6 出ようぜ
どうやら、サヤカが自分を揺すり起こしているらしい。眠い眼をこすりこすり顔をあげると、体中が痛かった。もやが掛かった視界で化粧がびっちりと施されたサヤカを見上げる。
「なんで床で寝てるの?」
薫は、ぼんやりと昨日の自分の甘酸っぱい姿を思い出してこっそり赤面した。さらに、一晩たって、自分がセンチメンタルなショックを受けたことに動揺した。つまり、格好悪いと思った。
「あ……水飲もうとして、一旦起きたらそのままソファで寝たっぽい」
嘘をついた。
「ったく、風邪ひくでしょ?」
サヤカは、薫の頬を両手で挟んで自分に向かせると、一語一語ゆっくり言って聞かせた。
「いい? 今から私は学校行くけど、薫は好きに過ごして。鍵は、テーブルの上。失くさないように首に掛けといて」
机上には、昨日横田が首に掛けていた鍵が置いてある。
彼女は不機嫌なときと誘うときに『薫』と呼んだ。当然、今は不機嫌なのだ。ぼんやりと、ライダースジャケットにミニワンピースを合わせたサヤカを目で送った。玄関でワンストラップのハイヒールパンプスを履いたサヤカは、床に座り込んだままの薫に一瞥もくれず出て行った。
今日は土曜日だ。ぼんやり、大学は土曜日も授業があるのか、と思う。
今は10月で、学期の真っ最中だ。
それでも、サヤカに長く会いたいが為に金曜の終業後に高速バスに乗った。そして月曜の夜のくだり便で帰るつもりだった。
薫は途方に暮れた。初日にサヤカに拒否されて、これからの二泊はどうすればいいのだ? 蠱惑的な彼女の肢体を見せ付けられて指を咥えて見てろ、とでも言うのか。
ここは、まっすぐ実家へ帰るのが妥当な解答だったが、このまま敗走したくは無かった。せっかくだから月曜日はサボりたい気もしたし、何より、サヤカを大好きな父親に根掘り葉掘り早めの「凱旋」の訳を聞かれるのが目に浮かんだからだ。彼女が行為を出来ない時でも、滞在期間を短縮したことは無かった。言い訳が思いつかない。
「はぁ……死にてえ……」
その時、ローテーブルの上の携帯のイルミネーションが光った。消音の上バイブレーション機能もオフにしていたので、危うく気付かないところだった。ウィンドウが示しているのは知らない番号だったが、誰でもいい、何か話をしたい、と思っていた薫は、迷うことなく通話ボタンを押した。
「はい……真野……、」
《おはよう。あ、切るなよ》
鈍い頭が働いて、声の主を特定したときには既にそう釘が打たれていた。でも、切ることはしない。本当に誰とでもいいから話がしたかった。
「アンタか。横田一成」
《イッセーと呼べ》
玄関の外の通路の方で人の声が聞こえてきた。サヤカと同じ大学の学生ならば、この頃が出かける時間だろう。
「……あんたは大学行かなくていいの?」
《んなもん、サボる》
「ちゃんと行けよ、親不孝者」
《遊んでいる君に言われたくないなぁ、受験生の真野薫君》
「……うるさい。用が無いなら切るぞ」
(切らないけど)
《待て待て。今、俺、サヤカの部屋の前にいる》
「………」
通路の声の意味を理解した。電話を切ると玄関まで走って行き、チェーンを掛けたままドアを恐る恐る開けた。
するとホラー映画のように腕がニュッと勢いよく伸びてきて、薫の腕を掴んだ。薫は思わず身を竦めた。
「う、わッ! やめろよバカ!」
「開けて」
案の定、横田がそこで微笑んでいた。
黒のパーカーを羽織り、シンプルな白いTシャツを下に着ている。ストレートでも野暮ったくないジーンズは、細長い足に適度な余裕を持たせて格好良かった。無駄な装飾も模様も無く、作りこんでいない彼の服装は、嫌いじゃなかった。
薫は昨日の「冗談」を水に流すつもりでチェーンを取って彼を招き入れた。
「……アンタいつも手ぶらなの?」
「そ。鞄は持たない主義」
横田は履き古した白のジャックパーセルを、サヤカのように玄関に脱ぎ捨てるとそのままトイレに直行した。薫は、彼の靴の乱れは直さない。
「学校の時はどうすんの。教科書とか」
「ん~。隣の人に見せてもらう」
カチャカチャとバックルを外す音がする。
「それって迷惑じゃない?」
「人が用を足すときも傍で話しかけるのも迷惑。っていうか、さすがに冗談だから。学校も手ぶらってのは」
薫は少し笑って、キッチンでコップを二つ洗った。
ガラスのローテーブルには、ウーロン茶の注がれたコップが二つ。ソファには横田が座り、薫は警戒して地べたの座布団に胡坐をかいて座った。
「何でアンタが俺の携帯番号知ってるの?」
「薫、なんでもかんでも聞かないでまずは考えろ。昨日はお前の迎え頼まれたんだよ、俺。連絡先も知らないでどうやって待ち伏せろって? ……ま、顔は割れてたけど」
意味も無くパーカーのフードを被ると、小ばかにした調子で言った。
「そのキレーな面。見間違えるはずない。サヤカが何度も写真を見せてきた。自慢の従弟だ、って」
「……ふうん」
サヤカが横田に自分を紹介していたことが意外だった。
「……薫さ、ジャージ姿も中々そそるけど、日中の活動時はちゃんと着替えないと気が滅入るぞ」
「いいんだよ、今日は滅入りたいの。放っとけよ」
「昨日の生意気そうな調子が無くなってるね。どうした? 不能にでもなった?」
今なら不能になったほうがましだ、と思いながらも、不躾な横田を睨み付けた。彼は、おどけていた表情をスッと優しげなものにすると、「出ようぜ」と言った。
彼はソファから立ち上がると、勝手に薫のボストンバックを漁ってポイポイ、と適当そうに服を投げてよこした。薄手のVネックのセーターにベージュのパンツだ。薫も、サヤカに倣って装飾や色味が少ないものを好む。
「おい、」
「いいだろ、それで」
「そういうコトじゃなくて!」
彼は、薫の手前まで移動してしゃがみ込み、胡坐を掻いた薫の顔を真正面に見る。
「お前、泣きそうな顔してるぞ」
「嘘……、」
思わず自分の頬に手をやった。横田は、にや、と意地悪そうに目を細めた。
「う・そ」
「………」
「ふくれんな。田舎モンの薫君に都会を格安で案内してあげるから」
「……別にいいし」
「引きこもるなって。こんないい天気の日に。ほら、そのしみったれたジャージは脱げ!」
あっという間に下着に剥かれたが、隙あらば忍び寄る横田の魔の手から命からがら逃げ仰せ、脱衣所で着替えを済ませた。いい加減、外に出る気にもなった。
一方、横田は脱衣所に向かって叫んだ。
「言っとくけど。俺『も』土曜日は講義無いよ!」