Ⅰ
「結婚……って」
結婚相手である私に、迎えの馬車はおろか出迎えさえ用意しなかった男は、ボサボサな黒髪の下でラピスラズリの瞳をシパシパさせながら口を開いた。
「聞いてない、ん……だけど……?」
「……え?」
人生は山あり谷ありと言うけれど、これはちょっと並の人生ではお目にかかれない山、もしくは谷なのではないだろうか。
私は鉄壁と言われる無表情の下で、そんなことを考えていた。
※ ※ ※
「メリッサ、お前には、結婚して当家を出ていってもらいます」
珍しく一家が揃った朝食の席で、その言葉は唐突に降ってきた。
「お相手は……えっと、あなた」
美麗な顔立ちに似合いの高飛車な口調で切り出した母が、隣に座った父を視線で小突く。
ただの視線に物理的な力なんてあるはずがないのに、母に睨まれた父は実際に叩かれたかのように小さく咳き込んでから声を上げた。
「ノーヴィス・サンジェルマン。あまり社交界では有名な方ではないが、伯爵位を持っておられる、立派な方だよ」
「お父様が見つけてくださった方よ。お前も文句はないでしょう?」
父を視線で小突いた母は、次いでメリッサに視線を向けた。エメラルドの瞳に宿る険は父に向けられた時よりも何倍も鋭い。小突く、などという生易しいものではない。『殴る』や『叩く』といった表現こそふさわしい、蔑みが込められた目だ。
──お父様が朝食の席にいらっしゃった時点で、何かあるとは思っていましたが……
いつも通りの母の視線を、こちらもいつも通りの無表情で受け止め、メリッサはしばし考えを巡らせる。
──さすがに『結婚』は想定外でしたね。
「お前なんかを快くもらってくださる奇特な方が見つかって良かったわ。こんな不出来で変人なお前を」
「お姉様、ご結婚なされるんですの?」
メリッサが考えを巡らせている間も、母は刺々しい言葉を重ねてくるし、状況把握がイマイチ遅い妹は母と揃いの瞳を輝かせ、母と同じ金の髪を揺らしながらおっとりと両手を合わせる。
「おめでとうございます、お姉様」
「メリッサが出ていったら部屋が空くから、エドワードに住んでもらいましょうね。先方ともそのようにお話がついていますから」
「まぁっ!」
妹のマリアンヌは母の口から出てきた婚約者の名前に頬を染めた。恐らくもう、『姉の結婚』という話は『婚約者が結婚式よりも早く同居する』という話に塗りつぶされて頭の片隅にも残っていないだろう。
当事者であるメリッサはまだ何ひとつとして言葉を発していないのに、話はすでに決まった物として一行の間を流れ過ぎていく。
実際問題、母にはメリッサの意思も言葉も関係ないのだろう。いや、強いて言うならば『鬱陶しいもの』ではあるのだろうが。
メリッサは食べかけだった半熟の目玉焼きがドロリと喉を通っていくのを感じながら父を見つめた。母と妹が当事者そっちのけで盛り上がる中、唯一メリッサを真っ直ぐに見つめた父と視線が絡まる。
メリッサと同じ漆黒の髪と瞳を持つ父は、控えめで穏やかな性格と相まっていつも華やかな母に付き従う影のような印象を受ける。その影の中に常に憂いがあるように感じられるのは、何も父の体が病に侵されていることだけが理由ではないのだろう。
今日も雨に濡れたような悲しみと諦めを湛えた瞳でメリッサを見つめた父は、メリッサと視線が絡んだことを覚るとわずかに首を横に振る。
『何も言うな。何を言っても悪いようにしかならない。全てを飲み込んで、堪えなさい』
それが父の口癖で、それがいつでも父からの答えだった。
だからメリッサは、半熟の目玉焼きと一緒にすべての言葉を飲み込んで、小さく父に頷き返す。
──大丈夫よ、お父様。お父様が見つけてきてくださった相手ならば、まだマシだと信じられるから。
入り婿である父は母に逆らえない。だけど父は母と違ってメリッサのことを愛してくれた。
表立って庇えなくても、精一杯メリッサを支えてきてくれたことを、メリッサはきちんと知っている。カサブランカ家の中で『不出来な黒』と蔑まれてきたメリッサを『魔法学院入学』という名目で外に解き放ってくれたのは、何を隠そう父であるのだから。
──でも、そんなお父様の優しさに甘えていられる日々も、もうおしまい。
「お話、承りました」
一度ゆっくり瞬きをして、胸の内に湧き上がった言葉を全て心の奥底に沈める。
何も思わない。何も願わない。
一度感覚を身に付ければ、それはとても簡単なこと。
「いつ、出ていけば良いのでしょうか?」
無表情のまま母に問えば、母は美しい顔を醜く歪めて吐き捨てるように言い返した。
「今日中には出ていってちょうだい」
「荷物の用意や、嫁入り道具の準備は……」
「つべこべうるさいわよっ!! 今日中と言ったら今日中よっ!!」
「マリアンヌの護衛の引継ぎや、魔法学院の手続きなどは」
「わたくしに口答えするのっ!? 今日と言ったら今日っ!! 物分かりが悪いわねお前はっ!!」
「……失礼致しました」
それでもやはり母との会話は、いつも通り上手くいかない。自分ではこれ以上の対処法が思いつかないし、母以外との会話ではここまで叱責を受けるほど酷い受け答えにはならないのだが。
──血が繋がった母娘なのに、どうしてここまで上手くいかないのでしょうか。
せめて結婚相手となった人物は、こちらの意図察知能力の低さに寛容な性格であれば良いのだが。
そんなことを願いながら、メリッサは今しがた名前だけを伝えられた結婚相手の元へ嫁ぐべく、朝食を早めに切り上げると自室へ取って返したのだった。