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カオルノキミ  作者: 黒炭
5/12

5 誘惑と拒絶

 シャワーを浴びていなかったサヤカは、事後にそれを回した。洗いたての頭をタオルでごしごしと拭きながら、彼女はソファに腰掛ける。薫はフロアランプの光だけで本の続きを読んでいた。

「目、悪くするよ」

「いいから。蛍光灯つけないで」

「なんで、」

「……白い光は嫌い」

 サヤカは前触れも無く薫の頬に口づけすると、何読んでるの、と本を覗き込んだ。

「ああ、それ」

 彼女は含み笑いをする。

「……何がおかしいんだよ。これ全然面白くねえよ」

「高校三年生で理解できない話じゃないでしょう。……私、アリョーシャが大好きでさ」

「こんな人間、現実にいない」

「いたよ。昔のかおちゃんはアレクセイみたいだった」

「どこが!」

「……だから私も誘惑したくなっちゃって。あのきっかけをくれたのはこの本。ま、当時読んだのは児童版だったけどね」

「なんてこった……自分の堕落した人生はこの本から始まってたってのか」

 言うほど堕落しているとは思っていない。

「感慨深いね」

「結局俺は誘惑には負けたわけで。……つまり、アレクセイみたいな人間は存在し得ないってこと」

「さぁ?」

 じゃあ、どう思うんだよ。

 そう尋ねつつ、サヤカのきゃしゃな腰を引き寄せて、自分の足のあいだに誘った。彼女はソファーに膝立ちのようになって、真正面にくる。頬に手を添える。薫はその指にちらと視線を送った。しばらく黙って、彼女は彼を見下ろす。フロアランプのせいか瞳がやけに潤って見える。こんなふうに見つめられると、骨が折れるほど強く抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。どうしようもなく、サヤカは魅力的だった。

「私が思うに、アレクセイも誘惑に負けたのよ。それはもう、イワンやミーチャよりも、ひどく」

 薫は、彼女のひねくれた物語解釈を聞くのが好きだった。

 フランス文学専攻のサヤカの本棚には、ランボオだらけだ。また彼女の好きな老舗出版社の文庫本がずらりと並び、青、ピンク、緑など色とりどりの背表紙だ。西洋文学のみならず、東洋文学や思想にまで彼女の興味は広がっているらしい。

 おまけに、薫の大嫌いなフランス映画のDVDも並ぶ。鑑賞させられるたびに、彼女は本当に楽しんで見ているのだろうか、と余計なことが気にかかる。何しろ彼女は「あの服カワイイ」、「あのメイクが綺麗」とか、そんな感想を発しては一時停止をかけるのだ。そんなことをされては、当然、物語の内容が入ってこない。ただでさえ理解しがたい映画が、さらにややこしくなる。

 勉強しろよ、そう言ってまた、彼女は薫にキスをする。深く。





 二人が並んでクイーンサイズのベッドに横になって暫く経った時に、唐突にサヤカは切り出した。まだ薫は寝つけていなかったため、顔を横向けて自分が起きていることを示した。

「イッセーと付き合ってる振りやめるって言ったでしょう?」

「ああ。そうだった。なんで?」

「私、」

 仰向けだったサヤカは、身体をねじって薫に向いた。

「私、好きな人できたんだよね。初めて」

「へぇ、で、何で別れるの?」

「呆れた。本気で分かんない?」

 心底呆れた様子で、薫の前髪にさらりと触れた。

「あのね。今までは余計な面倒が嫌だから、彼氏がいるふりしてきたの。でもね、今は傍にいたい人ができたの。だから、イッセーとの契約は解除。面倒だけど、私、頑張るつもりなの」

 恋愛で頑張る。引く手あまたで需要過多のこのサヤカが、誰かが欲しくて頑張る、と。彼女にはぜんぜん似合わないことだ。薫はしばし、違和感と戦っていた。

「私ね、その人以外に他に何もいらないの。いらなくなったの」

 彼女は両手を口の前で合わせて、幸せそうな吐息を漏らした。瞼を閉じると、長いまつげが下まぶたに張り付くようだ。

「まぁ、俺もそう、だけど。サヤカだけ抱ければいい。分からなくもない」

 ここで彼女はむくりとうつぶせになると、真面目腐った顔をした。

「全然分かってないって。かおちゃんは、人を好きになったことないんだ。私だけでいい、って言うのも、本当は、私の、体しか知らないって意味だからね、それ」

 彼女は、ため息と共に被りを振る。

「『その人だけでいい』っていう感覚は、そういう肉体的なものじゃない。心が思うこと。かおちゃんは全然分かってない。だから、私が『もうこういうことするのやめよう』って言っても、意味分からないでしょうね」

 唐突に、自分にかかわってくることが言われた気がする。薫は、瞬きをして笑った。

「は?」

 サヤカもまた、にっこりと笑った。しかし今は、女の笑みではなく、従姉の笑みだった。

「……ね」

「いやいや、何が、『ね』なの?」

 今度は、薫が布団をはいで上半身を起こしてサヤカに向かった。

「もう、エッチはできない、って言ってるの」

「……マジ?」

 あきれたことに、できた反応はこれだけだ。

「本当」

「悪いけど、ぜんっぜん意味わかんねえ」

「意味分からないなら、意味取っ払って意思だけ言ってあげる。『薫とはもうセックスしたくない』」

 薫は、完全に固まった。わかりやすすぎて、恥ずかしくなるくらいだ。しかし、意味が分からないのはそのままだ。どうして? ともう一度聞きたいのをかろうじて堪えていた。聞いてしまったら、ものすごく格好悪い気がする。

 今になって、隣のうつ伏せで節目がちにしているこの従姉が、別の意思を持った生き物であると意識した。初めてのはっきりとした拒絶を示されて、言いようの無い打撃が内部に響き渡った。

(取り乱すな。……落ち着け、落ち着け、俺)

「……確かにかおちゃんは上手になったし、相性も良いけど、今の私はそれ以外が欲しい。そしてそれは、私の好きな人しか与えてくれない」

 つまり、薫ではみたされないのだ、という「返品」。それをうけても、辛うじて冷静な部分が機能してくれた。

「……サヤカも普通の女なんだな」

 残念なのではない。思わぬことを聞いてしまって、そのままストレートに言葉になって出てきた。

「うん。ちょっと今までのふるまいは後悔してるかな」

(後悔? なんで?)

「その、好きな奴と、うまくいけよ」

 サヤカが恋愛でうまくいかないはずがないとわかっていた。うまくいく見込みがあるからこそ、自分を切り捨てるのだ。自分は用済みになるということだ。

 サヤカは、ふと悲しそうな顔をして薫を見上げた。小さく、ごめん、と謝罪をする。

「謝るなよ。ゴメンなんて言われたら、俺が遊ばれてたみたいだ。違うだろ。相互利益のためだったろ。俺たちも、契約解除ってだけだろ」

「……あんたも、好きな人を見つけて、幸せになれ」

 何故か、ズキンと、心が痛んだ。その瞬間に、自分の動揺が、「相手」がいなくなることに起因するものではないことに気が付いた。

 ―――好きだったのかもしれない。自分はずっとサヤカが好きだったのかも。

 でも口は勝手にサヤカを応援する言葉をつらつらと連ねていた。

 

 少し沈んだサヤカに声を掛けているうちに、疲れたのであろう、彼女は静かに寝入った。薫は、起こしたままの上半身を彼女の隣に横たえることも出来ず、ただ彼女の穏やかな寝顔を見つめていた。

 口に入り込みそうな髪の毛を払おうとして、ぎくりと引っ込める。そのまま、彼女に口付けてしまいそうだった。そのまま、儚いキャミソールを引き千切ってしまいそうだった。

「……寝れるかよ。好きな奴の隣で、黙って寝てられるかよ」

 薫はソファに移動すると、そこで膝を折りたたんで、顔を埋めた。


 彼は泣きたかった。実際に泣いたかどうかは、覚えていなかった。


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