カナリアの墓と謎の墓
ポーチに座って携帯ゲームをしている時、母さんが玄関から扉を押して出て来た。
「あら、幸樹。気持ちのいい日ね、今日は」
母さんは頭に淡い色合いのマーブル模様のスカーフを巻いて、萌黄色のトレンチコートを羽織っていた。その下は乙女チックな白いリボンの付いたブラウスと、ゆらゆらと風にはためく薄い布のロングスカートという格好だった。
母さんはドア横にある鮮やかな黄色のスイセンのプランターの前にしゃがみ込んで、一本根元から引き抜いた。
「え!?可哀そう!」
幸樹は思わず驚いてそう叫んだ。
「大丈夫よ。すぐに植え替えるから」
母さんはすぐ横の林に入って、山道から見ると手前の樹の陰になっている、少しだけ奥まった場所の樹の根元にスイセンを植えた。裸の手で時間をかけて少しずつ穴を掘って、丁寧に植えていた。それから土を払うように両手をはたいてから、しゃがんだまま手を合わせた。幸樹はポーチに座って斜めからその様子を見ていた。
母さんはポーチに戻って来てプランターの土を整えた。母さんは立ったまま幸樹の方を向いた。
「カナリアを買っていたのよ。でも、丁度幸樹が来る三か月前くらいに死んじゃってね。あそこの樹の下に埋めたの。死んじゃった時は寂しかったわー。花は、あの世に旅立った生き物の行った先が荒涼としないように、そこにも花が咲いてくれるようにって願って、幸せを願って供えたの。そばで生きていたものが死んじゃうのって、身を切られるみたい。でもたとえ死んでしまっても、愛しいものをいたわって大切に思う気持ちは誰にも邪魔できないし、邪魔してはいけないわ」
幸樹は再び、花を植えた場所を見て、
「うん。そうだね」
と言った。
母さんは家の中に入った。水道の水を出す音が聞こえた。
母さんは死んだカナリアに手を合わせるためだけによそ行きの服を着てきたらしい。そんな服で、着飾る機会がそもそも少ないせいだからだろう。母さんは月に一度しか家から遠くに行かない。山の家に籠った生活で、たまには華やかな気分になりたくなるのも無理はない。
僕にはその程度の少しばかり遠くの世界や町の空気を吸う機会すら与えられない。
幸樹はしばらくそこでゲームをしていた。母さんが家の中に戻るさっきまでは柔らかかった風が、にわかに頬を擦るようなきつくて鋭い調子を帯びてきていた。
それから二か月後の一日、幸樹は意を決して、出かけていく父さんたちの後をつけることにした。
父さんたちは家から出ると、山を下っていったが、すぐに引き返して、今度は山を下るのではなく登っていった。何があるとも思えない山をさらに登っていくのを、自分たちを見送る幸樹に見られると不自然に思われると考えたのかも知れない。
その日は、少し湿度があるが、気持ちのいい空気を感じる五月晴れの日だった。他に人通りのない一本道で後ろを振り返られても見つからないように、幸樹は道から外れた横手の森の中に入り、道の端まで来て見下ろさないと見えない斜面の少し下の方から、父さんたちを見上げながら付いていった。
養分の豊富そうな柔らかい土は、足音を消してくれた。樹の匂いがした。青臭いけれど頭がすっきりするような、それでいて優しい匂いだ。その匂いを嗅いで、少し落ち着いていられた。父さんたちの姿ばかり追って、目の前に屹立する樹木にぶつからないように注意した。
父さんと母さんは、互いの顔を見ることもなく、少なくとも幸樹に聞こえる限りでは、声も出さず、話さず、味気ない様子で歩いていった。ただのつまらない散歩のようにも見えた。しかし、どこか殺伐とした荒んだ感じも含んでいるように、幸樹は感じた。
父さんたちは幸樹が最初に意識を自覚した岩の前に来た。岩は横にはっていて、でこぼこして硬くて痛々しかった。岩肌は、道を越えた横手の森の中まで続いていた。二人はその岩肌に沿って、幸樹がいるのとは、道を挟んで逆側の森の中へ入っていった。
幸樹は斜面を駆けあがり、音を立てずに走って道を横切った。反対側の森に入って、岩から距離を置いて夫婦を尾行した。森の緑と夫婦の姿を覗かせる縦に伸びた隙間を何本も傷のようにもつ焦げた飴のような色の何枚もの樹木の帯で、夫婦から隔てられて姿を隠しながら、夫婦が手を当てながら進む高く巨大な岩に沿って進んだ。
岩壁に、極端に太っていなければ成人の大人でも何とか横歩きにならなくても通れる程度の裂け目が見えた。夫婦はそこに入っていった。さくさくと先へと進む父さんの背中に落ちる岩壁の影が少し濃くなった時に、幸樹は裂け目に近づいていった。裂け目の入り口から母さんの背中も影に飲み込まれながら小さくなっていくのが見えた。
幸樹はその場でしばらく待った。十五分くらいして、父さんたちがそこを通り抜けただろうと思う頃に(その岩の裂けた通り道にどれだけの距離があるのか、推し量る材料も不足していたのでまったく根拠はないが)、幸樹もそこに足を踏み入れていった。
地面が土ではなく、ごつごつした硬い岩のようなものに変わった。足音がやや壁に反響するので、おそるおそる歩を進めた。十分と少しくらいの間、差し込む光の少ない、この岩肌の裂け目から続く道を歩き続けた。
そう言えば、夜でもないのにどうしてここまで暗いのだろう。上を見ると、両脇の岩は空へ伸びるにしたがって内側に斜めに傾き、頭上には、細い線のような隙間からわずかな青空が漏れるだけであった。不完全なトンネルのようなものであった。
神経を少し臆病なくらい張り詰めさせながらトンネルを抜けた。そこは光がしっかりと届く広い場所だった。足元の地面は苔むした岩や小石でできており、石や岩の間から草花がいくつも力強く生えて、細い小さな浅い川が流れる峡谷だった。陽光を受けた岩肌が健康的な色を発していた。
幸樹が出て来た裂け目からそう遠くない場所に、白く塗装された直方体の建物が見えた。
窓の数と位置から、二階建てであると分かった。ドアのノブだけが銀色をしていた。父さんたちはこの建物の中に入ったのだろうかと思っていると、建物の脇に西洋の墓のような、美しくカットされた石が見えた。
幸樹はそこに近づいた。それは、やはり墓であった。白い花束が供えられていた。花の種類も本数も豪華な花束だった。その墓には「Asida Kouki」と彫られていた。
Koukiは自分と同じ名だ。Asidaは父さんと母さんの苗字だ。つまり「Asida Kouki」は幸樹と同じ名前と言っても過言ではない。
幸樹はしばらく茫然と佇んだ。しかし、はっとしたように、周囲に父さんたちがいないかどうか左右と後ろを確認して、走って、もと来た岩の裂け目を通り抜けた。裂け目に入る前に、走りながら峡谷に場違いに立つ白い箱のような建物を振り返った。幸樹は涙こそ流さないが、泣きべそをかいていた。くじけたような情けない顔で、父さんに追いつかれることのない内に家に戻ろうと、父さんと母さんが歩いてきた道を駆け抜けて、家に帰った。帰ると、思った通り家にはまだ、誰も帰っていなかった。
幸樹は家に足を踏み入れた途端膝をつきそうになったが、なんとか堪えて、自分の部屋のベッドまでいって、枕に顔をうずめた。ショックが幸樹の心を蹂躙した。
幸樹は苦しかった。詮索してはいけないことを詮索した自分にも苦しくなったし、立ち現れた「Asida Koukiの墓」というものにも、それが示してくるまだ輪郭の曖昧なおおまかな真実にも狼狽した。
墓に入っている「Asida Kouki」はおそらく写真の子だろう。なぜならきっと父さんは同じ名前を同じ顔の僕につけて、その子の代わりにしたというのが、いくつかの事実を繋げて出てくる自然な推理なのだから。
父さんたちが自分を通して、幸樹自身ではなく「Kouki」を見ていたということを悲しく思った。失礼に感じた。
だが、どうして僕は「Asida Kouki」と同じ顔をしているんだ?何らかの操作で記憶を消されたその子の双子の片割れか?あの白い建物は何をする場所なんだ?それとも、僕は……?何かもっと人為的な存在……?
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