7 地味な東京散策
東京の電車事情に疎い薫は、全て横田の指示のまま動いた。昨夜乗った私鉄で渋谷まで移動し、そこで地下鉄に乗り換えた。
何駅目かで、ぼうっとしていた薫の頭を横田は小突き、降りるぞ、手を引いていく。子どものような扱いも、何故だか気にならなかった。地上に出てみると、そこははしゃいだ雰囲気の場所ではなかった。格好良いスーツ姿の多くの社会人たちが方々へ颯爽と散らばっていく。
「……どこ、ここ?」
「降りた駅くらい確認しろ、この田舎っぺ。半蔵門だよ」
「はんぞーもん?」
「うん。皇居の近く」
「皇居……、なんで?」
「さぁね」
自分で降りといて「さぁね」は無いだろう、と思いつつも彼の背中に従う。
彼の意図は直ぐに読み取れた。散歩だ。それも、人が少ない場所を選んでくれたのだ。横田はその広い背を見せながら何も言わずにのんきに歩いている。朝とも昼とも付かない時間の太陽の光が、深緑色の堀の水面で反射する。猫の毛に包まっているような気の抜けた気分になった薫は、自然、口が緩んできた。
「………俺、失恋したかも、昨日」
「誰に」
こちらを見ずに問いを投げてきた。
「決まってるだろ。サヤカだよ。好きな人できたから、もう、俺とはしたくないって」
「あ、だから俺にも恋人解消して、なんて言ってきたのか。……片恋かぁ」
「それも気付いたのが昨日。ばかみてえ」
「いいことだよ、失恋ってのは」
「どこが。惨めで死にたくなる」
「お前こそ平気で人を振るようなツラしちゃってさ」とおどけるので、薫は、茶化すな、と、彼のパーカーのフードを引っ張って顔を向かせる。横田の場合、表情を確かめたところで、心が読み取れるかどうかは別問題ではあったが。実際、ヘラヘラした表情が張り付いたままだ。
「アンタは、この気持ち味わったことあるのかよ?」
横田は短いため息をすると、失恋の一つや二つ、と呆れるが、「でも、」と。続けて、ぼんやりと口を動かした。
「……泣くほど辛いのは、さすがに無いなぁ~」
「俺がいつ泣いたよ!」
薫は真っ赤になってずんずんと横田を追い抜いていった。その必死な横顔を見た彼は、噴出している。
「なぁ、薫ちゃん。……俺の大学のセンセーが言うには、失恋ってのは長い人生の中で、カラーの記憶なんだってさ。泣くほどの恋をしなさい、ってな。てか、年長者の言葉の半分は神妙に聞き入れるべきもので出来てるんだよ」
「あとの半分は何なんだよ」
「それは俺に聞くな」
「あんたが言ったんだろ」
横田は、ひらひらと意味不明な言葉を落とすので、疑問符ばかりが浮き上がってくる。薫は、うだうだ落ち込む自分がばからしくなってきた。分からないことは分からないし、どうしようもないことはどうしようもない。みっともなく今の気持ちにすがりつくなんて事は御免だ。
そのせいか、自分でも信じられないことを言ってしまった。
「……ねぇ、今日からアンタの家に泊めてよ」
「いいよ」
間髪いれずに返してきた。今度は、立ち止まった薫を横田が追い抜いた。
「……ちゃんと聞いてた? 俺、アンタの家に月曜日の朝まで泊めてほしいんだけど」
「だから、いいってば」
「迷惑じゃ、ない?」
「全然。その代わり、宿泊料は払えよ」
「いくら」
聞こえなかったのか聞いていなかったのか。彼は黙ったまま道端の草をブチリとむしりとった。
「……なぁ、」
「お前も野暮だね。宿泊料っつったら、黙って身体を差し出せって意味なんだけど」
「……そんな常識聞いたことない」
「俺の家の常識」
「俺、男だし」
「でも、したことないだろ? 一回くらいしてみろよ、ハクが付く」
「付いたところで吹聴できるモンじゃねーよ!」
発言を取り消したいほどに、既に後悔し始めた。でも、「……サヤカんちじゃ寝れないだろ」薫の心の内を横田が代弁した。
「かと言って漫画喫茶の使い方は知らないだろうし、ホテルに躊躇い無く金を費やすような裕福小僧には見えないけどね~」
「……悪かったな田舎っぺな上に貧乏で」
「別にぃ?」
「……泊めさせてもらうよ、あんたんち。ただし、身は守るけどな」
「守る守らないの問題じゃないでしょ、代価は払えよ」
薫は道端でつんだ、繊維に付着しやすい植物を横田のパーカーに投げつけてささやかな復讐とした。セーターを着ている薫の背にも、既に同じ物がびっちり付けられていることにも気付かずに。
どう歩いたかの覚えはないが、随分歩いていつの間にやら本の街に辿り着いていた。それほど本に興味の無い薫でも、横田の案内によって、随分楽しんでしまった。
物語にすうっと入っていける性質だったら読書も楽しいだろうに、と全く読み進められていないロシア人兄弟の物語を少し思い出してみた。
「そりゃそうだろ、罪の意識とか、思想の根本が違うし」
と、横田。二人は神保町の喫茶店で休憩中だ。薫は運ばれてきたウィンナーコーヒーに浮かんだ生クリームを、スプーンですぐさま溶かす。
「いや、入り込める人は入り込んで楽しんでるでしょ」
サヤカとか、の言葉を飲み込む。
「薫自身の話じゃないの? ……奴らと肩組んで『ああ、分かるぜ兄弟!』って感覚ではないな、俺も。話は楽しいとは思うけど、共感する、とはまた別の話。ま、とにかく最後まで諦めんな! 絶対楽しいから」
「……じゃぁ、あんたは何が好き?」
「うう、ドストエフスキーだったら、『地下室の手記』……?」
「同じ作者なのに? 何が違うんだ?」
「共感できるものと出来ないものには大きな溝があるだろ。経験だよ」
「……そんな単純なもんかよ」
薫は、すっきりしない想いでカフェオレ色になった珈琲に砂糖を一かけ投入した。横田は、ブラックが嫌いと言いつつ、ブラックで飲む。その方が男っぽいだろ、と胸を張る。冗談なのか本気なのか分からない。
「だから……失恋も経験したほうがいいって。世界にもっと共感できる」
「……この惨めさの代償がたったそれだけかよ。こじつけんな」
「ばか、それってすごいことだ!」
珍しく強気に真剣なことを語っていたかと思うと、くしゃりと崩した可愛い顔になった。そんな横田は悪くないと思った。
取り留めの無い話をぽつぽつと続けた。
時計が電車の混雑時間を指す前に「そろそろ出るか」と横田は足をテーブルの内側から引き抜く。斜を向いた姿勢のまま珈琲の最後の一口を啜ると、横田は突然パチンと手で口を押さえて、恥ずかしそうに足元を見る。
「俺、喋りすぎだな、今日……」
「俺だって。……それにしても意外。アンタがこんなジジ臭い東京を案内してくれるだなんてな。てっきり、原宿とかあの辺連れまわされるかと思った」
「なんなら今から浅草行く?」
頭に手を置かれても、今は嫌な気分がしなかった。二人は、初めて一緒に笑った。