7(終)
◇
「ノア……」
どうして。
手紙を取り落としたソマリは、そのまま床にしゃがみ込んだ。
ほろほろと涙が溢れて止まらない。
「ノア、ノア」
呼ぶ声に応える者はない。
静かな部屋には、雨の音だけがこだましている。
ソマリはそれでも、ノアを呼ばずにはいられなかった。
高価な葡萄酒も、レースのハンカチも、輝く宝石も、何もいらない。
だからノアを返して欲しい。
帰ってきて欲しい。
けれどそれは、ソマリのわがままだった。
だってノアは王子さまで、やっと記憶が戻って、今はお城で幸せに暮らしているのだ。
それも、本当の家族の元で。
ソマリはそれを喜びこそすれ、戻ってきて欲しいなんて望むべきではないのだ。
でも。
──すぐに帰ってくるから
ノアはそう、約束してくれたのに。
ソマリは涙を拭って、鼻を啜る。
「ノアのばか……」
お別れくらい言いに来てくれても、バチは当たらないのに。
泣いてしまうかもしれないけれど、頑張って手を離すくらいは、できるのに……
それとも王子さまとは、そんなにも忙しいのだろうか。
ソマリにはちっともわからない。
それでももう、彼との縁が切れたことだけはよく分かった。
だからソマリは苦しかった。
どうやってこの悲しみを受け止めたら良いのだろう。
胸の奥がつんと痛み、喉が詰まる。
ああ会いたい。
ノアに会いたい。
でももう、会えない。
また涙が溢れてきて、ソマリはくしゃりと顔を歪めた。
「ノア」
会いにきて。
ソマリは膝を抱えて泣きじゃくった。
せめてお別れを言いにきて。
ノアが会いにきてくれなければ、ただの村娘のソマリは、王子さまになんて会えないのだから。
昔から、泣きすぎると頭が痛くなる癖があった。
屋根を叩く雨の音に、ソマリはうっすら眼を開く。
いつの間にか眠りこけていたらしい。
すっかり夜は更け、部屋は暗くなっていた。
「──ソマリ」
やさしい声がして、ソマリはそっと髪を梳かれた。
指先を差し込むようにするその仕草は、ソマリのよく知っている感触だった。
無意識に唇が動く。
「……ノア」
「ただいま。ソマリ」
覆い被さってきた影が、顔の横で止まって、耳元で囁かれる。
ソマリは驚いて身を起こした。
「っノア……!?」
「おはようソマリ、遅くなってごめん」
一緒になって身を起こしたノアは、そう微笑んで、ソマリの手を握りしめた。
居間にいたはずなのに、いつの間にかソマリは寝室のベッドの上にいた。
「……ノアが運んでくれたの?」
他に聞くべきことがあるはずなのに、口をついて出たのはそんな言葉で。
「うん。床で寝ちゃダメだめだよ」
困ったように笑って、ノアはソマリの頬をやさしく撫でた。
「会いたかった──ただいま」
「……ノア」
懐かしい声、懐かしい姿。
本物の、大好きなノアだ。
ソマリは確かめるようにノアの手を握り返す。
「本物だよね? 夢じゃないよね? ノアだよね」
「本物だよ。ほら、触ってみて」
ノアはソマリの手を掴むと、自分の頬を触らせた。
温かくて柔らかい。
ソマリはほっと息を吐いた。涙腺がまた緩む。
「すべすべ……ノアだ」
「すべすべって」
おかしそうに笑って、ノアはソマリを胸に抱きしめた。
土と草の香りではなくなっているけれど、間違いなく彼はノアだった。
「ごめんね。一人にして……泣いてたんだろ」
赤く腫れているソマリの目を覗き込んで、ノアは眉を寄せた。
そういえば、どうしてノアはここにいるんだろう。
はたと気づいて、ソマリはノアを見上げた。
「……ノアは帰ってきたの? またお城に戻るの? もしかして、手紙だけじゃあんまりだからって、お別れを言いにきてくれたの?」
私が願ったから──
と、ノアはそっと首を振った。
「まさか。俺の家はここだよ。それともソマリは別れたいの?」
「ううん、絶対にいや。でも、記憶が戻ったんじゃ」
「戻ってないよ」
薄く笑ったノアの顔が、一瞬、別人に見える。
ソマリは硬直する。
「……本当に? 嘘でしょ。本当は、ノアは」
「戻ってない──俺は、ソマリのそばがいいんだ」
その言葉の本当の意味が分かって、ソマリはノアを見つめ返した。
ノアはふわりと笑う。
「ソマリといる時の俺が、俺は好きなんだ」
ノアに抱きしめられて、ソマリも抱きしめ返す。
涙がまた溢れてくる。
「ダメだよ、ノア。帰らなきゃ、お母さんもアリオスさんも心配してるよ」
「ソマリは心配してくれなかったの?」
背中にノアの大きな手が回って、ソマリは唇を噛み締めた。
「したよ。いっぱいしたよ、でも」
「俺は、居ない方がいい?」
ソマリはもう我慢できなくて、ノアのシャツを握りしめた。
「……一緒に居て欲しい。寂しかった」
ノアを縛り付ける権利なんてないのに、差し出せるものなんて何もないのに、ソマリはこんなにもノアを求めていた。わずかに身体を離したノアが、ソマリをそっと覗き込む。笑っていた。
「俺もずっと、寂しかった」
そうして彼は首を傾ける。額がコツンと当たった。とても近い。
「ねえソマリ。俺まだ、おかえりって言われてない」
囁かれて、ソマリは瞬く。
もう二度と会えないと思っていた、ソマリの大切な家族。
「──おかえりなさい。ノア」
ノアはくすくすと、満足そうに笑った。
「ただいま、ソマリ」
そうして戯れ合うようにベッドに倒れ込む。
ふたりは泣いて、笑っていた。
◇
深夜。
ノアは床に落ちていたアリオスの手紙を破いて、火にくべた。すぐに暖炉の奥で灰になっていく。
脅しは十分に効いただろう。
──二度と俺たちに近づくな
怯え震えるアリオスは〝ヴィンデル〟の恐怖を思い出したのか、微動だにせず掠れた声をあげて、降参した。母にもこの三ヶ月、たっぷりと〝ノア〟の無能ぶりを見せつけておいた。これ以上追いかけはしないだろう。
ノアは小さく微笑むと、暖炉の火を消して寝室に戻る。
二人で眠るには狭すぎるベッドの端で、ソマリが丸まって眠っていた。
月明かりに照らされたあどけない寝顔にノアの毒気は抜かれていく。
本当の自分を知ったら、ソマリは怖がるだろうか。
それでももう、引き返すつもりはない。
ノアはソマリの隣に潜り込むと、後ろから小さな身体を抱きしめた。
草と土と花の匂いがする。
大地のような少女。
「ありがとう。あの時助けてくれて」
兄の刺客に襲われた時、あのまま自分は、消えていくはずだった。
いや、悪い王子はきっとあの時本当に死んだのだ。
だからこれからの時間はノアとして、彼女と、この村の人々に捧げる。
差し当たってアリオスからの贈り物は、ありがたく村で分配しようと思う。
酒豪のサーシャには酒を、大柄なトーヤには肉を、世話になったサーシャの母親には服でも。
そうしてソマリには、薬草図鑑でも。
ソマリの柔らかな髪に鼻先を埋めて、ノアは目を閉じる。涙が溢れた。
幸福は永遠に続く。
お付き合いくださりありがとうございました。**koma