9 翌朝のこと
再び意識を取り戻した時は、既に朝だった。ふかふかのベッドで目を覚まし、一瞬サヤカの家にいる錯覚を呼び起こした。しかし、ここは紛れも無く古い日本家屋、つまり横田の家だった。
「あれ……、俺、記憶無い」
ふと、隣に目をやると薄青く綺麗なまぶたを閉じて横田が安らかに寝息を立てていた。途端、全身から血の気が引いていった。おまけに身体に何も纏っていない。
(……犯られたか……)
焦ってばね仕掛けのように飛び起きたが、自分が浴衣を羽織っていることに気付いた。勝手に前がはだけてしまっていただけのようだ。下着は付けていなかったが。
薫が布団を持ち上げたせいで寒さが忍び込んだのだろう、横田が色っぽいうめき声を上げて目をこすった。
「……悪い。起こしたか」
「……いまなんじ……、」
薫は、目の前の箪笥の飾り棚に乗った古い時計の時間を確認する。時刻は正確かどうか疑わしいほどの年季の入りようだ。それでも、それを信用することにして、素直に読み上げてみる。
「……10時」
「10時!?」
横田は、尻に火が付いたかのように飛び起きると、ベッドから抜け出して走りだす。薫は呆気に取られてただ見送った。
頭は妙にすっきりしていた。のそのそとベッドを降りると、キンキンした女性の声が聞こえてくる居間に向かった。横田が食い入るようにブラウン管テレビの画面に見入っているのだ。一々電化製品までもが古臭い。今にもどれかは発火しそうだ。
「……今日なんかあったの」
「朝のアニメ見逃した」
そんなことか、と思いつつ、顔も洗わないまま炬燵に入った。まだ暖かさは巡ってはいない。
「……俺さ、昨日の風呂入ってからの意識が無いんだけど……」
「ああ、お前、風呂で寝てたから」
「寝てた!?」
横田はテレビにかじりつきながら返事を続ける。
「うん。薫がが湯船に入るや否や侵入するつもりで待ち構えてたからさ。入った途端、お前が大口開けて寝てるの見てビックリした。湯あたりする前に見つかったのは俺の性欲のおかげだからな。感謝しろ」
聞き捨てならない言葉も無視して質問を続けた。
「何でわざわざアンタの布団で寝かされてたの? 俺、アンタの邪魔じゃなかった?」
「本当に失神とかだったらヤバイだろ。様子見てた」
「………悪かった。迷惑掛けた」
「本当だよ。『今夜こそ出来る』と思ったのに」
「なにが……、」
聞かなくても分かってるのについ口に出してしまう自分に平手打ちを食らわせたかった。彼が返事をする前に炬燵から抜け出して洗顔に向かうのだ。そして。……いい加減すうすうする下半身に下着をはかせてやらなければ。
洗面所のカレンダーに目がついた。(今日は日曜日か……)明日で東京とも、サヤカともお別れだが、もう一度彼女に会いたい気はしない。諦めがついた。大体、恋でぐちぐち悩むのは薫の趣味ではないのだ。目一杯使える今日は何をしようか、大学見学でもしてこようか、と考えを巡らせる。
もそもそと顔を拭いていると、脛にぞっとするほど冷たい何かが触れた。
「ひ……!」
横田が足の裏をくっ付けてきていた。
「おい、やめろよ! きたねえな!」
「おっまえ、毛薄いな~! 色素薄いからか?」
「触るなって」
不意に、背後から強く抱きしめられた。鏡で見ると良く分かるが、横田は薫よりも一回りは大きかった。洗顔フォームの匂いに支配されている今は、あの香の香りはしないのに、びくんと心臓がひと跳ねする。その自分の反応は薫を混乱させる。さらさらとした髪の毛が肩口に掛かる。額を左肩に押し付けたまま、彼はくぐもった声で言った。
「……今日、上野行こう」
「……は?」
「上野。美術館行きたいんだ」
「……だからどうして一々若者ずれしたとこばッか行くのかな。まぁ……上野は好きだけど」
「俺の愛するカラヴァッジョ様の絵が見られるんだ」
もそもそとジャージのポケットからチケットを二枚取り出した。だらんと幽霊のようにその手を薫の右肩にぶら下げる。
「一枚、どーぞ」
引き抜こうとしたが、チケットを持つ彼は手の力を緩めない。
「おい、何遊んで……、」
チケットに伸ばした手は横田に捉えられ、恭しく口付けられた。それが余りにも優しいものだったので反論し損ねた。その姿をどう受け取ったのか、彼の口は、振り向きかけた薫の唇をとらえた。金曜の夜の時のように。
「……抵抗しないんだな」
突発的に繰り出される横田のキスに少しも動じないのはいいことか悪いことか。
「したらアンタが喜ぶ。俺もウブっ子じゃないんで」
「すれっからしは可愛くない」
横田の冷えた手が浴衣の様々な、最早何処だか分からないような切れ込みから手を差込まれ、その冷たさに身を震わせる。手から開放された展覧会のチケットは、はらはらと散る。
熟練の手つきでまさぐられた身体は直ぐに熱を持つ。困ったことに、横田は舌を使うことも忘れなかった。肩に申し訳程度に掛かった浴衣を口で器用に剥いでみせる。
「……下着、履いてないのな」
「アンタが履かせなかったんだろ」
冷たい手は、そこに迷いなく到着する。規則的だった吐息が揺らぐのを楽しむようにあやし始める。朝の名残を更に奮い起こさせるようだ。腰の辺りに、だんだんと熱を持ち始めている横田のが接触しているのが分かって、つられるように勝手に自身もピクリと痙攣する。
「……すれかっらしは……相手に、しないんじゃないのか……」
「アホか。自分、鏡見てみろ」
途端に、羞恥がカッと内部に沸き起こった。腰をぬかしたように、急遽しゃがみ込んだ。
「ばか、やめろ!」
「……何だよ。いい所だったのに」
しゃがみ込んだ薫の上に覆いかぶさるようにしてきた横田に体を強張らせたが、彼は落ちたチケットを拾うだけだった。過剰反応した自分を呪いたくなったが、それどころではない。
「薫。11時には出るぞ。今日は日曜だから混んでるのは覚悟しておけよ」
自分を昂ぶらせておいて飄々としている横田が憎らしかった。ひょっとして、ここ数日、慌ててるのは自分だけではないだろうか。
情けない感情を抱えて、腰には未だ力が戻ってこないのだ。