カラフルでにぎやかな近未来の町
何と町までは歩いて片道三十分ほどしかかからなかった。まるで遠い世界のように思っていたから、幸樹は呆れた。初めて父さんの家に来た日に、山から見下ろした夕闇に沈んだ町は、あんなにも遠くはるかに見えたのに。まるで広角レンズを通したみたいに。本当に、今日、山道の端に見下ろしながら歩いてきた景色とは、距離感がまるで違っていた。
斜面が平坦になってきて、ガードレールの内側を歩いた幅の広い道路の先に、西洋の本の挿絵みたいな風景が見えてきた。幸樹は父さんの後について、その風景の中に足を踏み入れて言った。
白と緋色の石が交互に並べられた広い道の両側には、レンガ造りの家や、三角屋根のパン屋やレストラン、透明ガラスに覆われた売店、綿あめや果物を売るパステルカラーの露店などが軒を連ねていた。
「菓子でも買ってやろう」
そう言った父さんに連れられて、幸樹は「cherry」と看板が掲げられて、表の外壁の自動ドアの左側に何やら甘い匂いのするスミレ色の水を滝のようにつたわせている店に入った。店の外装はピンクとレモン色の煉瓦で出来ていた。
「いらっしゃいませ。お味見を」
ドアの脇に立つ僕と同じくらいの背丈をしたロボットが親指の爪ほどの黒くて丸いものを一つ、銀の皿にのせて突き出してきた。リボンを頭につけて、フリルのエプロンを腰に巻いて、豊かで滑稽な唇の造形をしたその愉快な女の子のロボットに幸樹は尋ねた。
「これ、何?」
幸樹はその黒いものをつまみ上げた。
「はい。チョコレートのように口の中で溶ろける感覚でありながら、飴玉のように口の中で長持ちする新製品のメルトショコラキャンディです。味はソルトチョコレート味です」
幸樹はそれを口に放り込んだ。あまじょっぱい味が口の中に広がった。
「美味しいね」
「はい。ありがとうございます」
店内にはカラフルな菓子が入ったクリア合成樹脂の箱型容器が沢山並んでいる。容器の横に小さなビニール袋が引っ掛かっていて、あちこちに電子はかりが置いてある。自分で好きなだけ菓子を袋に入れて、量り売りしてもらう仕組みらしい。しかしここにない菓子もボタン付きの自動転送装置で選べば、一分ほどで装置の中心に空いた四角い空間に転送してもらえるようになっている。店の隅では、内部の電線が透明カバーを通して見えるデザインのほっそりしたボディの愛嬌のある丸い目をしたロボットが、客の菓子の好みを聞き出して、要望にあった菓子を提供する「菓子タマ―サービスセンター」のカウンターが置かれていた。
「甘さ、しょっぱさ、さくさく感。それとお手頃価格ということですね。では、こちらの塩キャラメル味のビスケットはいかがでしょうか?美味しいと思いますよ~。はい、お味見を」
店内をうろうろする幸樹を、父さんが大きな声で呼んだ。
「おい、幸樹。ソフトクリームでいいか?」
幸樹は父さんのいるレジの前に走っていった。
「うん」
「レインボー味を二つ」
草色をしたティラノサウルス型のロボットに父さんは言った。
「ありがとうございます。三百十五円です」
父さんは、ポケットのカード入れからカードを出して、ティラノサウルスに渡した。ティラノサウルスはレジのリーダーにそれを通して、父さんに返した。草色の恐竜型ロボットは流れるような無駄のない動きで、コーンを二つ短い手に持って、サーバーの下に持っていき、鼻でスイッチを押して、サーバーの二つの口から、虹色のクリームを出しながら、二つのコーンを円を描くように回した。出来上がったレインボーソフトクリームの一つを幸樹に手渡して、小さな目でウインクした。
「はい」
もう一つは父さんに渡した。
幸樹たちは店を出た。背後からティラノサウルスの
「まいどありっ」
とおどけるような声が追ってきた。
店を出た途端、二階建てバスが目の前を通り過ぎた。犬型ロボットが運転して、猫型ロボットがバスガイドをしているようだった。しかし、運転機能はおそらくバスに内蔵されていて、犬型ロボットは飾りのハンドルを回しているだけだろう。交通機関は全て町のどこかにあるはずのメインコンピューターに管理されているはずだ。飲食店、売店も町や都市の全ての機能はオートマチック化されて、ロボットが業務をこなしている。機械に任せられる仕事は全て機械やロボットに任せているのが現代だ。残った人間の仕事は、主にニューテクノロジーの開発、芸術や学問の追及、やりたい人は家具や雑誌や建築やファッションのデザインなど。最悪、それらに携わる才能のない人は仕事をしなくても、贅沢しなければ生きていけるだけのお金は支給されるようになっている。税金はそこから差し引かれる。ロボットたちが社会の機構を維持しながら、食べ物を作り、電気や水道を管理し、ごみの処理もして、機械や家具や建物や服を作り、自分で自分の充電やメンテナンスも勝手にやっている。
そう言ったことを幸樹は現代社会の授業で習った。そんな平和で安穏とした社会に行き着くまでに、沢山の悲劇が歴史の中で行われてきたことも授業では習った。幸樹はそんな自分の生きる世界の土台になっている古い過去の出来事を知るのが好きだった。
ソフトクリームを口に含んで歩きながら、幸樹は父さんに話しかけた。
「父さんたちがいつも出かけに行くのはいつもこの町なの?」
父さんは少しうろたえたように答えた。
「あっ、ああ。そうだ」
幸樹は今なら頼めると思った。
「今度からは僕も連れていってもらったらだめかな?」
「いや、それは……ちょっとな」
「何で毎月一日に行くの?」
「それは、その……、あの、言いにくいんだが……ほら……、おは……」
幸樹の中のささやかな疑問の芽はまだ何も知らなかった。幸樹は無邪気な瞳で
「分かった。お祭りがあるんでしょう?」
「あっ、ああ、そうだ。お祭りだ」
「父さんは、お祭りは母さんと二人で行きたいの?」
「う……んん……、すまん。あーいや、大人しか参加できない祭りなんだ」
幸樹はがっかりした。
「そうか。それじゃあ、仕方ないね」
しかし、すぐに顔を上げて
「お祭りの時でなくてもいいから、僕、もっとしょっちゅう町に下りてもいい?道順も分かったし」
隣を歩いていた父さんは、いきなり身体ごと幸樹の方を振り向いて、幸樹の肩をつかみかかった。そして、大きく開かれた血走った目で幸樹を見据えた。
「町は、都市は汚染物質に侵されているんだ。こんなところに習慣的に足を運んだら、菌が口や鼻や耳や皮膚に空いた小さな穴から入り込んで、病気になって死んでしまう。ここに来るのは今日が初めで最後だと思いなさい」
「でも、父さんたちは月に一回必ず来ているのでしょう?それにさっきお菓子屋で僕より小さな子供をたくさん見たよ」
「うるさい!」
父さんは目を吊り上げた。そして耐えかねたように頭を振った。
「いや、すまない……。お祭りは、大人は強制参加なんだ。訳は……訳は聞かないでくれ。大人の事情だ。菓子屋にいた子供は、もしよくこの辺りに来ているのなら早死にするだろう。きっと」
「じゃあ、みんなどこに住んでいるの?」
「山だ、山。私らが住んでいるのとは違う別の山だ。」
父さんはうっとうしそうに腕を振った。
幸樹はしゅんと顔を俯けた。父さんはうろたえてしまって、フォローしようとした。
「幸樹、映画館の前でテレビゲームのソフトが沢山売っているぞ。きっと上映映画の入れ替えでグッズも在庫を処分したいんだな。三つでも四つでも買ってきなさい」
財布からカードを出そうとした。しかし、幸樹は作り笑顔を向けて
「いいよ。しつこくしてごめんなさい。お父さん」
やんわりと断った。父さんは、カードを持った手を力無く下げた。
「そうか。すまんな。すまん」
映画館の入り口の上のところに、看板の代わりに「FUN FUN FUN」という光で出来た文字が空に浮かび上がっていた。その文字からいくつもシュッシュッと何かが細くなって噴射されると空中でポンポンポンと爆発して膨らんで赤や緑や青などの色の付いた煙の塊になった。それを幸樹と同じくらいの歳の子供たちが空気銃で打っていた。電子内蔵の煙の塊らしくて、打ち当てるたびに、空気銃の側面に付いている小さなモニターのカウントが増えていった。それを見ていると、幸樹は彼らは毎日ここへ遊びに来ているのだろうかと考えた。
空気銃がチケット売り場で売られていた。値段は二万三千円だった。店頭のワゴンの中の安売りのテレビゲームソフトが百個も買える値段だ。この空気銃を一つ買えば、ここに来た時に何回でも遊べるのだろう。今日しか来られない幸樹にはもったいないおもちゃだった。
遊んでいる子供たちと幸樹を交互に見て心苦しそうな父さんは、救いを求めるように宇宙の星空を描いたドーム型のカフェを指差した。
亜空間構造を利用しているこのカフェ「Galaxy喫茶」は扉がない。というより壁全体が扉だ。星空のドーム壁に向かって手を伸ばせば通り抜けて、歩を進めれば店内に入る。店内に入れば、外からは大き目のかまくら程度のドームにしか見えなかったのに、その五十倍はある面積に椅子やテーブルやカウンターが、広い空間にゆとりを持って設置されていた。天井は外から見たのよりももっと巨大な、降ってきそうに圧倒される星空だった。大き目のテーブルの真ん中には小型のロボットがちょこんと座っていて、注文を取ってくれる。小型ロボは360度首を回転させて、向かい同士に座る幸樹と父さんの注文を取った。
「腹が減っただろう。カレーでも何でも好きなものを頼め。カレーは母さんが作るやつのほうが美味しいか」
幸樹はロボットにステーキセットのSサイズを注文した。
「かしこまりました」
ロボットは幸樹に向かってうやうやしく頭を下げた。父さんは、うな重並を注文した。
ロボットが首を引っ込めると、幸樹と父さんの間には沈黙が降りた。幸樹は気まずくて、意味もなく周囲をきょろきょろと見回した。それから、何か話そうと思った。
「父さん、僕、ネットのテストで百点取ったよ。それにしてもパソコンについている全方位カメラのテスト中の監視ってすごく緊張す……」
「幸樹」
父さんが真剣な表情で幸樹の話を遮った。幸樹はなぜかびくりと細かく身体を震わせた。
「あのな、幸樹」
父さんの表情は切実さすら帯びてきた。
「一昨日はすまなかった。許してくれ。つい、つい感情的になってしまって。幸樹は賢い子だから普通に話せばわかってくれるのにな。でもな、写真のことは、どうか忘れてくれ。何でもないんだ。何の問題もない」
「でも、話してくれないと、わからないよ……」
「そうだな。そうかも知れない。でも、教えられないんだ。わかってくれ。幸樹は優しくて賢い子だろう?私たちは幸樹が大事だ。何よりも大切だ。それだけなんだ。何も心配する必要はない。私たちはきっと、ずっと仲良くやっていけるから。それが大事だろう?どうか余計な詮索はしないで、今まで通りお前と仲良く暮らさしてくれ」
そう言うと、父さんは少し涙ぐんだ。
「それだけ、それだけなんだ」
父さんが鼻をすすると、ステーキセットがロケットに乗ってテーブルにやって来た。
香ばしい焼けた肉とソースのいい匂いがしたけれど、食べてみるとゴムみたいな食感だった。
幸樹は、涙ぐむ父さんに同情はしたけれど、それだけ切羽詰まった態度を見せるということは、何か大きな隠し事をしているという明らかな証拠だと思った。そして自分に知られるとすごく不都合なのだろうと思った。だから、幸樹は、父さんの態度に、かえって不信感を募らせた。
父さんは土星が持ってきたうな重を、胸に空いた穴をごまかそうとするように、無理やりみたいにがつがつ食べていた。
何か秘密が、それも知られるとかなりまずい秘密があるから、父さんは必死になっているんだ。つまり、父さんの言っていることは「臭い物には蓋をしたままにしておけ」ということなんだろう。そんなの正しくない。公平じゃない。
ん?「臭い物には蓋を」?臭い物?そうだこれは僕の正体に関する秘密だ。きっとそうだ。
幸樹は肉の切れ端を意識的に咀嚼して飲み込んだ。このステーキも、もっと違う気分で食べたら、本当は美味しいのかも知れない。
食べ終えてGalaxy喫茶を出た。入ってきた時と同じように壁をすり抜ければ外に出られる。
父さんは「身体に悪いからもう家に帰ろう」と言った。山へと戻る方角へ街路を少し歩くと、路上でミニサーカスが催されていた。パフォーマンスをしているのはロボットではなく、人と子供のライオンだった。幸樹は
「少しだけ見られないかな?」
と父さんに頼んだ。父さんは曖昧に唸って、じゃあ少しだけなと言って、幸樹を残して元来た道を引き返して行った。
どこへ行くんだろう?と思いながら、幸樹はサーカスを見物した。道化師が壇上からライオンの背後に、五つ連続してテニスボールくらいのつやつやしたボールを投げると、ライオンは振り向かずに、しっぽで次々とボールを払い落としていった。道化師は、それからシャボン玉を壇上に落として、半球になったシャボン玉が周囲に向かって大きく広がって、客と道化師たちを丸く取り囲んだ。シャボン玉は色がついて艶めいていた。そこに壇上をくるくる回って走るライオンが投射されて幻影を作り出していた。
シャボン玉がパチンと割れると、目の前に父さんがいた。父さんは僕に向かって紙袋を突き出した。
「好みがわからんかったが、テレビゲーム十個だ。汚染された場所とはいえ、せっかく来たからな。お土産くらいは。ついでにグリーンティーキャンディも買った。母さんへの土産にな。大道芸は面白かったか?さあ、帰ろうな」
幸樹と父さんはてくてく歩いて帰った。幸樹は心の内の不信感を悟られないように過ごすようになった。仲良く暮らしたいという父さんの思いには応えたかったから、今まで以上に思いやりや優しさやさり気ない親しみやすさを持って父さんと母さんに接するようにした。いや、思いやりや優しさや親しみやすさを装って接するようにしたといった方が正しいのかも知れない。
心のどこかに抜けない小さな棘が刺さっているようで、勉強したり、本を読んだりすることよりも、心がその場になくても、頭を使わなくてもできるテレビゲームをやっていたり、ベッドにごろごろ転がっていたりすることが増えた。色んなことに上の空になった。
抜けない棘が気になっていた。そうやってもやもや考えている内に、悪意のない小さな疑問の芽だったものは、様々な僕の感情や不信感、欠け始めた父さんへの信頼の形などを取り込んで、少しずつ濁った色に染まりながら成長していった。