10 上野にて
日曜日の美術館はさすがに人が多く、遠足の集団も散見できる。そんな小中学生らに対して横田は悪態をつく。
「あんなガキンチョにカラヴァッジョ様が理解できて堪るか」
「いいじゃねーか別に。綺麗な絵だしさ。流行ってるんだよ」
「ばっか! 流行じゃねーんだよ!」
人気のある作品の前には、ルーブル美術館の日常のように人だかりが出来る。並んでいる作品を全て一定の速度で見ていく薫に対して、横田は目録を確認すると、見たい作品だけを選び取ってさっさと進んでいってしまった。二人が見終わるまでには、数十分も差がついてしまった。
もちろん、先に見終わったのは横田だ。
「あんた全部見たの? こんな機会なかなか無いのに」
「楽しめればいいの」
彼は、エントランスの外で買ったばかりの画集を熱心に読んでいた。そんなものを買うなら実物をじっくり見たほうがいいに決まっている。
「……アンタといると、人生が半分以上楽になる気がするよ」
嫌味のつもりだったが、横田は笑ってありがとう、と言った。
美術館を一巡りし、二人は散歩道を歩き始めた。
お目当ての絵が来日していなかったとかで、横田はえらくご機嫌斜めになっていた。
「そのくらい事前に調べておけよ。俺は彼の本物が見れただけで満足だけどね」
「……生ぬるい。俺は洗礼者ヨハネが見たかったんだ!」
「あっただろ、ヨハネ」
「違う、あれじゃない。俺が求めてたのは、あの二日酔いのように頭が痛そうに座っているヨハネ! 二次元で抱きたい男性像ナンバーワンだ。カラヴァッジョは俺のことを分かってる」
「聖人でしょ、ヨハネ……。……あんた抱かれるわけねーよ。天罰下るって」
抱かれるんじゃない、抱くんだ。と要らぬ訂正をする。
それから、彼は滔々とカラヴァッジョについて語る。彼については伝説やゴシップじみた情報が多いので、話の種には困らない。薫はさほど興味がなさそうに、半分以上を聞き流す。
「知ってるか、薫。著名人は告白している。彼らは幼少の頃、美術品に欲情したってな。だから宗教画相手だろうが、欲情するのは間違っていない。むしろ、何が悪いんだ? 美しさと聖性は須らくエロスと結びつく。俺が言わなくても、もう誰かが言ってることだ」
「生々しいこと言うなよ……」
そんな彼らの暗黒じみた会話とは対照的に、公園では親子連れが楽しそうに声をあげている。まだ小さい子どもがよちよちと、手を差し伸べている父親に向かって歩いている。母親はその傍で聖母マリアのように乳児を抱いて微笑んでいる。
(そういや、俺もああして両親にここへ連れてきてもらったなぁ……、)
横田は、ギクリとするほど優しい微笑で彼らを見ていた。数秒前の穢れに満ちていた表情は地面に落っこちているのだろうか。
「……可愛いよな、子ども」
呟くように言った横田に、見とれていた薫は慌てて言葉を返した。
「俺は子ども嫌いだ」
「お前もガキの癖に」
「アンタも変わらないだろ!」
はた、と思う。こいつはいったいいくつなんだ、と。自分といくつだけ歳が離れていて、どんな経験をしてこんな飄々とした人間になったのか。
薫は、さっぱりつかめない横田という人間に興味を持ち始めていた。何も知らないも同然だ。サヤカと同じ大学かどうかすらも実は確認していない。
「……アンタ、学部はどこなの?」
「どう思う?」彼は振り返って微笑んだ。
「……情緒的だし、不合理だし、理系人間じゃないだろ」
「おいおい、そりゃ偏見だぞ」
「じゃぁ何なんだよ」
「教育」
薫は立ち止まった。すると偶然、落ち葉が彼の頭に乗った。
「……冗談だろ。歩く猥褻物みたいなお前が教育だって?」
「嬉しい褒め言葉だね、薫くん」
横田は、薫の頭上に降りた、まだ薄く緑の残っている銀杏の葉をつまむと、それに唇をつけた。引き攣った顔のままの薫の黒いカットソーの襟ぐりを引っ張ると、その隙間から銀杏の葉を滑り込ませた。
「わ! 何すんだよ気持ち悪ィな!」
薫は焦ってカットソーに裾から手を突っ込むと、落ち葉を引っ張り出そうとした。しかし、横田は服の上から中の薫の腕を掴んだ。ひやりとした瞳が薫の揺れる瞳を捉える。
「……嫌がる顔がそそるんだよ、お前」
「何、」
横田は小指だけをつ、と伸ばすと服の上から右の突起がある場所に軽く爪を引っ掛ける。彼から逃れるように目をきつく瞑って肩を縮めた薫を、息だけで笑った。それだけで、すぐに手を離す。
「……どうよ。そろそろ本番がしてみたくなっただろ?」
「……馬鹿じゃねーの」恨みがましい目で見上げる。
「生娘を安心させるように、お前を慣らしてやったと思うんだけど? 大丈夫、俺、上手いし」
「だから女扱いするな! 別に怖いから嫌がってるんじゃねーよ! 厭なもんは厭なんだよ!」
横田は、肩をすくめて見せると、先立って歩き始めた。ジャックパーセルの裏地の青がちらちらと目に映る。
薫が小走りして追いつくと「……無理強いはしないから」、横田は確かにそう言った。




