Ⅱ
揺れが少ない馬車の乗り心地は快適であるはずなのに、エドワードの気分は優れなかった。
この馬車はエドワードが乗り慣れたディーデリヒ家の馬車ではない。カサブランカ家の馬車だ。そしてそのまま、エドワードが入れられた檻を表している。
不意に、あの恐ろしい屋敷で向けられた言葉を思い出した。
『それでも、貴方は気になさらないのでしょう? 貴方はあくまで「カサブランカ侯爵」になりたかった。ただそれだけなのだから』
「……」
そうだ。自分は『カサブランカ侯爵』になりたかった。
次男に生まれた自分は、己でチャンスを掴まなければ一生を日陰で過ごすことになる。そんな自分の前に絶好のチャンスが転がっていたのだ。何が何でもしがみつきたいと思うのは当然のことではないか。
自分ならやれると思っていた。
整った顔立ちと、魔力の高さを示す金髪。魔法学院での成績だって悪くはなかった。現に次にカサブランカの家を継ぐだろうマリアンヌはエドワードに夢中になったし、今カサブランカの実権を握っているカサブランカ侯爵夫人もエドワードのことを気に入っている。
このまますんなりと事が進めば、全てが安泰だと思っていた。『メリッサを家から出したから、結婚よりも前にカサブランカの家に入り、当主見習いとして早めに仕事を覚える気はないか』と打診された時は、思わず高笑いが止まらなくなったくらいだ。
だと、いうのに。
「この程度の遣いもまともにこなせないの? エドワード」
満を持して乗り込んだカサブランカの屋敷でエドワードを待っていたのは、今までの『お客様対応』の下に隠されていたカサブランカの本性だった。
「あなたにはガッカリだわ。まだメリッサの方が役に立った。……次はないわよ。わたくしをこれ以上失望させないでちょうだい」
エドワードを屋敷に囲ったカサブランカ夫人は、自身が加担している企みごとにエドワードを引き込んだ。場合によってはいつでも切り捨てることができる捨て駒として。
「あなたは将来、マリアンヌの隣に立とうという人間。カサブランカの未来のため、働くのは当然のことでしょう?」
この国では今、王と、皇太子と、第二王子が王権を争っている。
現状王権を握っている保守派の王。貴族優位な国政を変えようとしている改革派の皇太子。そして国外貴族と手を結んで国をひっくり返そうとしている第二王子。
カサブランカ夫人が加担しているのは、よりにもよってこの第二王子だった。
国政に疎いエドワードにだって、第二王子派が乗っているのは泥の船だということは分かる。だがカサブランカ夫人を始めとした第二王子派は誰も国の未来など考えてはいない。第二王子とその背後についた国外貴族が提示している目先の利益に目がくらんでいるだけだ。
「言っておきますけれど、あなたのお父上は、わたくしの同士ですよ」
一瞬、父に助けを求められないかと考えた。だがそんなエドワードの甘い考えは夫人の一言によって打ち砕かれた。
──俺は、売られたんだ。
父も、カサブランカ夫人も、最初からエドワードを捨て駒として使うつもりだったのだ。だからエドワードのカサブランカ入りを早めた。このタイミングで『身内』という、絶対にカサブランカを裏切ることができない捨て駒を作り上げるために。
──どうして俺が巻き込まれなきゃならなかったんだ。捨て駒にするならメリッサで十分だっただろ……!
マリアンヌは謀には向いていない。母に溺愛され、蝶よ花よと育てられたマリアンヌは、頭の中までお花畑だ。話は通じないし、そもそも根が母親に似て傲慢で、こちらの話なんて最初から聞くつもりがない。エドワードのことを『己に仕える者』として一段下に見ている風情さえある。
メリッサや屋敷の者は『マリアンヌは魔法使いとしてとても優秀だ』と褒めそやかしていたが、その魔法だってお粗末なものだ。魔法学院に通っているエドワードの目には、マリアンヌの魔法が幼児のお遊び程度の物だと理解できてしまう。所詮母娘ともども井の中の蛙だ。
──メリッサは、本物だった。
だから今更ながら、エドワードはメリッサが理解できなくなっていた。
『カサブランカの不出来な黒』と呼ばれ、蔑まれていたメリッサ。皆がそう扱うから、それが普通なのだろうとエドワードは思っていたし、自身もメリッサを『自分よりも劣る者』として扱ってきた。
だが、外の世界を知っているエドワードは、気付いていた。本当は知っていて、己の立場を守るために、知らないフリをし続けてきた。
そんな己の脳裏に過ぎるのは、今日も学院で浴びせられてきた言葉達だった。
「ミスター・ディーデリヒ、ミス・カサブランカの嫁ぎ先を知りませんか。何とか当人に連絡を取りたいのですが……」
「ああ、こんなことになるならば、カサブランカの家を恐れず、学院で身元を引き受けるべきだった」
「知ってたか? 学院長がミス・カサブランカを養子に引き取りたいと根回しをしていたこと」
「他にも引き取り手として手を挙げていたところはあったんだろう?」
「カサブランカ侯爵夫人の圧力で評価を不当に曲げなければならなかったが、あの実力は隠せたものではなかったからな」
「いや、あの優秀さを他に知られなくなかったから、皆が揃ってカサブランカ侯爵夫人の言いなりになっていたんじゃないのか」
「彼女の優秀さを秘匿し、自分の手元にひっそりと囲いたがっていた人間は多かったからな……」
誰も彼も、エドワードに声をかけていながらエドワードのことなど見ていなかった。彼らはエドワードの先に、己の手から取りこぼした才能の原石を見ている。
従順で、御しやすく、不当な扱いを当たり前のものと受け入れ疑いもしない。
大変囲いやすい、それでいてずば抜けて優秀。尽くすこと、搾取されることを当たり前のこととして生きてきた、不幸な娘。
『カサブランカの不出来な黒』
その不当なレッテルの下、絞り尽くされるまで絞り尽くされて最後には実家を追い出された、近年稀に見るレベルで優秀な魔法使い。
メリッサ・カサブランカ。
それが世間で言われている、メリッサの本当の姿だ。
──どうしてお前、この家で本気出してなかったんだよ!
きっとあの家の中で、エドワードだけが知っている。
メリッサが母や妹の前で、一度たりとも本気でその実力を振るったことがないということを。メリッサが本気になりさえすれば、メリッサを虐げ続けてきたあの家の住人は瞬きひとつの間に消し飛ばされるということを。
──お前ができるヤツだって証明してれば、俺がこんな目に遭うことだってなかったのに……っ!
魔法学院に在籍している者ならば、本当は誰だってそのことを知っている。知っていて誰もが、しがらみや己の利権の関係で彼女の真価を喧伝しなかった。
侯爵家の長姫という高い身分が邪魔をして、各魔法機関がスカウトの手をこまねいていた。
貴族関係者はカサブランカの家が怖くて、下手に声を掛けられなかった。
学院は彼女を囲いたがっていたが、いくつもの手が裏から密かに回されていて、互いが互いを邪魔している間に彼女はどの手もすり抜けて落ちていった。
その内の誰かが、純粋でさえあれば。彼女のことだけを思い、思惑を排除して純粋な善意の下に彼女に手を差し伸べてさえいれば。
彼女は稀代の魔法使いとして、ゆくゆくは歴史に名を残す存在になっていただろう。
それを、みんなみんな、知っていた。
知らなかったのはカサブランカの関係者だけだ。小さな箱に物事を押し込め、自分たちの尺度で都合のいいモノしか見ていなかったから、彼らは気付けなかった。
メリッサ自身も価値観に枷をはめられて『己は不出来である』と信じ込まされていた。だからメリッサ当人さえもが己の才に気付いていない。母からの言葉が強すぎて、他から掛けられる言葉をメリッサ自身が拒否していた。
蓋を開けてみれば、たったそれだけのこと。
優秀な手駒を誰よりも欲していたはずであるカサブランカ夫人でさえ、『カサブランカの金』という価値観に囚われて、メリッサの有能さを最初から見ていなかった。
──何でお前はこんな状況を我慢できた? なぜ変えようとしなかった? なぜ……!
無能な人間どもに虐げられ、搾取され、最後には『幽鬼の屋敷』などと呼ばれている屋敷に自らを放り込みに行かされたメリッサ。恐らくメリッサはそんな扱いを不満に思うこともなく、最後の命令にさえただいつものように無表情のまま『承知いたしました』とだけ答えたのだろう。
同じ立場に立たされた今、ようやくエドワードはそんな彼女を疑問に思う。
「なぜ……!」
「それは、何に対する疑問でしょうか?」
「っ!?」
不意に、しんと冷えた声がすぐ目の前から聞こえた。
バッとエドワードは顔を上げる。だがエドワードが相手の顔を確かめるよりも、首筋にヒヤリと冷たい感触が走る方が早かった。
互いの鼻先が触れそうなほど間近に、光を弾く漆黒の瞳がある。
「お静かに。騒いだところで馬車は止まりません」
「メリッサ!?」
エドワードの前に突如現れたのは、間違いなくメリッサだった。
いつでもどこでもダサい魔法学院の制服に身を包んでいたはずである彼女は今、全身を隠すように暗色のローブを纏っていた。フワリと広がる布地は極上のもので、中に着ているシャツも、下に合わせたフレアスカートも、腕のある仕立て屋が手間をかけて仕立てた一級品であることが見ただけで分かる。着道楽で鳴らすエドワードの父だってここまで良い服はそうそう持っていないはずだ。
──そういえばあの屋敷で顔を合わせた時は、もうすでにこの格好だった。
あのカサブランカ侯爵夫人が、嫁入りとはいえメリッサにこんなにいい服を与えるとは思えない。ならばこの衣類一式は、結婚相手であるあのお化け屋敷の主が与えたというのだろうか。
「お前、どうやって……っ!!」
だが今考えるべきはそこじゃない。
本物の……大切に育てられたお嬢様であるかのように高級衣料に身を包んだメリッサは、それらには似つかない短剣をエドワードの喉元に据えている。
この馬車の中にいたのはエドワードだけで、馬車はずっと走り続けていた。馬車が止まったりドアが開けられていたら、エドワードだって気付いたはずだ。
「私にかかればこれくらいのこと、どうということはございません。……ご存知でしょうに」
メリッサの声はしんと冷えていた。その声に、エドワードはブルリと震えあがる。
確かに、以前もあった。エドワードがマリアンヌに乗り換えた直後、一度浮気を疑われて、メリッサに徹底的に身辺を洗われた時のことだ。
あの時も、自分はこんな風に魔法学院の帰りをメリッサに襲撃された。あの時は『行き過ぎた! いくら妹のためとはいえ、お前に倫理観やらデリカシーという言葉はないのか!!』とエドワードが怒って事は終わった。後にメリッサがエドワードのひと月分の行動を一分単位で明確に調べ上げていたことが分かり、さらに怒りが募ると同時に強い恐怖を覚えたことを覚えている。
──その時と状況は同じで……でも、至った経緯が全く違う。
だからこそエドワードは、あの時以上の恐怖に歯の根を鳴らしている。
あの時は完全な冤罪だった。だが今のエドワードには、明確な罪がある。そのことを、メリッサは知っている。
その証拠に、エドワードの首筋に白銀の短剣をあてがったメリッサは、チャキッと微かに刃を鳴らした。
「知っていることを、端的に、全て話してください。ノーヴィス様は今、どこにいらっしゃるのですか?」
プツリ、と首筋の皮が裂けたのが分かった。その感触はメリッサの手にも伝わっているはずなのに、エドワードの目の前にある漆黒の瞳は一切揺らがない。
「素直に話していただけたならば、この馬車を貴方が望む先へ、向けて差し上げましょう」
喉が勝手にゴクリと揺れたのが分かった。
メリッサの戦闘における技量がいかほどのものなのか、幼馴染として一緒に訓練を受けていたエドワードは嫌になるほど知っている。武器を取って戦っても、魔法を使って戦っても、エドワードではメリッサに勝てない。
だがエドワードが喉を鳴らしたのは、そのことに対する恐怖からではなく、メリッサの言葉の中に一条の光が見えたからだった。
「俺が、……望む先って」
カサブランカの家から逃げ出したい。だがディーデリヒの家には戻れない。
そんなエドワードが何を求めているのか、メリッサは分かるというのだろうか。それだけのことを手配できるだけの力が、メリッサにはあるというのだろうか。
「カサブランカとディーデリヒ、両方の手が届かない場所への逃走がお望みだというならば、手配させていただきます」
エドワードの心の迷いに、スルリとメリッサの声は滑り込む。
──メリッサになら……できるのか?
唇が震える。甘い甘い誘惑に、エドワードの心は耐え切れない。
そもそもエドワードは権力と居場所を欲していただけで、カサブランカにもディーデリヒにも忠誠などないのだから。
「の、ノーヴィス・サンジェルマンの連行先は……」
馬車の車輪が響かせる音に紛れ込ませるようにエドワードは己が知っている情報を口にする。
その声を、メリッサは一切表情がない顔で聞いていた。