岩にて目覚めた子
僕はどこから来たのだろう?
六歳くらいの年齢に見える男の子は舗装されていない、ただならされただけの山道を下っていた。気が付いたら背の高い岩石で行き止まりになった下りの一本道に、岩にもたれかかって座り込んでいたのだ。わけもわからず道に沿って歩いていくと右手に生える木々の隙間から眼下に街が見えた。ここは相当な高所なのだとわかった。自分の名前がわからなかった。もっと考えると自分の顔も知らなかった。マジックミラーで他人の顔を見せられて「これがお前の顔だ」と言われれば、きっと信じるほかないだろう。帰るべき場所も、そもそも帰る場所があるのかもわからなかった。夕闇で赤黒く染まった雲が頭に落ちてきそうで怖かった。行き場がないにしても、せめて暗くなる前に山を下りたかった。しかし、樹の隙間から推し量れる平地と比べたここの高さから、たぶんそれは無理だろうと思った。バサバサバサバサっと音がして、見上げると、カラスより一回り大きいような黒い鳥が何羽か右手の木から左手の木へ飛び移っていって、少年はビクビクと身体を震わせて怯えた。両腕で身体を守るようにして、身を縮めながら、もう少し視界の開ける安全だと思える場所に行こうと歩を早めた。歩きながら、何か自分についての手掛かりになる記憶はないかと、頭の中を探った。その時、目の前に人家が見えた。丸太を積み重ねて建てたらしい素朴な小屋かと思ったら、近づくと横幅がかなりあった。玄関にランタンがかかっている。ランタンの光は暖かなオレンジではなく、白くて強い光だった。その光を見て、一つの光景が少年の心に喚起された。
僕は水の中にいて、張りつめながらも揺らぐ水面を通して、頭の上の方にある白い光を見つめている。水面にゆらゆらした人の両目が見えて、その人は頭にぴったり張り付いた青い帽子のようなものを被っているみたいで、口元も青いもので覆っていた。同じような人がもう一人いた。一人の肩の下から何か白いものが這い出してきた。その人の手のようだった。それはどんどん大きくなって、つまり僕の方へ迫ってきた―
そこでその脳内映像は途切れた。
僕は一体何者なんだ?
玄関の前に立ち尽くしていると、中から外側に扉が開かれた。白い髪をした男が目の前で少年の顔を見下ろしていた。
「どうしたんだい、僕?こんな山の中で」
少年はどんな説明をすればよいかわからず、口をパクパクさせた。
「まあ、いい。外は暗くて物騒だ。中に入りなさい」
手を引かれて家の中に導かれた。中は奥行きもあり、立派な調度品もあるし、部屋も一部屋ではなくいくつかあるようだった。壁も丸太が丸だしというわけではなく、綺麗に花柄の壁紙が貼られていた。
「あ……、あ……」
少年は話すべき言葉が出てこなかった。
男は顔をしかめて、聞いてきた。
「言葉が話せないのかい?」
少年は慌てて答えた。
「いえ、話せます。僕……、僕……」
男は髭の下で優しく微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫。食事をしていないのではないのかい?カレーが丁度用意してあるから一緒に食べよう。おーい、母さん」
そう男が台所に呼び掛けると、猫背で人の好さそうな顔をした婦人が出てきた。婦人は少年を見ると泣きそうな顔になった。
「まあ……、まあ……まあ」
泣き笑いのような顔で少年をまじまじと見た。今にも膝から崩れ落ちそうな勢いだった。
「母さん、後にしなさい。カレーをよそってくれ。三人分」
「ええ、ええ……」
婦人は台所に戻っていった。
「母さんのカレーはうまいぞ。いい肉を使っているからな。君も気に入るといいが」
「親切にしてくれてありがとうございます」
男は少年の頭を撫でた。
「しっかりした子だ」
カレーがお盆にのせて運ばれてきて、男は少年を食卓の自分の隣に座らせ、婦人をその向かいに座らせた。カレーはよく知った味の気がしたが、とても美味しかった。少年は隣に座る男をよく見た。毛髪は全て雪のように真っ白だが、肌艶は良かった。深い皺もとくにない。自分を見つめる少年の視線に気づいたのか、男がこっちを向いた。
「爺さんみたいな白髪だろう?これでも歳はまだ三十八なんだ。ちょっとした不幸があってね。次の日起きたら、髪は真っ白だ」
婦人は感極まるような表情で少年を見ていた。
「一人で偉いわねえ。こんなところまで……」
何が偉いのやらと思ったが、はぁと曖昧に返事をした。
「ご馳走様でした」
そう言うと、少年はほぼ話すべきことはないような事情を何とかわかってもらえるように切実に話した。はす向かいに座る婦人が心底同情してくれたような顔をした。
「大変だったわねえ。ねえ、あなた。気の毒だわ。可哀そうだわ」
白髪の男は「話はよく理解できた」というように
「ふうむ」
と唸った。