お留守番
幸樹は三月一日の朝八時、父さんと母さんを送り出した。
「いってらっしゃい」
「留守番よろしくね。お昼ご飯はディッシュボールを加水レンジにかけてどれでも好きなものを食べてね」
「うん。わかってるよ。お母さん」
儚げな背中を向ける母さんと父さんを玄関で手を振って見送ったら、幸樹は冷凍庫のドアを開けた。一番上の薄い引き出しを手前に引っ張ると、台の上でスーパーボールくらいの大きさのディッシュボールがいくつもころころ転がった。
「どれにしようかな……」
焦げ茶色の中にごろごろした塊が混じったもの、透明なくすんだオレンジ色の層の奥に幾筋もの線が入ったやや小さな白い球が入ったもの、端の三分の一くらいがトマトのような赤色であとは白く細い糸がぎゅっと固まっているもの、白と黄色と薄い茶色のまだら模様の中に緑の点々が入ったもの。
「これにしよう」
白、黄、茶のまだら模様のボールを指先でつまみあげた。幸樹はそれをそのままテーブルの上にコロンと置いて、食器棚からどんぶりを出した。これはレンジにかけても全く熱くならない上に、落としても割れない「なんちゃって陶器」と呼ばれる皿で、今の時代ならほぼどこの家庭にもある優れものである。暇つぶしで見る時短クッキングの料理番組にもいつもこれが使われている。幸樹はどんぶりにボールを入れた。それから台所の奥の加水レンジの蓋を開けた。どんぶりを上から入れて、目盛りを「標準」にセットしてスタートボタンを押した。
十五分ほどで調理完了のピーッという音が鳴った。レンジを開けると食欲を刺激するカツ丼の匂いがもあもあと立ちあがってきた。
幸樹はレンジからどんぶりを出した。父さんが木の滅菌から始めて、削り出し、磨き、ニス塗まで全部やって作ったぴかぴかした箸を持ってきた。
「いただきます」
手を合わせてからカツ丼のカツを食べた。母さんの料理には負けるけれど、ディッシュボールでも十分美味しく食べられる。母さんが言うには、実は手料理の方がお金がかかっているらしい。じゃあ、なんでわざわざ作ってくれるのと聞くと、「ごめんなさい。お母さんの料理まずいのね」とさめざめ泣き出してしまったことがあった。慌てて
「違うよ。違う。全然違う。お母さんの料理の方がずっと美味しいよ。ただ何でわざわざ手間もお金もかかることをするのかと思って聞いただけなんだよ」
と言うと、お母さんはぴたっと泣き止んだ。
「だって愛情のこもったものを食べさせてあげたいじゃない。そりゃあ、今の時代のインスタント食品は、組み合わせ次第で十分栄養面も問題のないものを提供できるけれど、何だかそんなものを幸樹に食べさせると、お母さん罪悪感で一杯になっちゃうわ。幸樹には出来ることを何でもしてあげたいのよ。お母さんの手間何てどうでもいいわ」
「どうでもよくなんかないよ。いつもありがとう」
「うれしいわ。幸樹」
母さんは幸樹をぎゅっと抱きしめた。幸樹は、母さんが自分のことを大事に思ってくれるのはいいけれど、ちょっとしたことで一喜一憂するのには少しだけまいった。
たまの一人の日は、やはり少しだけ解放されて気が軽い。特に束縛されているとは思っていないのだが、やはり自分は父さんたちの本当の息子でもなく、この家の人と縁もゆかりもない居候だという引け目もあるし、申し訳なさもあるし、家族の体裁を取っているとはいえ自分以外の人間の視線から逃れた時間を過ごせるというのは、やはり多少解放的には違いなかった。
幸樹は気分よく食事を終えて箸を置いた。
「ごちそうさま」
使った食器類は全自動洗い機付きの食器棚のスタンドに立てて置いた。食器棚は微かな水の音を立てて、三十秒で洗いから乾燥まで終わらせた。
毎月一日に父さんと母さんは、幸樹を家に残してどこかに出かけていく。どこに行くのかは知らなかった。平地の町に降りていくのだろうか?幸樹は、魚釣りや山菜を取りにこの家の近辺しか行ったことがない。配達の人を除く父さん、母さん以外の人と会ったこともない。もしそうなら自分も今度は連れて行ってほしい。