父さんとの初めての釣り
翌朝、幸樹は目覚めるとすぐ、洋服ダンスから自分で適当な服を探し出して、パジャマから着替えた。下に降りると、父さんが椅子に座って釣り道具をいじりながらガイドブックらしき薄い本をめくっていた。
「おお、お早う。眠れたか?釣りに一緒に行かないか。まあ、私も初心者なんだがお前も……いや、幸樹もいっしょに勉強してくれ」
「は……、うん、父さん」
「顔を洗って、そこでテレビでも見ながら少し待っていなさい」
父さんはソファの方に顎をしゃくった。
幸樹は洗顔してから顔を拭くと、ソファに座ってローテーブルの隅にあったリモコンでテレビのスイッチを入れた。幸樹から見ても幼稚に感じられるアニメからチャンネルを移して、ニュースの所でザッピングの手を止めた。ボブヘアーの女性キャスターが映った。
「……で、あるからして対象となった人間の精神的観点から言っても決して本人に再生のことを教えてはいけないし、また対象が成年になるまでこの種の情報に触れさせることも極力避けねばならず……」
父さんが幸樹の肩越しにリモコンを取り上げ、テレビのスイッチを切った。
「準備ができた。さあ、行こう」
家を出て、左横手にある木立に、シカなどが行き来してできたらしい獣道を下った。それなりの急斜も時々あって、何度かずり落ちそうになった。
「わ、わ、わ」
父さんは慣れた様子で前を歩いていたが、幸樹の事を気遣って、何度も振り返った。
「気を付けなさい」
「釣りは初めてじゃないんですか?何でそんなによく道を知っているの?」
父さんは身体ごと振り向いた。
「河原にくるシカやウサギを狩りに来てたんだ。最近ではそれもほとんどしないで、平地からの配送に頼っているがな」
「へえ……」
ごつごつした石や岩がころがる河原に出た。日の出前の薄闇に耳に心地よいせせらぎが響いた。
父さんはリュックサックと二本の釣り竿を地面に下ろして、河に面した岩に腰かけた。父さんの長靴は足の甲まで水に浸かった。リュックから指の先ほどの小魚が山ほど入ったパックを取り出した。それをいったん置いて、幸樹に釣り竿を渡した。
「針にこの魚を突き刺せばいい。後は、竿を振って河の岸から離れた所におもりを投げ入れればいい。手応えがあったらリールを回して」
「うん」
水の中に本当に魚がいるのかどうかすら怪しく思ったが、幸樹は父さんに従った。餌の小魚は薄明りに身体が透けていた。餌を付けたら、幸樹は竿を頭の上から前後に振って、糸の先を遠くに飛ばした。要領がまだつかめていなかったので、上手く飛ばせなかった。父さんの糸が急に張った。父さんは「きたか」と反射的に呟いて、リールを回したが、プチッと音がして、釣り針ごと奪われた糸先が河の上に見えた。
「難しいものだな」
幸樹にも当たりがきたが、餌を食いちぎられてすぐに手応えが軽くなった。餌の付け方をもっと工夫しなくてはと思った。
早朝が過ぎて、灰色だった空が東から昇った太陽の光でアクアに染まっても、父さんはなかなか「もうやめて帰ろう」とは言わなかった。戦利品が幸樹にも父さんにも一匹もなかったからだ。竿を振るたびに「もう一回したら帰ろう」と言う父さんに、幸樹は、
「もういいよ。楽しかったよ。また来よう」
と言って、ようやく河辺から父さんを引き剥がした。
リュックサックの中に詰めてきたバケツは、水に濡らされることもないまま家に帰った。
「ただいま」
父さんが戸を開けた。
「幸樹がいないのよ」
大騒ぎの体で母さんが父さんに、血走った目で走り寄ってきた。
「母さん、僕はここにいるよ」
幸樹は父さんの背中からひょっこり顔を出した。
「ああ、良かった……、良かった」
母さんは幸樹の肩をさすった。
「母さん、あんまり心配し過ぎるのはよしなさい。二人で釣りをしてきたんだ」
「まあ、そう。幸樹、釣れたものを見せて」
母さんは幸樹の顔を覗き込んで嬉しそうに言った。幸樹は
「いや、その……」
とたじろいで、父さんの顔を見上げたが、父さんは口笛を吹きながら向こうへ行ってしまった。
「さあ、朝ご飯にしましょう。でも、お魚が新鮮ならすぐにさばいて焼き魚になり、天ぷらになりしてあげられるんだけれど……」
「あの、魚は結局釣れなかったんです。ごめんなさい。心配かけたのに」
「まあ、そう。父さんも初心者だものねえ。こちらこそごめんなさいね。さあ、テーブルに座ってちょうだい」
椅子に座ると正面の壁にカレンダーがかかっていた。日付の上部に素朴な草花の写真がある可愛らしいカレンダーは十二月を表に示していた。
「お母さん、今日は何日ですか?」
台所から返事がした。
「十七日よ」
父さんがテーブルについた。幸樹は父さん、母さんと何不自由なく過ごす毎日を送った。父さんはよく自室にこもってパソコンを使って仕事をしていた。母さんは幸樹が家事を手伝うとすごく喜んだ。母さんはどうやったら料理の味付けが良くなるのかをいつも考えていたけれど、母さんの料理は文句なしに美味しくて、幸樹の舌にすごくよく合った。幸樹は通信教育でネットを使って毎日勉強した。でもそれよりも父さんに遠慮がちにねだった歴史の本の方が幸樹には面白かったし、身体に染み込むように沢山の日本や世界の知識を身に着けた。だからといって一般教養としての算数や理科や外国語もおろそかにはしなかった。