1 オッサンと泥棒
渋谷駅、午後9時半。
薫は、約束の時間よりもゆうに一時間は早くそこへ着いてしまった。
高速バスを利用しての上京だ。道路は混雑も無く思いのほか順調に進み、30分は繰り上がって東京駅に着いた。都会での時間の潰し方を思いつけずに素直に渋谷駅に向かい、結局時間を持て余している。
都内に入る前に送った『早く着いたから迎えに来い』のメールを無視している約束の相手、大学生の従姉のサヤカを恨めしく思う。
渋谷駅で有名な「ハチ公」も、周りに群がる色とりどりの人間の群れに圧倒され、すっかり存在感が薄れてしまっている。
真正面に聳える大型書店で立ち読みする気も、そのビルを侵食している珈琲チェーン店で座る気も起きなかった。なにしろ、スクランブル交差点を渡ることすら億劫なほどの人間の多さだ。着替えや洗面具の入った鞄が、この街を積極的に歩くことを困難にしている。
仕方無しに、既に閉店した百貨店のシャッターに寄りかかり読書を始める。汚い地面にその厄介なボストンバックを降ろして、全く進まない『カラマーゾフの兄弟』のページを繰る。どうせ読むなら受験生らしく、『源氏物語』でも開けばいいものを。彼自身、何故自分がその本を手に取ったか、その理由が思い出せない。
それから40分は経った頃。
先程から妙に自分をちらちら見てきていた隣の会社帰りらしい男が話しかけてきた。
「ねぇ、君、人を待ってるの?」
その妙に粘っこい口調で、彼を酔っ払いだと断定する。酔漢であるからには、適当にあしらっても罰はあたらない。この状態の人間は、この世で最も嫌いな種類のものだ。
本に目を落としたまま、適当に頷いた。サラリーマンは、「そうかそうか、」と言いながら言葉を続ける。
「これから一杯飲まない?」
今度はあからさまに無視した。人の話(動作だが)を聞いていない。これだから酔っ払いはたちが悪い。
「君、僕の好みだなぁ……。どう、お小遣いあげるし、一晩……」
その言葉はさすがに無視しがたく、呆れ顔で返事をした。
「オッサン。俺、男だけど」
「だから言ってるんだよ? オジサン、そういうカンジだから。あ、もしかして、君、経験無いのかな?」
縦にも横にも幅のある脂ののった彼は、つむじからつま先まで粘着質な視線でもって観察してくる。寒気が走り、思わず一歩退く。
屈辱なことに、酔いどれの方が一足早かった。ねじ上げられるように腕を掴まれ、文庫本が地面に落ちる。嫌悪感と苛立ちが全身から噴出してくる。
「……やめろ。大声出すぞ」
「二万……いや、三万円はどうかな。今、手持ち少なくてね……、」
「俺、高校生だぞ」
そんな反論には聞く耳を持たず、彼はシャッターに薫の身体を押しつけ、自身の身体で道行く人の視線を遮って顔を近づけてきた。
「やめろ! キンタマ蹴るぞクソオヤジ!」
熱くて酒臭い吐息をまともに浴び、我慢の限界を超える。足で彼の股間に強烈な一発をお見舞いしようとした寸前。
若い男の声が掛かった。
「おい、オッサン! 俺の友達に何してんだ! ケーサツ呼ぶぞ!」
リーマンはビクリと振り返ると、急に離して声の主を探した。
その瞬間、何時の間にか二人の懐に忍び込んだその声の主は、薫のボストンバックを引っ張り出して飄々と去るのだ。
(……火事場泥棒だ)
そう思った薫は、リーマンの不意を突いて泥棒男の後を追った。一難去ってまた一難、とはこのことだ。
スクランブル交差点に至ってようやく泥棒に追いついた薫は、彼の腕を力一杯引っ張った。
「おい! 俺の荷物返せ!」
しかし、振り向いた人間を見て思わず息を呑んだ。
こちらが気後れするほどの整った顔の男だった。薫自身、自分の顔には自信を持っていたものの、この男の持つ雰囲気にはどうも気圧される。都会風に洗練された全体のバランス、きりりと通った鼻筋に、凛々しい目元。面白みを湛えた唇は、今にも喋りだしそうだった。実際、彼はすうっと口を開いて声を発した。
「なんだよ。せっかく荷物持ってやってるのに。それに、助けたお礼の一つでもして欲しいね」
にこやかに、図々しいことを言ってのけた。
交差点の信号は、歩行者用の青に変わり、回りの人々は様々な方向に向かって歩き出す。
「……はぁ?」
「あんな酔っ払いのエロジジイは最初ッから無視してりゃいいのに。おのぼりさんだなあ。あんなとこで何十分も立ち尽くしてたら、そりゃあ誘われるって。でも、自分の見目の良さを自覚していない鈍感くんでもなさそうだけど?」
先ほどからまともな言葉を発していない薫に対し、男は口早に情報量の濃い言葉を飛び出させる。
いくつか突っ込みたい箇所はあったが、今、真っ先に指摘すべきは一つだ。
「『何十分も』って、見てたのかよ!」薫は赤面する。
彼は、薫に完全に向き直ると、鞄をを地面に置いた。彼自身は荷物が無く身軽だ。
人々は渦中で立ち止まっている二人を迷惑そうに避けながら歩いていく。
「うん、喫煙所でな。いつまでああして待ってるか見てた。君、真野薫だろ? サヤカから頼まれて迎えに来た。あいつ、まだサークル抜けられないんだってよ。俺、サヤカの恋人の横田一成。イッセーって呼んで」
「……そんなこと聞いてない。なんでサヤカは俺に連絡寄越さないんだよ。それに、あんたもあんただ。迎えに来てたならさっさと声掛けろよ。あそこに俺がいなかったらどうするつもりだったんだよ!」
怒りを顕にする薫を、どうどう、と宥めるように手を前に出す。
「悪い、悪い。お前が余りにも綺麗な野郎だったから見とれてさ。……メシ食った?」
不機嫌な顔のまま、黙って薫が首を振るのを見るや、横田は顎で「ついてこいよ」と示す。
するすると、点滅しかけた横断歩道を渡っていく。混乱した頭のまま、横田一成の背で人ごみをやり過ごしながら、巨大な交差点を横切った。