放浪する幸樹 ーさようなら
2190年、幸樹は生き続けていた。父さんは50年前に死んだ。その翌年、後を追うように母さんも死んだ。仲の良い夫婦であったと思う。母さんは、父さんが死んだ後、自分の中身をこぼすような、命を床や地面に散らかすような感じだった。決して、生活が荒んでいたというわけではない。規則正しく、几帳面に日々を営んではいた。ただ、身体から毎日何かがこぼれているように見えたのだ。
幸樹が成長しないクローンだという話を父さんから聞かされてから、幸樹は次第に口を利かなくなった。素直な子供らしさを抑えるような心の力が働き、話す必要がある時にだけ、わざと分別臭く物を言うようになった。父さんたちは、そんな幸樹に対して淡々と接した。怒りもしないし、干渉もしない。語ることも、菓子やマンガを買ってくれることもなくなった。母さんも過剰な心配を示すことはなくなった。特に子供というものを好きではない人が行きがかり上仕方なく預かった血の繋がらない子を相手にするように、最低限の小遣いと義務教育だけ毎月与えた。
家の中では、ただ時が過ぎ去っていった。何の感動もなく、時間や月日や季節の流れや区切りを感じさせる出来事もなく、ただ過ぎていった。時の経過を示すものは、顔も身体も老けて、動作がのろくさくなっていく、父さんと母さんの有り様だけだった。
あの話があってからの、その後の父さんたちは、死ぬのを待つために生きているようだた。
幸樹の身体の時間は止まっているようなものだが、知識と思慮だけは膨らんでいった。
幸樹は父さんたちが死んでから、十年後、家財道具も何もかもそのまま放置して、家を出て放浪し始めた。豊かにして飾っていくべき人生に終点というものが存在しない幸樹にとって、人生は完成を見る、成果を見る作品にもならない。財産があっても永遠の中の暗闇にあっけなく落ちていくのは目に見えている。意味のないものに思えた。
結局、自分は生まれ落ちてきて山道を下ってきた時と同様、行き場がないようだ。
家に住んでいる時、自分と同じ境遇の人間はいないのかと、研究所を訪れて尋ねてみた。
しかし、老化を止めたクローンは他に例がないらしい。老化を止める塩基の生成は何度も研究されたが、成功例は幸樹だけで、しかも父さんはその作り方は明かさず、死なないクローンの自己保存のメンテナンスに必要な「つくり」の概要だけを他の研究員たちに教えたらしい。研究所は幸樹に細胞の提出を願い出てきた。レシピを幸樹の細胞から調べ上げるために。幸樹は、自分のような人間を量産するようなことになりかねない行為は気が進まず、断った。
研究員たちに資料を当たってみるとの約束をもらってから一か月後に訪ねた時、出迎えた底なしの漆黒に澄んだガラス玉のような目をした、いかにも自然科学の真理の追及とその利用にのめり込んでいるというような頭の良さそうな女性研究員が「あなたは奇跡だ」と彼女にとって実験対象に成り得る神聖な事物を目にしているように前のめりになって言ってきた。
「何が奇跡だ。悪夢だろ」
とわめいてやりたいのを堪えて、冷ややかに「それはどうも」と返した。
父さんは、幸樹を作る過程の痕跡を一切消してきたらしい。
父さんは、死んだ子を蘇らせ、永遠に子供のままの幸樹を手に入れるために、一人で秘密裏に塩基の生成にのめりこんだのだろうか。
何故、科学界に実験の成功を報告し、作り上げたはずのレシピを公表して、名誉を得て、歴史を作らなかったのだろう?幸樹が物珍しい目で見られることを怖れたのだろうか?それとも幸樹自身に自分の正体とそうしてしまった父さんのことを知られるのを少しでも遅らせたかったのだろうか?
暖かで微笑ましい、のどかな親子の時間のために?
幸樹は、幸樹自身と、幸樹を取り巻く現実、そして親が子供に向ける愛と呼ばれるもの、全ての疑問を背負って生き続けている。
何故、生まれてきたのか。何故、人は本来死ぬべきものなのか。
今、地球は太陽系のスラム街と呼ばれている。
エネルギーを生み出す燃料としての核物質の使い過ぎで、放射能が基準値を超えていない土地はほぼ存在しない。放射能は、幾つかの一般の大企業の電力会社が「核廃棄物を出さない新核エネルギー」と称して嘘の触れ込みを行い、原子力で作った電力を売って荒稼ぎをして、まともな処理をされていない廃棄物を、例えば潜水艦深海ツアーの振りをして、隠れて海に捨ててきたりしたことで汚染が広まった。深海から大陸や島や人の住む場所に放射能が這い上がってきた時は、さすがに人々は気が付いたが、既に手遅れだった。原子力発電を禁止して、そういった企業に調査が入っても、海からは放射能が大地に這い上がり続けた。
核廃棄物を全て海からロボットを使ってさらいあげて、ロケットで宇宙に捨ててしまえという意見があがったが、それなら選ばれた人間や重要とされる人間、富裕層の人間だけを火星にでも飛ばしてしまう方が安く上がった。深海の砂の中のどこに埋まっているかわからない大量の廃棄物も探し続けるよりも、火星で新たな生活基盤を作っていく方が、確実だった。
選ばれた人間、多額の費用を払った人間は、各国に十数隻作り上げた、オリンピック用施設ほどの大きさの宇宙船に順番に乗り込み、火星へと飛んだ。そこで彼らは、人類の原初的な仕事である農耕と牧畜に立ち返り、極度に危険な作業以外をロボットに頼らず自分たちの力でするようになったらしい。芸術家は自然由来の絵の具を使い、学者は古代人の素朴な技術を研究して、再現することを考えた。彼らはその地を自分たちで「ユートピア」と呼んでいるらしい。
幸樹には彼らのしていることは、道楽のようにも思えた。しかし、一度利便性や技術、社会の発展が飽和状態になってしまった世界に生きる人間たちが「道楽」に走って、今度は懐古主義に向かうのは無理からぬこととも言えた。スラム街に残された人間たちは、相変わらず便利なものや家や道具や機械やロボットをフルに活用して暮らしていたが、健康状態は最悪だった。身体の内部から侵され、ガンになる人。皮膚がただれて溶ける人。激しい下痢、脱毛などの苦しい症状。被爆した母親から生まれた奇形児。何らかの激しい症状や苦痛をもつ大人や子供が溢れかえって、パステルカラーと光の街は暗い様相を呈した。医学的な処置を施しても大地に染み込み、大気に充満する放射能から逃れられないので、誰もが、病に悩まされる辛い日々にまみれて早死にしていった。奇形の子供は五歳になれれば奇跡だった。
幸樹は地球にとどまり、時々衛星回線を使って、火星に飛んだ研究員たちのメンテナンスを受けている。そして、健康体のままだ。
地球にいる他の人間たちもメンテナンスを受ければ治るんじゃないかと聞いたことがある。しかし、老化現象と複雑に結びついた被爆の症状にはほとんど効果は出ないと言っていた。
老化というのは、人間の身体に取りついた、もっとも厄介で対処のしにくいものなのだと。
じゃあ、僕は特別なのかと聞くと、そうかもしれないと答えられた。
いつかの女性研究員の言ったように、僕は奇跡なのだろうか。
先日、顔の右半分の皮膚がただれて、びっこを引くように幸樹の方へ走ってきた男が、右手の指を鉤型にして、幸樹の目を刳りぬこうと飛びかかってきたことがあった。
男はまだ若い青年のようで(幸樹よりはかなり年上だが)、ずっと風呂に入るのを怠っているらしくひどく臭かった。
幸樹が抵抗する間もなく、男は街中にさり気なく設置されている監視カメラに搭載されている光線銃に撃たれて、気絶した。すぐにそばにあったコンビニのロボット店員がやって来て、男の手足と胴を、大きさを簡単に調整できる金輪でしめて、近くの街灯につないだ。
「お怪我はありませんか?」
ロボットが尋ねてきたので「何ともない」と答えた。男と話したいと言った。ロボットは男の肩を強く揺すった。幸樹は目を覚ました男に向かった。
「何考えてるの?」
男は言った。
「お前を二十年前にも見かけている。何故いつまでも幼い身体をしている?何故、いつまでも健康そうに見える?」
「何をするつもりだったの?」
「お前の目玉を刳りぬこうと思った」
「なぜ?」
「なぜって……、わからん。お前の一部が欲しかったんだ。その目があれば、病の辛さを通さないで、きれいな世界がそのまま見れると思ったんだ。俺のただれた身体に慣れた街は、何故か端から溶けて調和を失くした、まるで現像液に、写った景色を一部溶かし出された写真みたいに、汚らしく荒んで見える。しかも、俺の目の裏にその写真は張り付いていて、目を閉じていても逃れられない。この世界のどこにいっても当然逃れることはできない」
幸樹は悲しい目で男を見下ろした。
赤地に白抜きで「警察」と日本語で書かれたミニパトがやって来た。トランクから、アームが伸びて、クレーンゲームのように男を抱えて宙に上げ、横から金輪に赤外線信号を送って輪を外した。そして、そのまま後部席に放り込んで、走り去っていった。アームが伸びている間、幸樹はミニパトから降りたロボット―制帽を頭に被った、全身が白くて、背が高い―ロボットから名前や電話番号を紙に書かされていた。
ロボットは
「今回の件で何か身体に不具合が出るなど、何かしらの問題などがあったら、ご連絡ください」
と、名刺を渡していった。その後特に支障が出ることはなかったので、こちらから連絡はしていない。十日ほどで警察からロボットの電子音声で
「男の名前は『橋本耕規』。三十三歳。懲役三年です」
との連絡がきた。幸樹は、何かしらの心の中にずっとある腫瘍を削るような気持ちで
「そうですか。ご連絡いただいてありがとうございます」
と答えて、電話を切った。おそらく今回の件はニュースにもなったのだろう。
メンテナンスをしなければ、自分だって放射能に侵される。そうすれば、いずれ幸樹も死ねる。電車に飛び込めば死ぬ。食事を取らないだけで飢え死にできる。でも、幸樹は死ぬ気になれない。幸樹は自分に与えられたいびつな生を引き受け、この世界の終わりまで見続けようと思う。地球に人が死に絶え、火星にある「地球維持機構」からも完全に見捨てられて、暮らしていけない場所になったら、火星に移住することも考えよう。
幸樹はただ、見続け、考え続けようと思う。
何かを為し、生み出そう、築きあげようとは思わない。それは、限られた時を持つ者だけの特権だ。
僕は、ただ、見て、思考し、ここに記し続けようと思う。
僕は、言うべき相手もいないはずなのに、毎日誰かに
「さようなら」
と言っている。