地上を懐かしむ彼らの言葉が、更にフェリシアを煽っているようなところは否めない。
本を支える手が痛くなってきて、フェリシアはそれをテーブルの上に置いた。この本を手に入れるのに一年かかった。それくらい、この本には大量のクレジットが必要だったからだ。紙を使った写真集は超高級品だ。それでも、どうしてもこの一冊は手に入れたかった。
急にエントランスのドアが開いて誰かが入ってくる。呼び鈴もなく入ってくるならば、それは彼だ。それ以外にはいない。フェリシアは溜息をついた。
「……いたのか珍しいな」
イブキは一瞬目を見張ると、肩を竦めた。
「あなたこそ、こんな時間に帰ってくるなんて珍しいですね」
二人は配偶者同士ということになっているが、お互いに住居で顔を合わせることはほとんどない。逆に仕事内容がダブっているフェーズでは毎日のように職場で顔を合わせることになる。
「また、その本を読んでいるのか?」
片眉をあげて見せる。その表情がフェリシアには気に入らない。馬鹿にされているように感じるからだ。イブキはアール・ダー村に行ったことがあると言う。そこで、記憶を見せて欲しいと頼んだのだが遠回しに断られた。新婚といえど、政府が決めた結婚だ。多少の我がままならば聞いてもらえるのではないか、などと思ったのが間違いだったらしい。
「どんな本を読んでいようと、私の勝手だと思います」
本を抱えて、もう一方の手でティーカップを持つとダストシュートに放り込む。彼に対しては、必要以上につんつんしてしまっている自覚はある。しかし、どんな風に接したら良いのか分からないまま、時間だけが過ぎてしまった感があるフェリシアには、今更どんな態度をとれば良いのか分からないのが本音だ。逃げるように自室に引き上げようとするフェリシアを、珍しくイブキが呼び止めた。
「なぁ、君に頼みがあるんだ」
イブキは、帰宅する道すがら大きなため息をつく。
カナメが再生治療後のインターフェース休暇から復帰して、既に一週間が過ぎていた。いつもなら、一週間びっしり休暇をとった挙句、頭が痛いだの、眠れなかったから調子が悪いだのと言ってグズグズと病休をとってから、ようやく職場復帰するやつで、職場に来れば来たで、今度は帰宅拒否症に罹ったように仕事に没頭して帰宅しないやつなのだ。
それが、正規の休暇が明ける三日も前から出てきて、毎日のようにほぼ定時で帰宅するとなれば、誰もが怪しむに決まっている。怪しまれる事を知っていながら、なんら取り繕う様子もないカナメに、イブキの方がハラハラする。
カナメはペットを飼い始めたらしいなどと、なんで俺が説明して回ってるんだよ。こんなことなら、俺がディモルフォセカを引きとっておけば良かったか。イブキは眉間にしわを寄せる。
しかし……。
カナメの傍に誰かを置いておきたかった。それが森の民ならば、尚更あいつの気を引けるだろうことも計算済みだ。
再生されるたび、疲れ果てたように諦めたように荒んでいく瞳に、少しでも光を取り戻せるのならば、多少の危険があっても試してみる価値はあると思ったのだ。
初めからイブキの狙いは、森の民の研究というよりもそちらの方が主だった。しかし、その効果は些か度が過ぎているようだ。
実は、元々面倒見の良いやつではあったんだよな、子どもの頃から……。
アール・ダー村に初めて行った子どもの頃を思い出す。カナメが拾った星ウサギは、結局最後までカナメの手からしかエサを食べなかった。
「何ですか? 頼みって……」
フェリシアは怪訝そうにイブキを見上げた。
「明後日から一週間ほど、カナメ・グラブラのコンパートメントに行ってくれないか?」
「どういうことですか?」
カナメ・グラブラは明後日から仕事でフォボスに行く予定になっているらしい。そこで、彼の飼っているペットの世話をして欲しいのだと言う。
「それは、私がしなければならないことなんですか」
「俺じゃダメなんだとさ」
イブキは不満そうに肩を竦める。
「じゃあ、ここに連れてくるとか……」
「……色々事情があって、外に出したくないんだ。君も行けば分かると思うけど……」
「まさか、違法生物ではないでしょうね」
「あー、ほぼ正解かな」
「悪事の片棒を担ぐなんて、私嫌です。それに私が通報するかもしれないとは思わないんですか?」
「行って実際に見てみるといい。君は通報する気にはならないはずだ」
イブキは意味ありげな瞳でフェリシアを見つめる。
とにかく明後日行ってみることを渋々了承して、自室に引き上げたフェリシアは、本をサイドテーブルに置くと、大きなため息をついた。
どうして私なの? さっぱり分からない。
希代の天才、彼の手にかかれば、夢物語でしかなかった装置が現実になってゆく。彼とその友人のカナメ・グラブラは、ある意味、神にも例えられるほどの有名人だ。そんな彼との結婚話が持ち上がった時、フェリシアは困惑した。フェリシアは、もう二度と家庭を持つ気などなかったからだ。
確かにフェリシアはハルのブレインとして再生治療を繰り返し、彼らほどではないにしても長い人生を送っている一人だ。だけど、イブキ・ピラミダリスともなれば、結婚したいと思うブレインの女性などワサワサいるはずで、望みもしていない自分が何故選ばれたのか、さっばり分からないのだ。
フェリシアには、かつて愛し合って結婚した人がいた。子どもも生まれて、この人と娘と三人で一緒にハルを脱出できれば良いとそう願っていた。それが、娘が三歳になった頃、何もかもが崩れ去った。
娘が、森の民の力を発症したからだ。
* * *
二日後の夕刻、フェリシアはエリアEで仕入れた新鮮な野菜をいっぱい詰め込んだ袋を抱えて足早に歩いていた。
フェリシアが世話をしなければならない動物は、どうやら星ウサギらしい。イブキはそうほのめかした。星ウサギなど、とうに絶滅した生き物だ。
まさかとは思いつつも、ハル大紀行で星ウサギのページにしげしげと目を通す。新鮮な野菜が主食で、特に好物なのは星ブドウらしい。今は星ブドウの季節ではないので、代わりに星ブドウジュースでも用意しようかと思案する。
昨日、職場にカナメ・グラブラがフェリシアをわざわざ訪ねてきた。
「フェリシア・アメロイデスって君?」
カナメは人気のない場所までフェリシアを連れて行くと、声を低めて話しだす。
「すまない。君まで巻き込んでしまって。イブキから既に聞いていると思うけど、明日からよろしく頼むよ」
「はい。私でできるだけのことはするつもりです。お世話するのに、何か気を付けることはありますか?」
フェリシアがそう問うと、簡単な取扱説明書のようなものを作って来たからと、メモリーを渡された。
「特に、夜眠った時に気をつけて欲しいんだ。理由は分からないんだけど、眠ると低体温になってしまうらしくて……」
星ウサギの生態は謎のままだ。やはり色々扱いが難しいらしいと、フェリシアは神妙に頷いた。
「あの、具合が悪くなった場合は、どうしたら……」
「その時は、イブキに相談してくれるかな? できればフォボスの僕のオフィスにも連絡をもらえるとありがたい。体力はあまりないようだし、精神的にも繊細なところがあるくせに無茶なことする子だから、手が掛って申し訳ないんだけど……」
精神的に繊細な星ウサギ? だけど無茶なことをする星ウサギ?
フェリシアは首を傾げる。
カナメから渡されたメモリーには、好き嫌いや、野菜を与える時の注意や、眠った時に注意することや、拗ねた時の対応の仕方などが細々と書かれていた。
拗ねた時の対応……ねぇ。星ウサギがヴィジシアターを見て機嫌を直すなんて知らなかったわ。
どちらかと言えば、無口、無愛想、いつも不機嫌そう、というイメージが強かったカナメ・グラブラの意外な一面に目を白黒させながら、フェリシアは注意事項を頭に入れていく。こんな風に濃やかに面倒を見てもらえる星ウサギは幸せだな、などとも思う。そして、その注意事項をすっかり頭に入れた頃には、フェリシアは星ウサギの面倒をみる気満々になっていた。
結果として、張り切ってエリアEにまで足を伸ばして、大量の野菜を手に入れたと言う訳なのだった。