第十話
星ウサギという動物を知っているだろうか。かつて惑星ハルにいた動物だ。今はもう絶滅してしまって、遺伝子情報でしか残っていない。
白いボディにキャメル色の耳と尾、尾の先が蛍光を発するので星ウサギと呼ばれる。かつて毛皮の美しさと手触りのよさで乱獲された。生態ピラミッドのほぼ底辺に位置する草食獣であるにもかかわらず、繁殖力がそれほど高くない生き物で、まもなく絶滅に追い込まれた。カナメは子どもの頃、その星ウサギを飼っていたことがあった。アール・ダー村でのほんの僅かな間だったが……。
ディモルフォセカのベッド用にソファを白い小部屋に運びこんだ後、カナメは落ち着かない気持ちで自分の寝室のベッドに寝転んだ。
本当ならば、寝室を明け渡すべきなんだろうけど……。一応女の子なんだし……。しかし、今ここを使わせる訳にはいかないしなぁ。
寝転んだまま、カナメはあれこれ考える。
何故落ち着かないのかは分かっていた。自分の部屋に他人が居ることに慣れていないのだ。カナメはその長い人生の中で、唯一いた配偶者とは、共に過ごした期間があまりにも短かった。
結局寝つけずに、ダイニングで飲み物を作ったり、リビングをうろついたりした挙句、カナメは白い小部屋のドアを小さくノックしてみた。
やはりソファではなく、ベッドをリビングに運んで、そこで寝かせた方が良いだろうと考えたからだった。いくら小柄だからとはいえ、リビングに置いてあったソファで寝るのは窮屈だろうと思えてきたのだった。しかし返答はない。ふと、気になったカナメがそっとドアを開けてみると、そこには、星ウサギがソファの上で丸くなって眠っていた。
キャメル色の長い耳が折れ曲がって顔を覆っている。
カナメは一瞬瞠目した後、小さく吹きだすと、ソファでぐっすり眠っているらしい星ウサギの耳を持ちあげてみる。そっと顔を覗きこんだカナメは、しかし慌ててその肩をゆすった。
「おい、君、大丈夫なのか? ディモルフォセカ?」
常夜灯に照らされたディモルフォセカの顔色はひどく青白く、ぐったりして見えた。苦しげに閉じられた瞼、小刻みに震える体。夜着から出ている小さな手は、氷水につけていたのではないかと疑うほど冷たい。
「……っ」
幽かに身じろぎしてディモルフォセカが目を開けた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「……寒い」
この部屋だけは空調を切ってある。地熱で暑いくらいなのだ。カナメはディモルフォセカの額に手を当てる。指先ほどではないが冷えきっている。カナメは医療用キットを取り出すと、体温や血圧を測る。
すべてが低い。否、低すぎる。
「君、元々、こんなに体温が低い人?」
ディモルフォセカは小さく首を振ると、消え入るような声で、今まで体温が低いなどと言われたことは無いと言った。
カナメはディモルフォセカを抱きかかえてソファに座ると、自らの手で指先を温める。
「ごめん……なさい。迷惑かけて……ばかりで……」
「いいから眠りなさい。疲れているのかもしれない」
「……地下都市に来てから、眠るのがいつも怖かったんだよ。急に寒くなって、目を開けてられなくなるの。そのまま死んじゃうような気がして……」
ぐったりと肩に寄りかかるディモルフォセカの頬を掌で温める。
「怖いよ。私……また、目覚められるかな……」
「大丈夫だ。付いてるから。ちゃんと起こしてあげるから」
カナメの言葉に小さく頷くと、ディモルフォセカは墜落するように眠りこんだ。
森の民が植物に力を使った後、低体温症を起こすことは良く知られている。しかし、ディモルフォセカは力を使った訳じゃない。アレオーレはこの小部屋を嫌って付いてこなかったし、ヒカリゴケだって家の中には持ちこんでいない。では何故これほどまでに体温が低下してしまうのか。少し調べてみる必要がありそうだ。
まもなくカナメもまた急速な眠気に襲われる。再生したばかりの体と心がインターフェースをとる期間なので、カナメもまた体調が万全ではないのだ。しっかりとディモルフォセカを抱き抱え直すと、カナメも墜落するように眠りこんだ。
* * *
ディモルフォセカは水の中を歩いていた。
水は冷たく氷のようで、体が動かない。それでなくても水の抵抗で思うように動けないのだ。しかし前に進まなければいけない。それだけが分かっていた。
ごぼっごぼっと吐きだした息が泡になって上っていく。
――苦しいよう。寒い……。助けて……誰か……。
目の前が暗くなって、一歩も前に進めなくなってしまう。水はいよいよ冷たくなり、重くなり、肺に入ってくる空気は滞っていく。視界が狭まり、そのまま暗く閉ざされていくかに思えた……その瞬間、まばゆい赤い光が差し込んできた。
――あぁ……温かい。
ディモルフォセカは、その光の源がジタンだとすぐに気づく。
――こんな深い水の底にまで、ジタンの光が……。
暖かく包み込まれるような日差しの中で、ディモルフォセカはほっと息をつく。しかし、次の瞬間、現実を思い出して呻いた。
――私、アール・ダーには戻っちゃいけなかったんじゃなかった?
ディモルフォセカを見て困惑する人、人、人……。
『ディモルフォセカ、政府の決めたことは絶対なのよ。結婚をやめたいなんて馬鹿なことを言わないで』
――ねぇ、ママ、どうして私の目を見て言ってくれないの?
『ディム、もしオーランティアカに戻って来たければいつでも戻ってくればいいんだよ。ママが何と言おうが構うもんか。パパが何とかするから……』
パパ? ママと何があったの? 喧嘩しないで。何があったのか教えてよ。
『……姉さん、俺と逃げようか?』
ホルト? みんなどうしちゃったの? みんな変だよ? みんな、私に何を隠しているの?
――そうだ……私はアール・ダーに戻ってはいけないんだった。みんなに困った顔をさせてしまうから……。私は戻ってはいけなかったのに……。
ディモルフォセカは耳を塞いで蹲った。
カナメは砂漠を歩いていた。
どこもかしこも暑く乾いている。ひどく喉が渇いていた。カナメの周りでたくさんの人々が、やはりカナメと同様に足を引きずりながら歩いている。誰も口を閉ざし苦渋の表情を浮かべている。何度も足を砂にとられ、体が傾ぐ。ジタンの光は益々苛烈さを増していた。
木陰を探すが、見渡す限り砂ばかり。しかし、そうであるのに、カナメは少しずつ自分の体が冷やかになってゆくのを感じていた。足取りも軽く、喉の渇きさえ癒されていく。徐々に軽快になっていくカナメの足取りに、不思議そうな顔で隣の男が声をかけてきた。
『おや? あなたは何をお持ちですか?』
その男は漆黒の瞳を悪戯っぽく輝かせた。カナメは男の言葉を怪訝な思いで聞き、持っていた荷物に目をやって驚愕する。
「これは……」
隣の男も一緒に覗き込む。
「ハルだ……」
『ハルですね』
カナメが驚いて、男は納得した様子で、同時にその名を口にする。
それは、ひんやりした透明な水を湛えた瑠璃色の球体で、ゆっくりとカナメの手の上で回転していた。
これを持っていたから涼しかったのか。
カナメもゆるゆると納得する。
『いいですな、それ。私に譲ってくれませんか?』
男は密やかに問いかける。
「いや……これはちょっと……」
カナメは口ごもり、思わずハルを男から隠してしまう。
『ははは、そうでしょうね。私があなたでもそう言いますよ。埒もないことを聞いてしまったようだ』
男は破顔すると、着ていた真っ黒なマントを翻した。途端に砂塵が舞い、カナメは目を閉じた。