Ⅳ
「ノーヴィス様っ!! ご無事ですかっ!?」
メリッサが踏み込んだ『穢れの塔』の中は、レンシア通りで暴れていた影とは比較にならないほど濃い闇で満たされていた。きちんと手順を踏んで形成した氷結魔法を全力で打ち込んだおかげで今は影の増殖が止まっているが、恐らくこの時間稼ぎは数分も持たないだろう。
塔の上部に設けられた扉から中に飛び込んだメリッサは、氷結させた影を足場にノーヴィスの元まで駆け降る。そんなメリッサをノーヴィスは茫然とした顔で見つめていた。
──ひどい。
夢で見た通り、ノーヴィスは酷いありさまだった。
ヨレヨレのシャツは闇にまだらに染められ、素足の足首は枷が擦れて赤く腫れている。手枷がはめられた腕を持ち上げる力がもうないのか、両腕は体の前でブラブラと力なく揺れていた。
「今すぐ外します。もうしばらくお待ちください」
メリッサは手にしていた銀の鍵束の中から一本を選び取り、枷の鍵の部分に向ける。たったそれだけでノーヴィスを縛めていた枷はあっけなく外れた。
その光景をぼんやりと眺めていたノーヴィスがボソリと言葉を落とす。
「それは……」
「父から受け継いだ、魔法道具です」
足枷も手早く外したメリッサは、鍵束をしっかりとコルセットベルトに繋いだ。
「かざせばどんな鍵でも開けてくれる鍵、かざせばどんな鍵でも閉めてくれる鍵、かざせば望んだ先へ通路を繋げてくれる鍵の三本セットです。この塔の鍵もこの鍵で開けました」
父が魔法を使っているところを、メリッサは見たことがない。かつての父は優秀な魔法使いであったという話だが、メリッサが魔法学院に通い出した頃にはもう父は魔法が使えなくなっていた。魔力の枯渇と持病の悪化が原因だったと聞いている。
そんな父が魔法学院入学の祝いとしてメリッサに譲ってくれたのが、この鍵束と、どんな魔法も無効化してくれる短剣……今、メリッサの後ろ腰に装着されている短剣だった。
「王宮へはエレノアさんが連れてきてくださいました。ハンスメイカーの名前と、お客様のコネを全部使ってくださって」
『ノーヴィス・サンジェルマンは、王宮の「穢れの塔」に入れられている』
あの時、エドワードは短剣を手に迫るメリッサにそう言った。
『こうなるように仕向けたのはカサブランカを筆頭とする第二王子派の人間だ。第二王子自身もこの作戦には積極的に協力している。カサブランカ夫人に自分の魔法道具を渡して、ノーヴィス・サンジェルマンの屋敷に置いてくるように指示を出したのも、第二王子自身らしい』
ノーヴィスを迎えに行く。
そう心に決めたメリッサは、まず手始めにエドワードを襲撃した。
エドワードがこの計画に巻き込まれたのは、恐らくカサブランカの家に入ってからだ。メリッサが知っているエドワードは、権力への憧憬と執着はあるが、カサブランカの家に対する忠誠も義理も情も持ち合わせていない。
ただただ権力と居場所を欲しているだけで根は小心者であるエドワードにとって、王権争いの一端を担うなど荷が重すぎる。決して自分から積極的に関わってはいないだろうし、できることなら逃げ出したいと考えているはずだとメリッサは読んだ。
エドワードに接触するならば、彼がカサブランカの家から外に出ている時がいい。
幸いエドワードはメリッサのように結婚を理由に魔法学院を退学するようなことはなかったから、エドワードが送迎の馬車に乗っている間が絶好のポイントだった。だからメリッサはエドワードの馬車が通るだろう場所で張り込み、タイミングを計って魔法の鍵で馬車の中に侵入したのである。
──思っていたよりもエドワードが渦中の中心にいてくれたおかげで助かりました。
メリッサの読み通り、自分が置かれた状況から逃げ出したい一心だったエドワードはあっさり持っている情報を吐いた。カサブランカが積極的に王権争いに関わっていたとは驚きだったが、今はそんなことはどうでもいい。
ノーヴィスは、王宮にある『穢れの塔』の中にいる。
その情報を掴んだメリッサが次に向かった先は、エレノアの城である仕立屋『カメリア』だった。
『任せなさい! すぐに連れていってあげるから!』
ノーヴィスを連れ戻すために王宮の『穢れの塔』に行きたい。
メリッサがそう切り出すと、エレノアは余計なことは一切訊かずに一台の馬車を手配してくれた。ハンスメイカーの家紋が刻まれた馬車は、エレノアの顧客であるハンスメイカー現当主……エレノアの甥が用意してくれたものだった。
『この馬車に乗れば、議場がある建物の玄関前まで、中を改められることなく入ることができるわ。他にもルノちゃんがスムーズに潜入できるように、色々手を回しておいてあげる。だからその先はルノちゃん、アナタの実力で突破して』
王宮の地図を握らされ、馬車に押し込められたメリッサは、その馬車で王宮まで乗り付け、エレノアの息がかかった各所の門番達のお目こぼしに助けられながら、王宮への潜入に成功した。門さえ突破できれば、あとはメリッサでも何とかなる。馬車を降りたメリッサは日が暮れるまで王宮内に身をひそめ、好機を待った。
そして周囲が闇に沈んだ頃を見計らい、夜色のガウンコートで闇に溶け込んで人目を忍びながら王宮の最奥……もはや外れと言ってもいい場所にある『穢れの塔』の外階段を地道に登りここへやってきたのである。
「お迎え上がりました、ノーヴィス様。お屋敷に帰りましょう」
メリッサは両手を伸ばすとノーヴィスの手を取った。力なく垂らされたノーヴィスの手は、メリッサが操る氷に負けず劣らず冷え切っている。
「今度こそ、何があっても私がノーヴィス様をお守りいたします。敵がカサブランカを始めとした第二王子一派であることが分かった今、私はもう油断はいたしません」
ノーヴィスの手を、メリッサはギュッと握りしめる。その熱が伝わったのか、ノーヴィスの瞳に光が戻った。
だがノーヴィスは口元に淡く笑みを浮かべると、スルリとメリッサの手の中から己の手を引き抜いてしまう。
「ノーヴィス様?」
「ごめん、ルノ。僕、行けないよ」
「! なぜ……っ!?」
「まだ仕事が終わってないんだ」
メリッサは愕然としながらノーヴィスを見上げる。そんなノーヴィスの背後でユラリと影がうごめいた。
「ごめんね。これ、僕の仕事なんだ」
ノーヴィスは屋敷にいる時と変わらない柔らかい笑みをメリッサに向ける。だがそこに宿る感情は、今までメリッサが見てきた笑みとはベクトルが全く違っていた。
「終わったら、絶対に帰るから。……だから、ルノはまだ、お留守番してて」
全てを諦めた、絶望にも似た笑顔。
白銀の髪と黄金の瞳をさらしたノーヴィスは、乾いてひび割れた笑みをメリッサに向けていた。
「……っ!!」
そんなノーヴィスの笑みに、胸の奥の深い場所がズキリと痛んだ。
その衝撃が呑み込めず、メリッサは掠れた声を上げる。
「それは、いつなのですか?」
以前の自分ならば、どんなに理不尽なことを言われても胸が痛むことなんてなかった。どれだけ凄惨な場面に居合わせようとも、その凄惨さに自身が巻き込まれていようとも、一切何も感じずにいられる自信があった。
だけど、今は。
「もう、一週間、待ちました。でも、ノーヴィス様は、帰っていらっしゃいませんでした。すぐに帰るって、あの時言ったのに」
自分の心を言葉にすることに意味があるのだと知った。知ったらもう、無関心ではいられなかった。
だってメリッサの心を知りたいと言ってくれる人がいたから。
嬉しいと声を上げると、届くと知った。その声に返ってくる言葉の熱が、自分の胸を心地良く温めてくれることを知った。
だから今は同じように、違う感情を叫びたい。
「どうして、帰ってきてくださらないのですかっ!?」
悲しいと。
寂しいと。
こんなのはもう、嫌なのだと。
「いつまであのお屋敷に独りでいれば良いのですかっ!? 死んでしまったお屋敷の中で、いつまで待っていれば良いのですかっ!? いつまで待ったら、また名前を呼んでいただけるようになるのですかっ!?」
真っ直ぐにノーヴィスを見上げた視界がユラリと揺らいだ。一瞬晴れたと思ったのに視界はすぐにまたぼやけてしまう。自分の頬を何か熱い物が伝って落ちていくのが分かったが、気にしていられる余裕はどこにもない。
「どうしてこれがノーヴィス様一人の仕事になるのですかっ!? どうしてこんなに大変なことを、ノーヴィス様が独りで引き受けなければならないのですかっ!? 引き受けるなら引き受けるで、なぜもっと待遇を良くしてもらえないのですかっ!? こんなっ、こんな……っ!!」
言葉が続いてくれない。息が苦しい。
呼吸を整えて、魔力回路も整えて、うごめく影を少しでも長く抑えていなければならないと分かっているはずなのに、全然思う通りにならない。
「私はこんなの嫌ですっ!! ノーヴィス様に酷いことをする、こんなの……っ!!」
「……ルノ」
不意に、メリッサの視界がふさがれた。
一瞬、影が抑えきれなくなって暴発したのかと思ったが、違う。柔らかい熱をともなった闇は、ノーヴィスの腕の中に抱き込まれたために生まれたものだ。
「それでも、僕がやらなきゃ。僕がやらなきゃ、ルノ達が生きる世界が壊れちゃう」
「っ! だったら! そんな世界、壊れてしまえばいいっ!!」
優しい闇に包まれることを、メリッサは良しとはしなかった。
メリッサは衝動的にノーヴィスを突き飛ばす。自分から突き飛ばした上で、自分の手を伸ばしてノーヴィスの胸倉を掴んで、自分の元へ引き寄せた。さすがにノーヴィスもメリッサがこんな荒っぽいことをするとは思っていなかったのだろう。黄金の瞳が丸く見開かれる。
「たった一人に依存しなければ成立しない世界なんて、最初から破綻が見えていますっ! そんな世界さっさと壊して、世界ごと作り替えた方がまだマシですっ!!」
その瞳を真正面から覗き込み、メリッサは挑むようにノーヴィスに言葉を叩き付けた。
「私には世界だとかなんだとかそんな漠然とした大きな物よりも……っ!!」
無茶苦茶なことを言っているな、という自覚はあった。
だけどもう、走り始めた気持ちは止まらない。
「ノーヴィス様がいる、あのお屋敷での生活の方が大切で、あのお屋敷が私にとって世界の全てですっ!!」
王権争いも、国も、世界も、どうでもいい。
柔らかな日差しの下にノーヴィスがいて、柔らかく笑って『ルノ』と名前を呼んでくれれば、メリッサは世界が滅んだって気にしない。
──なんてワガママで、凶暴な願い。
メリッサは今、心の底からはっきりと、世界よりも自分とノーヴィスの平和でささやかな日常を選んだ。
こんな凶暴な願いを自分が抱く日が来るなんて、思ってもいなかった。何を望むこともないと、諦めきって生きてきたのに。
「ノーヴィス様が捨て切れないというのであれば、私が強制的に捨てさせますっ!! 私が、ノーヴィス様を縛る世界を終わらせますっ!!」
そんな自分が今、世界を終わらせてでも、ノーヴィスを連れて帰ると叫んでいる。
「……なんってこと言うのさ、ルノ」
そんなメリッサにノーヴィスが返したのは、あまりにもいつもと変わらない、柔らかな笑みだった。
いや、ずっとノーヴィスの瞳を真正面から見据えていたメリッサには分かる。
その黄金の瞳が、ハチミツのように甘くとろけたことが。
「そっか、いらないか。こんな世界、いらないって言ってくれるんだ」
笑みとともに言葉を紡ぐノーヴィスの声音は、感情を含んで潤んでいた。さっきまで乾き切ってひび割れていたのが嘘であるかのように。
「ルノ。……君は本当に、黎明のように美しい」
その声にメリッサは息を詰めてノーヴィスを見上げた。メリッサの涙を丸めた指の背で払ってくれたノーヴィスは、そんなメリッサに笑いかけるとそっと瞳を閉じる。
「僕にとって君は、新しい世界を導いてくれる、黎明なんだ」
祈るように瞳を閉じたノーヴィスは、そっとメリッサの額に己の額を預けた。コツンと伝わる衝撃に、メリッサも思わず瞼を閉じる。
「ルノ。僕の黎明。……君が世界よりも僕を望んでくれるのならば、どうか僕の名前を呼んで」
視界が閉ざされた分、ノーヴィスの声はより深くメリッサの意識に溶けていく。
心地よく、柔らかく、甘く。
「僕の、本当の名前はね……」
その声でノーヴィスは、何よりも大切な名前を教えてくれた。
「ルイス、様?」