4 サヤカ
逃げようとする薫を面白がるように、横田はTシャツの裾から冷たい手を滑り込ませて上半身をまさぐる。抵抗する心積もりとは反対に、体は横田の動きに従順に解れてしまう。こんなに体の自由を効かなくさせる手は初めてだった。
「冗談もッ、たいがいにしろッ……、」
「冗談? なら笑って見過ごせよ」
背筋が痺れるような甘くて冷たい笑い声を小さくもらす。
いよいよ横田はTシャツをまくりあげ、背に舌を這わせる。その久しい感触に身体は揺れる。悩ましい甘さを漂わせる香水の香りが、思わぬ伏兵となって薫をいよいよあやしくせめたてた。殺した息が漏れてしまうのを、横田は嬉しそうに嘲笑った。
「どうした、笑えないってか?」
耳元で舌を走らせつつ、横田の絶妙な指は直に胸の突起を捕らえた。
思わず薫の首がクン、と跳ねるのを見ると横田は満足そうに白い首筋に唇をつけた。
「俺で感じるなよ。この変態」
「変、態は、……アンタだろッ……!」
「下……見てやろうか。少しでも勃ってたらお前は変態な」
細身の黒のパンツに掛かっている革のベルトを、彼は外しにかかった。じたばたする薫を抱き込むように手を回した横田は、バックルをいとも容易く開かせる。
その時。
ヴーヴーヴー……、と神の助けのように横田のジャケットのポケットで携帯電話が鳴り響いた。
一瞬力を抜いた腕から、転がるようにその呪縛から逃れ出た。新しい下着を引っつかんで浴室に飛び込み、鍵を掛ける。その戸にもたれ掛かって、荒く息をはく。
その後を追うように、横田が電話で話しながらゆっくりと浴室に向かってきた。
「あー、ウン。じゃぁテーブルの上置いとくわ。……うん、うん、……ああ。いいけど。……はい、じゃあな。おやすみ」
浴室と脱衣所を区切る頼りない戸をコン、と叩かれた。
「薫、楽になりたいだろ?」
「……うるさい。帰れ」
「言われなくても今から帰るよ。サヤカがもうすぐ帰ってくるってさ」
そう言うと、脱衣所の横田の気配はスッと消え、玄関で靴をトントン言わせている。「またな」と声を掛け、玄関のドアを響かせ去っていった。
再び会って堪るもんか、と薫は頭を膝の上に乗せた。
薫は深く息をついて、半分持ち上がりつつあった自身を情けない気持ちで眺めた。
一瞬、手をかけようとしたものの、サヤカがもうすぐ帰ってくることに思い至り、再び風呂場を出て、給湯のスイッチを入れシャワーを浴びた。
確かに薫は、昔から同性からの魔の手の経験が無いではない。しかし、ここまであからさまに、しかも無理やり開いてくる者はいなかった。
もう一度、大きくため息をついた。
東京に来てから、散々な数時間だった。
◇
サヤカは、会うたびに女性として魅力が増していく。
常にショートカットで、中性的な雰囲気で男に媚びない女だったが、どうにもその色香は流れ出てくる。その髪は、今はキャメル系の色に染め上げている。黒のテーラードジャケットに襟元の広く開いたサテンブラウス、ベージュのヒラヒラとしたミニスカートを合わせている。
常に彼女はベーシックな色合いを好む。それが彼女を安っぽく見せなかった。彼女は自分の見せ方を心得ている。
小鹿のような目をぱたぱたと瞬かせて、玄関先で仁王立ちしていた薫を不思議そうに見上げる。彼女はショートブーツをまさに脱ごうとしているところで、靴に指を入れ上半身を傾けている姿勢は、薫にとっては一種の奮わせるものだった。それでも、極めて冷静に抗議を発する。
「なんなの、あの横田一成って奴」
「だから、彼氏」
「嘘」
「まぁ、嘘みたいなもんだけど、……いいじゃん」
脱いだショートブーツを調えもしないで、まだ不服を言い足りない薫を追い抜き居間のソファに飛び込む。薫は、やれやれ、と思いながら彼女の脱いだブーツを並べ、付近に落ちていた消臭用の木炭を放り込んだ。彼女が途中で脱ぎ捨てたジャケットも、彼が拾ってクローゼットに掛ける。
「ビール! 未成年は酒買えないのに!」
細い指でテーブルの上の缶ビールを差すと、非難がましい目で見てきた。
「横田が買ったんだよ。俺じゃない」
「あっそ。……もらうね」
「ご勝手に」
そういう自分もまだ19だろうが、と思いつつ、缶の飲み口に付いている桃色の唇についつい目線はいく。ソファに投げ出した足も、上等で見惚れる。
ビールを流し込み、オヤジくさい嘆息をあげた後で満足そうに薫を見上げた。
「……久しぶり。勉強の調子はどう? どこ行くか決まった?」
「……適当に東京の私立受ける」
「だったら、私と同じ大学にしなよ」
「センター利用方式でならいけるかも。一般は無理」
「案外おバカさんなのね。確実に合格したいなら90パーセントは取れないと」
形式っぽく受験の話をしてくるサヤカに、薫は少しやきもきした。今は横田一成について知りたかった。
「それより、あの横田って男を説明しろよ。俺、あいつのせいで散々な目にあったんだけど」
「だから、ただの彼氏っぽい人だって」
「……寝てるの?」
「ん」
と、微妙な音で曖昧に誤魔化す。それを薫は肯定だと受け取る。
(……やっぱりからかってやがったあの野郎。)
「でもそろそろ彼女役は辞退させてもらうつもりだったし、今日は最後の頼みだったかな」
「なんで?」
彼女は、缶ビールをコン、とガラスのローテーブルに置くと、目の色をゆっくりと女のそれに変えていった。
「……そんな話、後でいいじゃん。来なよ、薫」
このきっかけを呼び覚ますサヤカの声が、薫はどうしようもなく好きだった。その声で、鎮めていたものは素直に反応する。
乱暴に食いかかりたい衝動を抑え、優しく彼女の伸ばした手に手を絡ませる。薫はソファの背に手を掛けると、サヤカの綺麗に張り出した鎖骨に唇を落としていった。