見えない刺客(2)
これは実話をもとにした物語であり、
公式記録、専門家の分析、関係者の証言を参考に構成しています。
その日、クロススペイシア333便はコロラド星系から彼らの本拠地であるスワデジ星系へと戻る定期航路を航宙していました。
「何度来ても飽きることがないな、この星系は」
「ええ、広い宇宙をこれほど縦横に船が駆け巡る星系なんてめったにないですよ」
機長と副機長は合計2万時間の航宙時間をもつ、ベテランパイロット。機関士もクロススペイシア入社から10年の、ベテランエンジニアです。
彼らが操縦する333便は64名の乗客を乗せ、近隣星系で最も発展している星系であるコロラド星系内のゲートに向かい、スーパークルーズをしていました。
機長が言うようにコロラド星系は宇宙船の航宙量も多く、ゲートや惑星、ステーションへと向かう複数の宇宙船の軌跡が彼らの船から肉眼で見る事もできました。当然、地方の星系のように自由気ままな航宙ができるはずもなく、星系内の定期宇宙船航路には隅々まで管制区域が設けられており、彼らは担当する管制の指示に従いながら航宙します。
『CRS333、こちらパラボラ管制、周波P234に変えてクアルタ管制と通信してください』
『了解。周波P234に変えます』『クアルタ管制、こちらCRS333、現在54航路を航宙中です』
『CRS333、こちらクアルタ管制、あなたをレーダーで捉えました。そのまま進んでください』
『CRS333、了解』
「いつの日かスワデジもこう堅苦しくなるのかね」
「私たちの孫の世代にはそうなっているかもしれませんよ」
「悲しい話だ」
コックピット内は和やかな空気が流れ、クルー達は緊張感を保ちつつも落ち着いた状態でいました。コロラド星系の定期航路は自由こそないものの、その安全性は他の星系とは比べ物にならないからです。
ここでは突発的な宇宙気象にクルー独力で対処する必要もありませんし、無頼な星間海賊が襲撃してくることもありません。スワデジ星系へと至る長距離航宙を数えきれなくこなしてきた彼らにはそのありがたみを十分に理解していました。
いつもどおりの航宙がこの日も始まったばかりでした。
「パワー、チェック。速度、チェック、エリアセーフティ、チェック。HSJ前チェックリスト完了」
「了解、HSJを開始する。機関士はエンジンの注視」
「了解」
機長の号令により、重力波エンジンの出力を最大にした333便はゲート周辺の時空を歪ませHSJを開始します。物理距離にして何百光年という距離のあるスコシア星系のゲートまで一瞬で移動する、最新鋭の人類の叡智です。人類はこの移動手段を手にすることで、過去には想像もできなかった距離を自由に行き来することができるようになりました。
ただし、最新鋭の技術はまた技術体系としての未熟性をも意味します。その運用、安全性の確保には細心の注意を払う必要があります。
「HSJ開始。………成功しました」
「了解。チェック頼む」
「重力波エンジン確認。出力、温度、指向性、異常なし。エネルギー炉確認。出力、温度、異常なし」
「速度、異常なし。座標確認、…………スコシア星系24ゲート、確認」
高度にして繊細な技術力の結晶であるHSJの直前直後には必ず宇宙船内のチェックが行われます。長期航路を航宙する宇宙船においては複数のゲートを経由しHSJをすることとなるため、一度の航宙で何度もチェックを行うことも珍しくはありません。コロラド星系から幾つかの星系を中継し、スコシア星系へと辿り着いた333便でもこの日何度目かとなるHSJ後のチェックを行っていました。
「HSJ後チェック完了」
「了解。それでは次のゲートまで行くとしよう」
――ピーピー!ピーピー!――
「なんだ!?」
航宙マニュアルに定められたチェックを終え一息ついたところで、コックピット内にある船内機器のモニタリング装置が異常を知らせる警報を鳴らしました。
すぐに副機長が警報の詳細を特定すべく、機材を操作します。
「電気室の配電盤の一部で異常電流を検知。恐らくショートです」
「場所は」
「外縁部用の空調装置です」
「電流遮断」
「了解、電流遮断します」
機長は副機長からの報告に素早く判断を下します。
火災やハイジャック、外殻部の損傷といった危険と隣り合わせの宇宙船は、二重以上の構造とすることが義務付けられており、特に旅客船においては内縁部にある客室と、それ以外の外縁部分を独立した構造とすることが義務付けられています。つまり、客室にて火災等の事故が発生した場合にはコックピット等を有する外縁部まで機能不全となることを防ぎ、またコックピット等を有する外縁部が機能不全を起こした場合には客室がシェルターとなる構造となっているのです。
空調装置や酸素発生装置などについても外縁部と内縁部では独立しているため、今回の措置では外縁部の空調装置のみが停止することになります。
「配電盤か……」
「確認してきましょうか」
機関士は故障個所の確認と、可能であれば応急処置をする旨提案しますが機長は悩みます。
電流の遮断により電気火災の危険性はほとんどなくなりましたし、空調機能の停止もそこまで重大な問題とは思えなかったからです。スワデジ星系に戻てから担当の整備士に報告するだけで済むような問題に、3人しかいないクルーのうちの1人を航宙中に拘束するというのはあまりよい選択肢には思えませんでした。
「そこまではいいだろう。他の問題はないんだよな、副機長」
「はい、異常電流は解消されました。他の電気系統でトラブルは起こっていません」
「じゃあいいだろう。報告書を提出することは覚えておいてくれ」
「了解しました」
機長は機関士に対して通常業務を続けることを命じます。機関士には機関士としての業務が多数あり、決して暇な役職というわけではなかったからです。
この時電気室では、僅かな時間生じていた配電盤でのショートによるごく小規模な火災が発生していました。配電盤の電流回路の被膜が一部不十分であったためショートを起こし、そこで生じた放電に伴う火花が付近の電流ケーブルの外側被膜に引火したのです。
難燃材料で構成された外側被膜は、一定以上の高温の熱源が付近にあると引火しますが、熱源から離れれば自動的に鎮火します。そのため配電盤付近のケーブルが集中した部分では炎が広がりましたが、周囲に拡散しだすと途端に火の勢いは弱まりました。このように被害は最小限度化され、航宙の安全は保たれると機長はもとより航宙業界の人間は考えていました。
引火から5分後。
火の勢いは弱まりましたが、それでも燃焼は続きます。すでに着火している被膜は未だ燃え続けており、中途半端に燃焼温度が低下したことにより燃焼しきれなかった成分が煤や有毒ガスといった形で電気室内に排出されだします。
それは火の勢いが弱まれば弱まるほど勢いを増し、まるで生木を燃料とした焚火のように、燃焼量からは想像できない量のガスを生み出し続けました。
引火から15分後。
火はほとんど見えなくなりましたが、くすぶり続ける焚火のように相変わらず煤とガスは吐き出され続けます。電気室内に充満していた有毒ガスは換気ダクトを伝い、コックピットへも侵入しました。無色・無臭のガスの侵入にコックピット内の人間は誰も気づきません。
引火から30分後。
コックピット内に進入した有毒ガスは人間に対し牙を剥きました。
「機長、なにか、なにか息苦しくありませんか」
「んん……?ああ、んん……たしかにそうだな。何かおかしい」
数分前から感じる息苦しさに副機長が違和感を伝えると、機長は明らかに呂律の回らない口調となっています。機長も自身の思考能力の明らかな鈍りに気づきます。
そのとき、後方の機関士座席から鈍い物音がしました。そちらに目を向けると、機関士が座席から倒れるようにして床に横倒しになっています。明らかな異常なのですが、機長はその事象が異常であると脳がなかなか判断しません。
そしてそのまま機長は目を瞑り、そのまま意識を喪失します。
「き、機長。大丈夫ですか。機長」
『め、メーデー、メーデー!』
明らかな異常に、コックピット内で1人残された副機長はなんとかメーデーを宣言します。幸いにも通信はカラマンドオービタルの管制塔に拾われ、僅かな時間の後に応答がありました。ただし、副機長の意識はそのわずかな時間にどんどん薄れていきます。
『こちらカラマンドオービタルタワー、メーデーを確認した。機体名と状況を知らせよ』
『こちらCRS333……緊急入港を要請します』
『CRS333、緊急入港を承認する。状況を教えてください』
『……』
『CRS333、応答できますか』
通信機から管制官の声が響きますが、その段階で副機長は応答ができなくなり、その後完全に意識を喪失しました。
クロススペイシア333便は想定されていた事故からの想定外の派生事故により、その操縦機能を失い、スコシア星系において漂流を始めたのでした。
題材:スイス航空111便墜落事故。
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