サーカス団の舞姫
「Ladies and gentlemen, boys and girls, ようこそ、今宵最も驚きと興奮で満ち溢れる場所へようこそ!最高にファンタスティックなショーを披露する時間がやって参りました。現実を忘れるような夢の世界へ皆さまをご招待いたしましょう!Let‘s show time!」
司会役の男がショータイムの開始を知らせるアナウンスをすれば、広いテント式の会場が、観客の期待に満ちた歓声でいっぱいになる。
そして、その歓声に押されるようにして、アクロバットや玉乗りしながらジャグリングをする小さなパフォーマーたちが、ステージ上で踊り始める。カラフルな衣装を着て、派手な芸を次々と見せつける子どもたちに、観客の目は釘付けになる。
「さあ、続きましては、本日の目玉!空中を飛び回る姿はさながら妖精のよう!その軽やかな動きにあなたは魅了されるでしょう!夜空の舞姫の登場だー!」
わぁ、と一際大きな歓声があがる。
テントの上部に設置されている小さな出入り口から、きらきらと光り輝くスパンコールがふんだんにつけられた、真っ赤なドレスを身に纏った少女が現れた。少女は観客に向かって軽やかにひとつお辞儀をする。
一呼吸おいて少女は走り出すと、台を蹴って空中にその身を投げた。
観客からきゃあと小さな悲鳴があがるが、少女が吊り下げられたブランコにつかまると、すぐに悲鳴は歓声へと変わり、口笛と拍手が彼女を取り巻く。少女はそのままの勢いで次のブランコへと飛び移っていき、時折身体をひねってポーズをとる。また、ブランコだけではなく、宙にいくつか張られているロープにつかまり、その上に乗ってもみせた。
その姿は司会の男が紹介したように、まるで羽根の生えた可愛らしい妖精が軽やかにダンスをしているかのようだった。
ひととおりの芸を見せ終わると、彼女は再度お辞儀をして姿を現した出入口へ消えていく。それと入れ替わるように、ステージ上に獰猛な動物たちを引き連れた次のパフォーマーが会場の視線をかっさらっていった。
夢のような時間は夜が充分に更けた頃に終わってしまったが、観覧していた人々はショーが終わってもその興奮と驚きが覚めやらない様子で、夢がつまった会場であるテントを後にしたのだった。
人々に夢の時間を与えていたのは、各地を転々とする巡業サーカス団一行であった。このサーカス団には大きな特徴があった。
それは、サーカス団の団員が団長を除いて、全員子どもで構成されているというものだった。子どもと一言で言っても、そこには幅があり、おむつが取れたばかりのような小さな子から、大人の一歩手前であるような少年少女まで様々いる。
彼らは帰る家も故郷も、待っている家族すらもいない、身寄りのない子どもたちであった。
サーカス団の団長は各地を巡りながら、そのような身寄りのない子どもを見つけては、サーカス団という家を提供し、彼らに「芸」という商売道具を持たせている。
そのような訳ありサーカス団の噂を耳にしては、団長の慈悲ある行動に胸を打たれ、ショーに足を運ぶものも多かった。
しかし、この人々の称賛を浴びるサーカス団の顔の裏に、暗い影があることなど、誰も想像していなかったのである。
「このタダ飯ぐらいがっ!芸のひとつもまともに身に付けられない癖に、“仕事”もできないってか!?役立たずめ、何度失敗したら気が済むんだっ、お前が足を引っ張るから、お前のせいで」
「ひっ、ごめ、ごめんなさい…ごめん、なさい…ぎゃっ」
サーカス団の芸人が寝泊まりする簡易倉庫で、ひとりの少年が蹲り、ひたすら謝罪の言葉を口にしている。その傍らで少年を大声で怒鳴りつけているのは、サーカス団の団長だった。顔を真っ赤にして、大きく出っ張った腹を揺らしながら少年に執拗に暴言を放つ。その手には、ムチが握られており、時折少年の身体や床にピシっという鋭い音が響く。鋭い音が鳴るたびに、少年の身体が跳ねた。彼の目から大粒の涙が零れ落ちていく。
簡易倉庫には他の子どもたちも何人かおり、じっと静かに団長と少年の様子を見詰めている。彼らは恐怖とも、憐みとも言えない濁った瞳でただ事が終わることを、息を潜めてひたすら待っている。その非道な行いを止めようとする素振りをするものは、誰もいなかった。
ショーの目玉として夜空の舞姫と紹介された少女もそのうちの1人だった。部屋の隅で謝罪を繰り返す少年を眺めながら、身体のストレッチを行っている。その目からは、彼女が何を思っているのか読み取ることは出来ない。
このサーカス団は聖人的な表の顔を見せながら、その裏では非道といえる事が日常的に行われていた。
団長は身寄りのない小さな子どもを各地で拾っては、痛みと恐怖によって子どもたちを支配し、洗脳し、団長の言いなりになるように調教を施していった。そうして子どもたちはサーカス団員として観客に芸を披露する一方で、さらなる金を生み出すための悪事に加担させられていたのだ。
ある子どもは盗みを、ある子どもは詐欺まがいのことを、ある子どもは売春として己の身体を差し出し、ある者は奴隷としてとある商人に売られていったのだ。芸や技術を仕込めばそれだけ子どもの価値があがる。まさに団長にとって、子どもは金のなる木そのものだった。
子どもたちだってその現状に不満がないわけではなかった。しかし、それを遥かに凌駕するほどの恐怖と、生活の安寧さによって、不満はあっさりと覆い隠されてしまい、誰もかれもが団長に服従していた。
団長に拾われた子どもは全員総じて、元は明日行き倒れてもおかしくない子どもたちであった。本物の飢餓と、理不尽な裏社会の暴力に晒されていた彼ら彼女らにとって、寝食が保障されているサーカス団での生活は天国にも近しいものだった。また、同じ境遇を辿ってきた子どもたちの間には確かな心のつながりが芽生え、サーカス団は子どもたちにとって家であり、家族そのものであると言ってよかった。
誰もかれもがそんな生活を捨てて、元の悲惨な生活には戻りたくなかった。それがたとえ、悪事をさせられていようと、恐怖で支配されていたとしてもだ。
団長にとって、これほど都合がよい存在はないだろう。身寄りがない彼らだからこそ、彼らをどう扱おうと誰にも知られずに済んでいるのだから。
夜空の舞姫である少女も同様に悪事の片棒を担いでいた。しかし、幸いにも彼女はサーカスの看板として舞台に立てるほどの才能があった。美しい容姿もさることながら、すさまじい身体能力を持つ彼女はまさにサーカスの花形になるべくしてなったと言える。
団長も彼女の才能をかっており、彼女を無下に扱うことは少なかった。
このサーカス団で見目の好い女子は大抵、ショーの舞台に立つ一方で、裏の顔として己の身体を以てして金を生み出していた。しかし、この少女の場合は違う。団長にとって、壊れてしまえば捨てればいいだけの存在ではなく、ショーに人を呼び込むための大事な看板の1つである。乱暴に扱われることもある夜の相手として使うのを嫌った団長が彼女に与えている“仕事”は客引きがほとんどだった。
昼間、子どもたちは訓練や宣伝、“仕事”を行う。そして、夜空が暗くなり始めると、子どもたちはサーカステントの中で観客に向かって芸を披露した。それが終わって夜が深くなれば、一部の子どもはそれぞれに与えられた“仕事”をするために、街の中に消えていく。
いつしかこれが子どもたちの日常として当たり前になっていくのだった。
その日は、雨だった。どんよりとした天気に鬱憤を溜めていたのか、それを晴らすためだろう、その日のショーへ足を運ぶ観客の数は多く、いつもより熱気と歓声が大きかった。
舞姫の少女の体調も悪くなかったし、いつも通りにショーを行うはずだった。だが、観客の期待がいつも以上に高まっているのを肌で感じ、彼女は無意識のうちにそれに応えようとしてしまった。
それがいけなかったのだろう、空中ブランコの最中に派手に飛び移って、片方の手がすべってしまった。が、すぐにリカバリを行い、まるでそれが演出の1つであるかのように装った。一瞬、悲鳴のような声が聞こえたが、それはすぐに拍手を伴った賞賛に変わった。
彼女の演目が終わり、裏の控室に戻ると、他のパフォーマーたちが思い思いに過ごしていた。何事もなく終わったことに、ほっ、と胸を撫で下ろしたときだった。
「さっきのアレはなんだったんだ!」
「……団長…」
控室の幕に飛びつくようにして、団長が勢いよく姿を現した。皆の視線が一気に団長に集まり、それまで比較的和やかだった控室の空気が、打って変わって硬いものになった。
団長はその勢いのまま舞姫の少女の腕を掴んで、無理やり引っ張り上げた。
「…っ、いたっ」
「お前、よくあんなん芸を披露してくれたもんだ!観客はうまく誤魔化せたようだが、俺はそうじゃあない。さっきは上手くいったが、もし場がしらけたらどう責任取ってくれるんだ!?客が帰ったら!?お前がどうにかしてくれるのかっ!?その客の損失を、取り返してくれるのかっ?」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
少女の顔に自分の顔を近づけて、至近距離で怒鳴りつける。あまりにも早口でまくし立てるものだから、大量の唾が少女にかかってしまっている。少女は顔を背けることすら赦されず、ひたすら謝罪の言葉を繰り返す。
心を無にして。
突然、少女の頬に鋭い衝撃が走った。やや間があって、じわじわと衝撃があった頬に痛みと熱がこもっていく。
見れば、団長が片手を上げて息を荒げている。再度、少女に衝撃が走る。今度は団長の指に嵌められているゴツい指輪が少女の柔肌にうっすらと傷をつくった。
「あ…っ!」
少女はたまらずに声をもらす。その目にうっすらと涙が滲んだ。
そこまでして、やっと団長が少女の腕を離した。少女はそのまま力なくペタリと床に座り込んだ。団長はそんな少女をまるで汚いものであるかのように見下ろした。
「お前には罰として“仕事”のノルマを増やす。多くの客を引き込んでこい。盗って来てもいいが、中途半端な事だったら容赦しねぇからな」
そう言い残すと、ドカドカと足音を盛大に響かせて控室から出て行った。
団長が出ていってからも少女は床を見つめたまま、しばらく動けずにそのまま座り込んでいる。他の子どもたちも声をかけるわけでも、手を差し伸べるわけでもなく、何を考えているのか伺えない暗い瞳で少女をじっと見つめていた。
ややあって、少女がそっとぶたれて赤くなっている頬に手を伸ばした時、まるで止まっていた時が動き出すように、他の子どももそれぞれがしていた業務に戻っていった。
少女はショー用に来ていた派手で肌がもれなく晒しだされているドレスを脱ぐと、普段着に着替え、その上に厚手の黒い外套を羽織った。
そして倉庫用のテントから出ると、未だ雨が降っている闇の中に身体を滑り込ませた。
少女の頼りない姿が闇に溶け込む中、背後で昼間の様に明るく照らされたサーカステントから一際大きな歓声があがったのだった。
夜の街へと繰り出した少女は、深く被った外套のフードの下から道行く人たちを物色していく。狙うは比較的金がありそうで、少し暇を持て余してそうな男だ。更に言うなら、後腐れもなさそうで、話のわかる人が望ましい。女を引っ掛けてもいいが、そういう女に声をかけるならこの少女ではなく、ほかの少年が声をかけた方が釣れやすい。
雨に濡れてじっとりと重たくなった外套を、掻き寄せながら道を進む。
時折不躾な目を向けてくる酔っ払いの視線を振り払いながら、目当ての人がいないか辺りを探っていると、既に閉店して暗くなっている店の軒下に佇む男が目に留まった。
彼も外套を羽織っているが、清潔感があり、外套の下から覗く着ている服もどこか上品だった。彼は雨が滴り落ちるどんよりとした暗い夜空をただボーっと眺めている。
(あの男に声をかけてみよう…)
少女はひとつ深呼吸をすると、そっと男と同じように軒下に身体を滑り込ませる。男は自分と同じように軒下に入って来る少女の為に、一歩身体を横にずらしてスペースを開けた。
入ってきた少女に視線を投げるが、すぐに元のように上を見上げる。少女は男の隣に立つと、「お兄さん」と声をかけた。
再び男の視線が少女に注がれる。少女は自分よりはるかに背丈のある男の顔を見上げながら、言葉を紡いだ。
「今日は随分と寒い夜ですね」
「…そうだね」
「お暇ですか?」
男の表情がぎょっとしたように歪む。隣でこちらを見上げる少女の顔がフードの影から顕わになる。その美しい顔には微笑みが浮かんでいる。想定外の言葉をかけられ、思わず男は訝しむように少女をじろじろと眺めてしまうが、少女は何でもない事のように、ただ男の反応を待って、静かにしている。
「…何故、俺を?」
「お兄さん、かっこいいから」
「…どこへ連れて行く気だ?」
「サーカス団のテントが来てるでしょ。あの近くの宿なの。もっと可愛い子がたくさんいるよ」
少女はそう言って今しがた辿ってきた道の方を指さした。それに導かれて男の視線が暗い道へ流れる。「サーカス団…」と男が呟いた。男の目がわずかに大きく見開かれる。
もう一度少女は男をみつめながら、「どうですか?」と声をかけた。何か思うところがあるのだろうか、男は少女の顔をまじまじと見つめる。そうして少しの時間が経って、男の口からため息が零れた。
「悪いが、興味ない」
「そうですか、それでは」
期待が外れたなと少女はその場を立ち去ろうとする。と、その腕が掴まれた。
少女が振り返ると、男の長い指が少女の腕に絡まっている。なんですか?と少女が声を出そうと口を開くよりも先に、骨ばった大きな手が少女の頬に触れた。
「…なにか」
「痛まないかい?」
男の手のひらがそっと右の頬を撫でる。少女と男の視線が絡み合った。
そこは先ほど団長にぶたれた場所だった。少女はあのあと、一度も鏡で自分の顔を確認していなかった。もしかしたら、赤くなっていたり、あざになっているのかもしれないと思った。時間が経っているから、そのような腫れはとっくに引いていると思っていたのに。
「いいえ、大丈夫ですから」
「…そうか。余計な真似をしたね。今日は雨が降って寒いから、早く帰りなさい」
「…そうしますね」
男の指が少女の腕から離れる。少女は急ぐようにして軒下から雨の下に出ていくと、男の方を振り返ることなく、小走りでその場を後にした。
闇の中に遠ざかっていく少女の小さな後ろ姿を、男はじっと見つめる。そしてその姿が見えなくなったころ、外套のフードを被って、雨の降る中、軒下を離れ歩き出したのだった。
(…失敗してしまった…)
「なぁ、嬢ちゃん、あんたが相手してくれてもいいんだぜ?そんな宿まで行かなくってもさぁ」
「いや、私は…」
「ほらほら、ここなら雨にも撃たれないし、人もいないし、うってつけじゃん?」
少女の腕を掴んでいる男はそう言ってにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべている。そして腕を掴んだまま、暗い路地へ強引に少女を引っ張っていこうとする。少女は何とか踏ん張っているが、軽い体で男の強い力には敵うはずもなく、ずるずると徐々に引きずられてしまう。
少女が軒下の男の次に声をかけた男は、少女が誘いの言葉をかけると、こうやって執拗に少女に絡んできたのだった。何度少女が売っているのは自分じゃないと言っても、聞く耳をもたないようで、少女の言葉を鼻で笑って放り投げてしまう。
もちろん少女だってこういう場面に今まであったことがなかったわけではなかったし、こういう危険が孕んでいるということも承知だった。だからこそ、今まではしつこい客には相手をしたこともあったし、この男が望むならそうするつもりでもあった。
が、この男の相手をするには、男の纏う雰囲気があまりにも危険過ぎた。
どこか嗜虐的な感じを醸し出すこんな雰囲気の男は、以前他にも見たことがあった。その時男の相手をした子どもは酷く痛めつけられていたのを覚えていた。他の子どもが中々戻らないのを心配して様子を見に行ったところ、凄まじい惨状の中、子どもがぐったりと横たわっていたらしい。身体につけられた傷はなかなか消えなかったし、今も片足を引きずって歩いているのを見かける。
少女もその子の手当てや世話をしたことがあった。自分が客引きした男ではなかったものの、客引きを“仕事”として担当している少女の胸に強い罪悪感の気持ちが芽生えたものだ。
その時は、助けに来てくれる人が近くにいたから、まだよかったものの、こんな人通りの少ない路地で同じようなことをされれば、命の保証がない。
何故、そのことを知っている少女がこの男に声をかけたのかと言えば、それは男が人の好さそうな笑みを浮かべていたからであった。しかし、それはこの男の表面的なものだったようで、ひとたびその仮面が外れれば、その下には酷く残虐性のある一面が顔を出した。
(こんな所で死にたくない!)
少女が必死で抵抗すると、腕を掴む男の手に力が入った。その痛みに、思わず少女の顔が歪む。
「…い、痛いっ…」
「お前が誘ってきたんだろが!あ?」
強く怒鳴られれば、少女の身体がビクッと震え硬直した。一瞬身動きがとれなくなったのをこの男が見逃すはずもなく、その隙をついて男は路地の方へ少女を放り投げる。強く押し出された少女はあっけなく、湿った地面に転がった。男はすばやくその細い体に馬乗りになると、少女の羽織っている外套を引きちぎれんばかりの力でむしり取っていく。
「お、よくよく見れば可愛い顔してんじゃん」
男が舌なめずりをする。その様子を見て、少女の背筋にぞわりと嫌な感覚が走った。
なんとか逃げ出そうと身体を捩り、足をばたつかせるが、馬乗りになった男の身体はびくともしない。「やめてっ!」と少女が大声で叫び、手を振り回す。と、振り回した手が男の顔をかすめた。
「…!ちっ、うるせぇガキだ。黙れや!」
男の目の色がさっと変わる。と同時に男が拳を振り上げた。
殴られるっ!
大きく腕を振り上げた男の姿に本能的な恐怖を感じる。次の瞬間には顔に走っているであろう強い衝撃が降って来るのを想像し、少女はぎゅっと目を閉じ、身体を強張らせた。
が、いつまで経っても衝撃はやって来ず、おそるおそる目を開けば、上に跨っている男はこちらではなく、振り返ってどこかに目をやっている。男の振り上げた手は空中で止まっており、その腕を誰かが掴んでいるのがわかった。ふと、視線をずらせば、男の背後に誰か立っているのが見えた。深くフードを被っているせいで、その顔は見ることができない。
「ちっ、誰だテメェ!邪魔してんじゃねえぞ」
「こんな路地裏で暴行をしてる奴が何言ってる」
「こいつが誘ってきたんだっ!ここでこいつと遊んで何が悪い!」
背後に立つ男の声を聞いた少女の瞳がわずかに大きく広げられる。その声は、先ほど少女が声をかけた、軒下に佇む男のものだった。
驚く少女をよそに、男たちが口論をし始める。少女に跨る男が腕を振り払おうとするが、その腕はびくともしていない。ちらり、と背後に立つ男の視線が少女に注がれた。
「嫌がっているようだが?」
「あ゛ぁ!?」
跨る男の顔が怒りで醜く歪む。
その光景に少女はかすかな期待を込めて口を開く。
「…た、たすけて…」
勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。その声はひどく小さく、少女自身も自分で驚いてしまうほど、か細く弱々しかった。
ふざけてんじゃねぇぞ!と男が掴まれていない方の手で殴りかかったが、背後に立つ男のほうが一枚も二枚も上手だったらしく、あっという間に捻り上げられ、そのまま少女の上から引き剥がされると壁に強く押しつけられた。ぐぅ、と変な音がして、男はしばらく激しく手足をばたつかせていたが、次第にその動きは弱くなり、ついにはぐったりと動かなくなってしまった。
男を抑えつけていた手を離すと、男はそのまま壁にもたれかかるようにして、ずるずると力なく崩れ落ちた。軒下の男は相手が動かないのを確認すると、少女の方に向き直り、手を差し出した。
「立てる?」
「…はい」
少女は上体を起こすと、その差し出された手を掴んだ。自分の手に乗せられた小さな手を掴むと、男はぐいと上に引っ張り上げた。少女の身体が倒れないように、背中に手を回してしっかりと立たせてやる。その手は力強いものの、少女を労わるようで酷く優しかった。
「だから、真っ直ぐ帰りなって言っただろう」
「……」
「この街はあまり治安がよくない。悪いことは言わないから、今夜はやめなさい」
「で、でも…」
少女が言いよどむと、男ははぁとため息をついて、自身の外套の中を探ると小さな袋を取り出した。その袋の中から何枚か硬貨を取り出して、握っていた少女の手にそれを乗せた。
少女は自身の手のひらに乗せられた硬貨をまじまじと見る。その表情には驚きと困惑が浮かんでいた。
「こ、こんなに…」
「これくらいあれば足りるだろう?さ、今度こそ真っすぐ帰るんだ」
男はそう言って、少女の手を乗せられた硬貨ごと包むと、少女の手を取り人通りのある広い道まで連れて行った。少女は男に素直に従って男について歩く。そして、人通りがあるのを確認すると、男は少女の背中を押して送り出した。
少女は軽く頭を下げて、サーカステントの方へと走り出した。そして、男の姿が見えなくなるところまで進み、歩みを止めて、自身の手に握られた硬貨を見た。これまで少女が“仕事”で手にしてきた何倍もの金が、そこにはあった。
少女は嬉しそうな笑みを浮かべると、大事そうにそれを再度握りしめ、今度は誰にも声をかけることも、かけられることもないように、一目散にテントを目指した。
サーカステントに戻った少女の稼ぎを見て、団長は大層満足したらしく、しばらく団長の機嫌がよくなった。ついでに、少女への態度も些細な程度ではあったが、柔和になり、少女がしばらく“仕事”に駆り出されることはなかった。
団長の期限がいいことで、他の子どもたちへの折檻も減ったらしく、少女は何度か感謝を伝えられることになったのだった。
終わりは突然にやってきた。
この土地での巡業スケジュールが一通り終わり、明日、別の土地へ移動する前夜のことだ。突然、テント内に大勢の警察と名乗る男たちが押し入ってきて、団長を捕縛し、どこかへ連れて行ってしまったのだ。それは、何の前兆もなく、あっという間に行われ、捕縛された団長自身も何が起こっているのかわからないといった様子で、大人しく連れ去られていった。
取り残された子どもたちは、何が何だかわからないまま、しかる機関の者だというの大人の指示する通りに、この土地で暮らし始めることになってしまった。年端の意かない子どもは教会に、技能を買われた子どもはクリーンなことで有名な劇団などに、そこそこ大きな子どもは街の工房や店に預けられ、そこで働く事となった。
これは少女も例外ではなく、少女が貰われたところは街の小さな酒場だった。朗らかに笑う店主に「看板娘が欲しかったところなんだよ」と言われ、少女はその酒場の看板娘としてホールを駆け回ることになった。他の従業員も少女の事情を知っているのか、少女に気さくに話しかけ、慣れない業務に目を回す少女のサポートを率先して行った。
次第に少女の顔に柔らかな笑みが浮かぶようになり、そこの酒場は『可愛いらしい看板娘がいるらしい』と話題になり、常に客でごった返す人気店になった。
「ケイティちゃん、こんばんは。いつもの一杯いただけるかな」
少女が酒場で働くようになって数年後、店に常連である警官服に身を包んだ男がやってきた。カウンターの席に腰をかけると、ホールを駆け回っている少女に声をかけた。ケイティと呼ばれた少女は「はい!」と元気よく返事をすると、一旦厨房へ姿を消して、すぐにビールのジョッキを片手に男の元へ戻ってきた。
「はい、こちらでいいんですよね?」
「ああ、ケイティちゃんの姿を見てると一日の疲れが吹き飛ぶよ」
「もう、またそんなこと言って」
男はそう言うと少女がテーブルに置いたビールを一気に煽る。男の言葉を軽く受け流した少女は、すぐに他の客に呼ばれて、料理を運んでいく。
「そんなこと言ったって、ケイティはやらんぞ」
去って行く少女の後ろ姿を優しく見つめる男に、店主が声をかける。
「なんだ、ケイティちゃんに声をかけるのにも、父親が口を出してくるのか」
「あったりめぇだ。うちの大事な看板娘をそうやすやすと渡してたまるかってんだ」
「あはは、そりゃ手厳しい」
にやにやと揶揄うような店主に空になったビールのジョッキを手渡すと、すぐに追加のビールが注がれる。少女がこの店にやってきてから毎日通うようになったこの常連を揶揄うこの一連の流れが、この店主と常連の挨拶代わりになっていた。
「可愛いケイティがお前さんに靡かないうちは無理だな」
「くくっ、そう言いながらなんだかんだ容認してくれてるくせに」
「かぁーこれだから。俺はな、ケイティがお前みたいな奴に手を出されないように見張ってんだよ。勘違いすんな」
店主は口ではそういうものの、その表情は柔らかく、口にした言葉が本気ではないことを物語っている。警官であるこの男が信用に足る人物であることを、既に店主は知っているのだ。
「大体な、そういうのはケイティに甘い言葉でもかけて、デートに誘ってから言いやがれってんだ」
「そんなのもうとっくにやってますよ。あぁ、あの時は楽しかったなぁ」
「何だって!?」
店主がカウンターの向こうから大きく身を乗り出して、男に詰め寄る。冗談で口にした言葉に肯定するかのような返事が返ってきたものだから、予想外の流れに驚いてしまったのだろう。口にしなくても、店主の顔に「変な事してないだろうな」という警戒の言葉が浮かんでいるのが読み取れる。
男はそんな店主の様子を見て、声を上げて笑った。
「二人して何楽しそうな話をしてるんですか?」
配膳をし終えた少女が、再び男の元へやってきた。男は自身の隣の空いている席を叩くと、そこに座るように促した。少女がちらりと店主を見れば、店主は「もうあがっていいぞ」とばかりにひらひらと手を振る。
少女は嬉しそうに微笑むと、エプロンを外して、男の隣に素直に腰掛ける。
「ったく」
店主は楽しそうに会話をし始めた二人を見て、そう呟くと、可愛い看板娘のために賄いの用意を始めた。その様子は、どこか楽しそうで、ふたりを見る目は優しかった。
今日はこんなことがあった、あんなことが楽しかったと笑顔で語る少女を見つめながら、男はビールを仰ぐ。少女が男を慕っているのが一目瞭然だった。周りの客もそんな少女の様子をにやにやと楽しそうに眺めている。そこにかつての危うい少女の姿はもうなかった。
男は嬉しそうに笑顔を綻ばせる少女を満足げに眺めている。彼は、彼女の顔に眩しいほどの美しい笑顔が咲き乱れるのをずっと望んでいたのだ。
男が少女の頬に手を伸ばせば、少女は恥ずかしそうに頬を染める。
一見すれば、少女が男に夢中になっているように見えるが、実際はそうではない。
(この子に夢中になっているのは俺の方だ)
目の前の少女に、男はかつての彼女を重ねた。危うくて、繊細で何も映せないような濁った瞳は、今では幸せな色がありありと浮かんでいる。こんな瞳を見てみたい、こんな心からの笑顔を見てみたい、そう思った日のことを思い出す。
あの雨の降る夜、軒下で彼女の瞳を見た瞬間に、彼女に心を奪われた。名前も知らず、引き留めることも叶わなかった。幸せを見せたいと思っていた瞳に、己の姿を強く映したいと思うようになったのはいつからだったか。彼女に俺以外が見えなくなるほど映したいと、そう願ってしまう自分の強欲さがなんだか可笑しかった。
「ケイティ」
そんなことを考えながら口にした、名前を呼ぶ声は自分でも驚く程、ひどく甘かった。