12 カオルノキミ
朝、薫が目を覚ますと既に横田は起きていて、薫の柔らかい髪を撫でていた。レースのカーテンしかない横田の部屋は朝日で満ちていた。結局薫は例のいわくつきの部屋で寝ることはなかった。
「……起きたか」
目を細めた、悲しくなるほど優しい横田の顔と、夢見心地の柔らかいベッドに包まれている幸せに身震いした。が、同時に昨夜の自分の痴態が思い出されて、薫は一気に赤面した。
「俺、」
「……いいから。ダルいだろ? 寝てろって」
言われてみれば、薫は下半身に異物感があって重たかったし、熱っぽい。ん、と短い音で返事すると、再び眠りに落ちた。
二度寝から目が覚めたとき、隣に横田の姿は無かった。
箪笥の飾り棚の時計は午前9時を指しており、薫は、自分はさっき一体何時に起きたのか、と疑問に思った。家全体が深閑としている。テレビの音も、台所の音も、水音も聞こえない。何故か、風邪で学校を休み、広い家で一人ぼっちが心細かった幼児の頃を思い出した。
横田は家を出たのだろう、寝過ごしてしまったことを申し訳なく思いながらむくりと布団から起き上がった。昨晩から借りていた浴衣がよれよれになって身体に張り付いている。それをずるずると引き摺るように、仕度を始める。
朝食でも作ろうと、冷蔵庫を開けたときだ。玄関がガラリと開く音がした。鼻歌と共に横田が帰ってきたのだ。薫は何と無く出迎えた。
「あれ、起きたの薫ちん」
彼は茶色の紙袋を抱えている。
「あんたこそ。大学は」
「んなもん、さぼるさぼる。君だって今日さぼりでしょ」
まぁ、と口ごもる薫の浴衣の襟を猫のように掴むと、ずるずると台所まで連れて行った。
「言ってくれれば、あんたをさぼらせずに起きて出てったのに」
横田は作業台に果物を並べていた手を止めて、真剣な顔をして薫を見た。
「……なんだよ」
昨日の交わりを思い出して、どうも平常心ではいられなく、目線を外す。
「分かんない? 俺、薫ちゃんと少しでも一緒にいたいの」
「ば、ばかじゃねーの。俺、着替えてくる」
薫は、耐えきれず台所を出た。横田が再び鼻歌を歌いだ。「こなれた男だ」と思い、内心、やれやれとため息をつく。
今日は東京へ来た時と同じ服装だ。洗濯してもらった白のVネックTシャツを着て、薄手の黒のカーディガンを羽織り、黒の細身パンツに慎重に足を滑り込ませる。ふとした瞬間に痛みが走るので注意が要る。今日は、観光をする気分ではなかった。火曜からは学校へ行かねばならないため、早めに帰ることにするのが得策だ。幸い、バスは新宿駅からも出ているため、ここの最寄り駅から私鉄一本で行けた。
居間で炬燵に入ってりんごを食べている横田に伝えた。
「俺、11時のバスで帰る。世話になったな」
横田は、炬燵の一辺をパンパン、と叩いて座るよう促した。
「いいってことよ。受験の時もここに泊まれよ。……さすがにそん時は挿れないから」
「あんたな……」
薫は炬燵に足を入れると、絡めてくる横田の足をあしらうことはせず、されるがままにした。器用にきられた兎型りんごを、フォークを使わずに素手でつまんだ。
◇
新宿駅には余裕を持って到着した。
百貨店前の連絡通路状のテラスで、二人は柵にもたれ掛かり、ホームに着いては離れていく列車をぼんやりと見ていた。
「……俺、気持ち良かったよ」
不意に、薫は横田に言った。視線は、発車する山手線にあった。横田は、驚いて猫背を持ち上げるが、しかし、すぐに悪戯っぽく笑う。
「……『男との』に対する感想? それとも『俺との』?」
「ばか」
薫は顔を赤くして横田から背ける。
「俺、薫が好き」
今度は薫が驚いて横田を見た。言葉は無い。
「……もう一回言ってやる。お前が好きだ」
「……は、」
薫は、笑みとも驚きとも、拒絶ともとれない微妙な音を発した。横田は風に吹かれている薫の茶色に光った髪の毛を払って微笑んだ。薫の目ははっきりと困惑に震えている。
「なんで……、何言ってんの、あんた……。なんで?」
横田は少しだけ片眉を持ち上げて軽く笑った。
「何で好きになったいきさつなんて教えなきゃならねーんだよ。好きなら好きでいいだろ。時間も性も理由も関係ねーよ」
「何だよ、全然……全然、そんなのとは違うだろ、だって、あんたは、俺と寝たかっただけだろ……」
「お前と一緒にするな。お前と会うために俺がどれだけ頑張ったか。」
「……しらねえよ、そんなの、……勝手だろ、ずるいだろ、自分だけ……、余裕で、……第一、順番が違うだろ。なんでしてから告白なんだよ」
言葉の後半から、しっかりとした声に戻った薫は、いつものように睨み付けて言った。それでも横田は余裕の笑顔だった。
「順番なんてあるのか? それにね。俺はズルいからこうして最後の最後に言う事を選んだ。だからもう、お前は、俺を突き飛ばして帰ってもいいんだ。『変態野郎』ってな。悪いけど、俺は全部、自分の悔いの無いようにさせてもらった。人生は楽しく、だからね。……お前は、どうする?」
「俺は……、」
薫は、自分の足元に一瞬眼を落とす。
暫くの間、沈黙が落ちる。横田は、あえてその静けさを受け入れて目を閉じる。
「俺は、……わかんねえ、かな」
「……うん?」
横田は、薫の不意の笑顔に嬉しい意味で面食らった。この少年の笑顔を見慣れていない気がした。
「俺、わかんねえよ。ズルいだとか、好きだとか、……どうするべきかだなんて、さっぱりわからない。でも、はっきりしてるのは、あんたといるのは楽しいし、セックスも気持ちいってこと。好きかどうかに至っては、その感情自体、まだ修行不足だ」
くしゃくしゃと、その柔らかそうな繊細な髪を揉む。
「まだ答えは俺には出せない。逃げてるんじゃなくてだ」
「いつまで、待てばいいんだ?」
「好きにしててよ。その間にあんたに他に好きな奴が現れるかも知れないし。そしたら、俺、また、サヤカん時みたいに、本当は好きだったのに、って後で泣くかも知れない。それでもいいんだ。あんた言っただろ? 失恋はイイコトなんだろ」
横田は、笑顔を取り繕って頷いた。思ったより、自分の心に余裕が無い。薫はちらと腕時計を確認する。
「そろそろ時間だ」
「あ……そうだな。薫。また東京に来いよ。今度は俺に会いに」
鞄を持って踏み出した薫に、横田は付いてくる気配が無い。
「……なんだよ、ターミナルまで見送ってくれないのかよ」
「そんなことしたら、寂しくて俺はお前を離せなくなる」
ぷ、と薫は噴出した。
「やっと、あんたがおろおろする顔が見られた」
「だから、俺はお前が好きだから……、」
鞄がドサリと落ちる音がする。
薫は横田の襟首を引っ張ると、人目も憚らずに口づけをした。目を閉じる間もない、不意打ちだった。
「……大胆だな」
「お返しだ。一成」
するりと横田を離すと、薫は彼の元を立ち去っていった。
手を伸ばして彼の腕を掴もうとした横田が掴んだのは、薫の残り香だった。ビルの向こうへ消えてゆく美しい少年を思いながら、横田は微笑んで小さく呟いた。
「俺は『浮舟』は御免だよ。早く俺を選んでくれよな、薫の君………」
秋の太陽は、大都会の上空で南中を目指していた。
・・・・・・・・・・・
バスは思いのほか空いていた。運転手は、好きな席に座ってもいいですよ、と言う。
こんなに帰りたくない気持ちは初めてだ。新宿の街をのろのろ走ってたら後ろ髪引かれて仕方ないじゃないか。早く高速に乗ってくれ、早くあいつの薫りを振り切ってくれ。
心を落ち着かせるため、例の兄弟の物語を開く。すると、する、っと紙片が落ちてきた。
「カミュ『異邦人』」
と、綺麗な字で書いてある。間違いなく、横田の仕業だ。
どんな意図があって入れ込んだのかは分からないが、恐らく「読め」という意味はあるだろう。
カラマーゾフの兄弟が読み終わったら、手をつけようと思った。
そんな俺が最終的に志望した学部は、法学部だった。
本の影響?
まさか。ツクリモノに影響されて堪るか。
そして俺は、再び渋谷駅に立つ。……二月中旬のことだ。
今度は古典の単語帳を開きながら。
最後まで読んでいただきありがとうございます。