第十三話
『姉さん、エウオニムス家なんかに行くことないよ。ここに居ればいいんだ』
ホルト……それはできない。それは……できないよ……。
ディモルフォセカはソファの上で目を覚ました。部屋の中は漆黒の闇が支配している。驚いてソファの背もたれから身を起こすと、すぐ傍で密やかな声がした。
「暗いから気をつけて」
「カナメ? これは一体……」
暗闇に慣れてくると、そこはただ単に真っ暗闇なのではないことに気づく。まるで砂粒を撒き散らしたような光の粒が、天井と言わず壁と言わず床と言わず、辺り一面に散開しあるいは集合し……。光る星雲が渦を巻き、暗黒星雲が宇宙に干潟をつくり、他の島宇宙が儚く光る。
ディモルフォセカは目を見張った。
「ソファに座ったまま振り返ってごらん」
言われるまま背もたれの向う側に目を向けると、遥かかなたにメラメラと真っ赤に揺らめく爪の先ほどの大きさの丸が見えた。
「ジタン……」
「近づいてみようか?」
カナメがそう言った途端、ゆったりとした速度で星が背後に流れ出す。
ガス状の大型惑星の横を幾つも通り過ぎ、暗く凍りついた大地をもつハル型惑星を二つ通り過ぎたところで、目の前に、青く輝く水を湛えた惑星が目の前に現れた。
「ハル……」
ディモルフォセカが感極まったように呟いた。
これは人々の記憶の中にあるハルだ。ハルがこんな状態だと、心から信じられるのは、ある意味幸せなことなのだろうとカナメは思う。
森の民の力、それはハルの悲鳴が生み出した能力なのかもしれないと、カナメは密かに考えている。
ジタン末期の大災害から二百年余りが過ぎたころ、ジタンからの有害な光線と熱に耐え、大気を一定に保とうとする能力がアール・ダー村の植物に備わった。その適応力の速さ、能力変化の的確さに当時のハル政府は驚愕した。
それが森の民のなせる技であるということが判明した時、ハル政府は困惑した。
アール・ダー村は療養の村。治る見込みのない虚弱な人たちが最終的に住むことを強要された、言わば姥捨て山的な村だったから。
森の民の力で、僅かに残ったハルの地上は、当初ハル政府が見込んでいたよりも長くその寿命を保っている。森の民の出現がなければ、日に日に苛烈さを極めるジタンの光線の前にアール・ダーはとっくに壊滅していただろうし、地下都市のバイオラングでさえ、順調にその機能を果たすことはできなかったに違いない。つまり、ハル文明の滅亡をぎりぎりの崖っぷちで留めているのは、森の民だということになる。
森の民たち自身は知らぬ事だろうが、今や、森の民は国宝級の扱いだ。できれは、こんな形では関わりたくなかった。カナメは小さく溜息をついて、ハルの青い光に照らされたディモルフォセカの横顔を見つめる。
映像が終わって、徐々に部屋の明かりが戻ってくると、ディモルフォセカは自分が前と同じ白い小部屋に居たのだと気づく。カナメはソファの足元に足を投げ出した体勢で床に座っており、その横に何かの機材が転がっていた。配線コードが引き抜かれたように剥きだしのままねじれている。
「ディム、今日から君は僕の寝室を使いなさい。監視カメラを外しておいた」
「え? 監視カメラ?」
「ああ。市長の変な趣味なんだ。気分悪いから自分で外した。そのうち市の職員が回収しに来ると思う。誰か来たら、君はどこかに……隠れて……て……」
カナメの言葉は次第にゆっくりになり、小さくなり、やがて途絶えた。
「カナメ?」
穏やかな寝息が聞こえる。うっすらと汗ばむ額。疲れているような、苦悩しているような、憔悴した横顔。
この部屋はディモルフォセカの為に空調を切ってある。カナメにとっては暑いのだ。空調の使い方を知らないディモルフォセカは、考えた末、小部屋のドアを開け放すことにした。閉まらないようにドアに椅子を挟む。リビングでフワフワ飛んでいたアレオーレが喜んでディモルフォセカにじゃれついてきたが、彼女が再び小部屋に戻ると再びリビングに戻って行った。余程この部屋が嫌いらしい。
ドアの隙間から涼やかな風が吹いて来る。
アール・ダー村のオーランティアカの家は、大して大きくない家だったが、どの部屋にも大きな窓がついていた。明るい光と風が吹き抜ける部屋。光に満ちた場所。こことは正反対だ。窓は無く、ジタンの光も届かない。
昔は良かった。ママがいてパパがいて弟のホルトがいて、小さいころはアリッサムもいて……幸せだった。
「どうしてこんな事になっちゃったんだろ……」
冷えてきた部屋の中、一人身震いする。座ったまま眠り込むカナメを揺する。
「ねぇ、こんな所で眠ると体痛くなっちゃうよ? 私はソファで大丈夫だから、カナメ、ベッドで寝なよ」
「……うん」
返事とは裏腹にカナメが起きる気配はない。
「ねぇってばぁ」
揺すったり引っ張ったりしているうちに、ディモルフォセカも眠くなってしまい、カナメの隣に座り込んでウトウトし始め、やがて眠り込んだ。
カナメは走っていた。
霧が深いので、どこを走っているのかは分からない。しかし追われているのだと分かる。何故なら、ただ追われているのではないからだ。追ってくる者たちの濃密な殺意が押し寄せる。
追っているのは一人ではない。大勢の足音が迫ってくる。尋常な数ではない。大声で怒鳴っている者もいる。カナメのことを罵っているのだ。
その恐ろしいまでの、殺意を含んだ怒り。
声は叫んでいた。
「殺せ!」
多くのものが叫んでいた。
「あれは有害な化け物だ」
「災いを招く死神だ!」
ちがう! 僕は死神なんかじゃない!
「違う!」
カナメは叫ぶ。しかしカナメの耳に聞こえたその声はくぐもった唸り声だった。不審に思って自分の手を見る。それは闇に溶けたような漆黒の掌。カナメは目を見開く。その真っ黒な影のような掌には、骨が……それこそ夥しい数の骨がうず高く積み上がっているのだった。
そうだ……僕は殺した。人を引き裂いて、バラバラに……粉々にしたんだ。
死神だ! カナメは戦慄して掌の上の骨を放り捨てると、頭を抱え込んだ。
うう……うぅ……僕は何をした? 僕は、一体何をしてきたんだろう。
カナメは、慟哭しながら目を覚ました。汗びっしょりだ。
また、いつもの夢だ……夢だ。いつもの夢だ。自分にそう言い聞かせる。
分解再生されてからしばらくは、嫌な夢ばかりを見る。体と心がインターフェースをとるために見る夢なのだと言われる。見るのは悪夢ばかり。座ったまま両手で顔を覆う。
ふと気づくと、傍らにディモルフォセカが寄り添うように眠っている。
「ディム? ディム、起きなさい。こんな所で寝ていると体を壊すよ」
これじゃあ寝室のカメラを外した意味がない。カナメは苦笑すると、ディモルフォセカを抱えあげて、寝室へ運んだ。ディモルフォセカをベッドに寝かせると、力尽きたように自分も横たわった。
カナメは、三百年にも渡る、彼の長い人生の中で結婚したのは、ただの一度だけだった。それも半年暮して別れた。その後の政府からの介入はことごとく無視した。
何故かと問われれば、他人と暮らすことが苦痛だからと彼は答えるだろう。干渉され、生活のリズムを崩されると。相手が悪かったんだろうとイブキは言うが、二度と面倒なことはごめんだ。
しかし、事実は少し違う。カナメは薄々自認していることだが、変わることが怖いのだと思っている。心の奥底に沈んで幽かに光を放っている過去を、失う、もしくは忘れる、そうなってしまうのが自分は怖いのだと。