第九話
ディモルフォセカはモニターの前で、目を見張っていた。
『流れ落ちるロング・ドレープがあなたを主役に仕立てます』
光沢のある滑らかなシャンパン色の生地のネグリジェが、モニターに映し出される。
ふぇぇ。こんなの着て寝たらパーティに行く夢を見たりして……。次、カチリ。
『妖精のため息でつくった極上の生地で、素敵な夢の世界へ』
ふんわりして肌触りの良さそうな薄緑色のセパレートパジャマだ。
ふぅん。これいいかも。次、カチリ。
『寝相が悪くても大丈夫、耳つき・しっぽつき・モコモコ生地、どうやっても可愛くしか見えません』
白い生地のフード付きパジャマにキャメル色の耳としっぽがついている。
へぇぇ、なるほどなるほど……。私、寝相が悪いからなぁ。これもいいなぁ。次、カチリ。
『主役は素肌、あやうげなラップデザインのパジャマが、あなたを魅惑の夜へといざないます』
てろんとした生地の黒いネグリジェで、巻いてあるタイプなので寝ている間に肌蹴てしまいそうだ。
思わず、ディモルフォセカはモニターに食い入るように見入ってしまう。
魅惑の夜……それって……。
その時、突然背後から声を掛けられてディモルフォセカは文字通り飛び上がった。
「ディモルフォセカ、君はパジャマを選ぶのに、どれだけ時間をかければ気が済むんだ?」
振り向くとカナメがあきれ顔で佇んでいた。
先ほど、カナメから上着を渡された。もう着ないから、これの代わりに夜着を用意しなさいと言われたのだ。渡された上着はとても上等そうな手触りの良い布で、しっかりした作りのものだ。
まだ着れそうだけど……。これの代わり? なにそれ。いや、それよりも……。
「これ……もう着ないの?」
ディモルフォセカは不思議そうにカナメを見上げる。
「さすがにそのデザインは、もう着る気になれない」
そう言われてディモルフォセカは上着を広げてみる。深い緑色の上着には、豪奢な刺繍が施されていて、森の民の長老がこんな上着を着ていたと思いだす。
「これカナメの?」
「そうだけど?」
随分渋い趣味……だったのかな? 趣味が変わったってこと?
首を傾げて考え込むディモルフォセカに、どの夜着にするか自分で決めなさいとカナメは言って、彼女をモニターの前に連れて行ったのだった。
「あ、あの……ごめんなさい。たくさん種類があるから迷っちゃって……本当にどれでもいいの?」
背後のカナメに問いかける。
「それにするつもりなのか?」
モニターをチラリと見て肩を竦めるカナメに、ディモルフォセカは火がついたように真っ赤になった。モニターでは、危うげなラップデザインパジャマを来たモデルのお姉さんが誘うようなポーズをとっている。
「き、着ませんよっ、こんなのっ」
慌てたディモルフォセカの指がモニターの画面を上滑りして、考えていたのとは違うパジャマが確定されてしまった。
わあっ、こんなの選んじゃったし……。でも、これはちょっとなぁ。変えられるの……かな。
しかし、訂正を言い出す間もなく、モニターの横にあったダストボックスのようなものがパカリと口をあけた。しかも、有無を言わさぬ口調でカナメが指示を出す。
「ほら、早く上着を入れる」
「え? あ、でも……あ、いえ……まぁ、いっか。あの、これ?」
手にしていた上着を持ちあげるとカナメが頷くので、慌てて上着を放りこんだ。入れた途端に口がパタンと閉じて、うぃーんと稼働する音が聞こえた。まもなくモニターに数値が表示される。確認ボタンを押すと、そこからディモルフォセカの選んだパジャマの横にあった数値分が差し引かれ、更に隣にあった蓋つきのボックスの蓋が穏やかに点滅し始めた。カナメが開けるようにそれを指すので開いてみると、中にはディモルフォセカが選んだパジャマが入っていた。
アール・ダー村では、汚れた服は洗う、破れた服は縫う。それが当たり前だった。地下都市では違うらしい。破れた物も汚れた物も気に入らなくなった物でさえ、すべて分解して新しいものに再生するのだ。質量が同じものなら物々交換になるし、質量が少ないものに換えるときには、余った分のポイントがクレジットとして貯まる。逆に分解した物よりも大きいものと換える場合には、ストックしていたクレジットから引き落とされるのだ。
「アール・ダー村にも分解再生装置があるはずだろ?」
出てきたパジャマに呆然とするディモルフォセカに、カナメは怪訝そうに首を傾げる。
「うん、管理棟にあるよ。だけど、こんなことができるなんて知らなかった。だってね、その機械に触れるのは長老さんだけなんだよ。新しい服は季節ごとに長老さんがみんなに配ってくれるの。だから、この機械がそんなものだって知らなかった」
「アール・ダーでは運用方法が違うのか……」
アール・ダー村の運営状況を少し確認しておいた方がいいのかもしれない。カナメは考え込む。
次に、ディモルフォセカはシャワールームで呆然とする。
なにこれ……。
シャワールームだと教えられたドアを開けて、中を見て途方に暮れる。
オフホワイトの壁で囲まれた部屋の中に、筒状の半透明の個室があった。筒の中には、いくつかスイッチがあるようだ。
ディモルフォセカは筒の中に入って、しげしげと中の構造を見回す。
どこからお湯が出るんだろ。確か、シャワーを使う時にはソープが必要だったと思うんだけど……それは、どこにあるの?
さっぱり分からなかったので、仕方なくカナメを呼ぶ。
「シャワールームの使い方が分からないだって? アール・ダーではどうしてたんだ?」
カナメがあきれ顔でシャワールームにやって来た。
「ほとんど水浴びで済ませてたから。わっ、私だけじゃないよ? アール・ダーでは大抵の人が、それで済ませちゃうし……」
アール・ダー村には水浴びをする為の泉があった。ダフネの泉という。泉の周りを香りの良い月光樹という香木が取り囲んでいるのだが、そこの月光樹は特別な性質を持っていて、精油のような成分を根から分泌していた。だから、泉の水には月光樹の良い匂いが移っていて、ソープなど使わなくても、その水を使うだけで体も髪もきれいにすることができた。
「もしかして……ダフネの泉?」
ふと思い出したように問うカナメに、ディモルフォセカは頷く。
「懐かしいな。あの泉、まだあるんだ」
そう言って楽しげに笑うカナメに、目が釘付けになってしまう。
この人は、こんな笑い方もするんだ……。
「ダフネの泉を知ってるの?」
「ああ、知ってる。アール・ダー村に行ったのは子どもの頃なんだけど、その時にもあったよ」
子どもの頃に行った? 一般人がアール・ダーにやってくることは滅多にない。たまに視察で来るのだって、必ず大人だ。一般人の子どもが来たなんて話をディモルフォセカは一度も聞いたことがなかった。
奇妙な違和感。
「このスイッチを押すと全部オートで洗浄してくれる。これが温まるだけの時、で、こっちが……」
スイッチを指差しながら教えてくれているカナメの顔が、やけに近いことにふと気づいて、ディモルフォセカは動揺した。うろたえて後ずさった拍子に、肘が何かのスイッチを押してしまう。軽い警告音がなって、筒のドアが閉まってしまった。
「あっ」
二人で瞠目して見つめ合う。
「何か押しちゃった。どうしよう」
カナメは顔を顰めた。
「オートだと、終わるまで十五分はここから出られないな」
「えーっ」
突然足元からブワッと湯気が立ち上る。
「きゃあ! なにこれ」
「心配ない。ただの蒸気だ」
カナメは面白そうにディモルフォセカを見下ろす。
ほどよく湿って温まったところに、香りの良いソープが降り注いだ。ほどよい硬さのブラシでまんべんなくブラッシングされて、それが終わると上から下から勢いよくお湯が降り注いだ。お湯が降り注いできた瞬間、カナメがディモルフォセカの頭上で両腕を伸ばして、彼女を自らの体で庇ってくれたのだが、大した甲斐なく二人してびしょ濡れになる。
頭上でくつくつと笑う声がして、ディモルフォセカは顔を上げた。カナメのずぶ濡れの髪の先から雫が滴り落ちて、ディモルフォセカの顔をつたう。
「……ごめんなさい」
「随分長いこと生きてるつもりだったけど、服を着たままシャワーを浴びたのは初めてだ」
カナメはそう言って、楽しそうに笑った。
「……私も初めて……」
困って小さく笑うディモルフォセカをカナメは優しげに見下ろす。
ふいにカナメの手が、ディモルフォセカの短くなってしまった髪を一筋すくった。
「この髪はどうした? 森の民の女性は髪を大切にするものだと聞いているが……」
ディモルフォセカの髪は、アール・ダーを出た時には腰よりも更に下、足首に届くほど伸びていた。物心ついた時から切ったことがなかったのだ。それを三つ編みにしていた。
「……私……すごく喉が渇いてて……」
地下都市に来てすぐにディモルフォセカは困窮した。水一杯でさえ手に入れることができなかったのだ。そんな時、優しそうな老婆が声を掛けてきた。
見事な髪の毛だねぇ、と。
「それで、たった一杯の水と髪を交換したのか?」
カナメは顔を顰める。
「こんなに短く切られちゃうなんて、思ってな……かった……んだけ……ど……」
笑って言うつもりの言葉は、とぎれとぎれになり、震えて続かなくなり、やがて掠れて消えた。
こんなはずじゃなかった。だけど地下都市に来てから、すべてがこんな調子だったのだ。
「バカだな、君は……」
小さくしゃくりあげるディモルフォセカの髪をやさしく梳きあげながら、カナメはそう言うと、すぐに伸びるさと付け足した。
すべての工程が終わると、開いたドアからカナメは出ていった。
「君はもう一度、今度はちゃんと服を脱いでからシャワーを浴びなさい」と言い残して。