2 不意打ち
サヤカと薫は、所謂セックスフレンドと言える関係だった。
まだ何も知らない無垢だった薫に性の手ほどきを授けたのが一つ上級の従姉、サヤカだ。お互いの家は町一つ分離れてはいたが、田舎の古い家系である真野家の直系の元には、曾祖母に会いによく親戚が訪ねてきており、サヤカの家族もその中の一つだ。
仲良く遊んでいたものの、なだれ込むのも自然なことだった。可笑しな薫の両親は、それを知っててもなんの咎めも無い。「避妊はしっかりしろよ。」それだけだ。両親はサヤカが大好きだ。
際立って外見の美に恵まれていたサヤカと関っていたおかげで、どうも理想が高くなってしまったのが難点だ。彼女以外とは寝れなくなってしまっていた。その上、彼女は技術も上等と来た。そんなことで、彼女が上京してからはこうして時々彼女のアパートへ遊びに行くのだった。サヤカの方でも彼を呼びつけることもあって、互いが互いを「体の面で」必要としていた。
薫は思い起こす。
サヤカが特定の男を作っているところを見たことが無い。なのに、今、先を歩く見目麗しい男はサヤカの「恋人」だと言った。自分が唯一サヤカを満足させられる男であると自負していた薫は、少々自尊心が傷つけられた。
彼は妙なほど身軽で(しかし軽薄なのではない。しなやかと言った方が近い)、人ごみでも目が行くほどに雰囲気があった。後ろをついて歩くと、それが強く感じられる。黒豹を人間にしたらこのような外見なんじゃないか、と思う。
飄々と前を行く横田は、気まぐれのように道沿いのレコードショップにひらりと入ると、エレベーターの上がるのボタンを押した。5階に止っていたそれは、下に向かってゆっくり降りてくる。
(……話の流れからいってここはメシ屋に行くところじゃないのか?)
ふわり、と立ち止まった横田から香水の香りが漂ってくる。……この甘ったるさは女物だろうか。しかし、薫りはあやふやで物足りなく、男の体に鼻をつけて深く吸い込みたくなる。
そんな自分を可笑しく思い、別のことを考えては、口にした。
「……何でお前がサヤカの恋人なんだよ。あいつが特定の人と付き合うなんてありえねーよ」
横田は、きょとんとした顔を見せた。
「俺たち、別に恋してま~すって訳じゃないから」
「……つまり、セフレってこと?」
「いや、違う。付き合ってるふりしてもらってる。カムフラージュだよ」
「ああ、なるほど。あんた女にモテそうだ」
横田は、じっと薫を見下ろした。横田の方が背が高い。そして、彼は呟くように零した。
「……女になんてモテても仕方ねー」
「まぁね」
同じ感想だった。女性関係をみだらに持つと面倒になるだけなので、薫もサヤカ以外は相手にしない。彼の言い分ももっともだ。サヤカぐらいの女と付き合っている、と言ったら誰も寄り付いてこないだろう、と合点する。
薫の同意に、横田はにやりと笑う。
「ああ、お前、俺と同類さんか」
「そうみたいだね」
その時点で、二人の間には誤解が生じていたのだが、薫は気付かない。
エレベーターが到着し、扉が開いて二人を飲み込む。
先に入った薫は、エレベーターの戸口を手で押さえる。「開」と「閉」のボタンをうっかり押し間違える彼にとっては、後続の人間を挟み込まないための賢い方法だと思っている。だが、乗り込んだのは薫と横田だけだ。
すぐに閉めるのボタンを押す。
「何階?」
「……俺は、お前みたいなのは嫌いじゃないな」
噛合わない言葉を耳元で囁きながら、ボタンパネル前に立っていた薫の肩越しに、横田は手を伸ばして七階のボタンを押す。例の薫りが深く染み込んでくる。
その近すぎる奇妙な仕草を不審に思って振り向くと、頤を掴まれた。
間髪をいれず、横田はそのまま唇を重ねてきた。
驚いて身を固くした薫をほぐす様に横田の唇は柔らかく溶かしに掛かった。
頬に手を当てられ、口を開かされそうになった途端、はっとして横田の胸を突き飛ばした。
「……なにすんだよ」
目を吊り上げて服の肩口で唇をぐいと拭く薫の神経を逆なでするように、横田は自身の唇をちろりと舐め上げ、色っぽい笑みを浮かべる。
「純朴な反応。ごちそうさん」
「ふざけんな」
横田は、おかしいな、という調子で耳の上を掻く。
「なんだ。お前、ストレートかだったのか」
「は?」
「ま、でも関係ないね。俺、お前のこと気に入ったから」
エレベーターで切り取った夜の街の光と闇を背負って、彼は口角を上げた。
七階に着いたエレベーターは、ゆるゆると扉を開く。茫然自失の薫を引き摺るようにして横田は歩きだした。
(……サヤカ、この俺を放っておいて何やってるんだよ……。)