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◇
「お兄さま、よく似合っていますわ」
「ええ、本当に」
一方、その頃。
ノアは王城の一室で、母と妹だと紹介されたふたりの女に着替えをさせられていた。
ふたりはいかにもといった貴族の女性で、何もない日ですら豪奢な衣服で自身を着飾り、化粧品の匂いをまとわりつかせていた。
ノアは無意識に、ふたりから距離をとる。
「……そうでしょうか」
喜ぶ母と妹に、曖昧に微笑みかける。
トドメとばかりに結ばれたタイが、窮屈で仕方がなかった。
「ええ。これならどこの社交界に出ても歓迎されるわ」
母がうっとりとノアを見上げる。
ノアは、困ったように言葉を返した。
「すみませんが、人前には……」
「まあ、どうして? せっかくあなたのために準備を進めているのに」
「そうよお兄さま。お兄さまのご無事を知らせたら、きっと皆喜ぶわ」
もう何度目とも知れぬやりとりに、ノアの苛立ちは増していった。
「ですから、俺には記憶がないんです。今更社交界だなんて」
「大丈夫。これからいくらだってやり直せるわ。だってあなたはとても賢い子だったのだから」
近づかれた途端、母の香水の匂いが鼻をついて、ノアは思わず顔をしかめた。
実母が倒れたと聞いて、心配したのは本当だ。
けれど、この母親が幼少の頃から苦手だったのも本当だった。
わがままで奔放な妹も。
「──すみませんが、気分が優れないので失礼します」
「ヴィンデル」
母の声から逃れるように、ノアは部屋をあとにした。
村に帰りたい。
ソマリに会いたい。
「話が違う」
自室に戻ったノアは、アリオスを呼びつけて怒鳴った。
ノアの剣幕にアリオスは青ざめる。
「申し訳ありません殿下」
「ふざけるな。約束の期間はとっくに過ぎてる」
ひと月だけ、と最初に交わした約束は、随分と前に破られていた。
あと一日、薔薇が咲くまで、服が出来上がるまで、思い出ができるまで──。
母と妹の要求は日毎に増していき、ノアは強引に城に留め置かれている。
護衛という名の監視に四六時中見張られ、息が詰まりそうだった。
さらにその間、ソマリに宛てた手紙の返事は一通も届いていない。
さすがの彼女も怒っているのかもしれなかった。
荒々しくタイを外したノアに、アリオスはひたすら謝り続ける。
「……申し訳ありません、まさかこんなことになるとは」
片膝を突き、首を垂れるアリオスは、先程からちっともノアと目を合わそうとしない。
身分上、アリオスは母と妹に逆らえないのだ。
ノアは複雑な思いで子供の頃から世話になっているアリオスを見つめる。
彼が善良な青年だと、ノアはよく知っていた。
彼を責めても、仕方がないことも。
けれどもう我慢ならない。
ひとり残してきたソマリが心配で心配で仕方がなかった。
「限界だ。俺は帰るよ、悪いけれど」
「なりません、殿下」
アリオスがノアの腕を掴み、力強く引き止める。
「お立場をお考えください。皆、殿下のお戻りを心待ちにしていたのですよ」
「兄に対抗するためにか?」
蔑んだ目を向ければ、アリオスは言葉を詰まらせた。
くだらない政権争いを、ノアは鼻で笑い飛ばす。
やはり記憶が戻っていると話さなくて正解だった。
この上全てを思い出していると知られたら、本当にソマリの元へ戻れなくなるところだった。
──母はむしろ、記憶がない方が御し易いと考えているのかもしれなかったが。
「離せ」
ノアはアリオスを冷たく見下ろし、掴まれていた腕を振り払った。
「殿下……っ」
縋るような目を向けられても、ノアの心は揺るがなかった。
ノアの思考を満たす人間はただ一人──ソマリだけだ。
見ず知らずの男を助け、得もないのに身元を探し回り、熱心に自分を励まし続けてくれた、やさしいソマリ。
野心と陰謀に塗れた王城での生活しか知らなかったノアは、ソマリと暮らすうち、自分の中にある黒くてドロドロしたものが溶けて消えていくのがわかった。
人が満たされるのに必要なものは豪華な食事でも、贅沢な宝石でもない。笑い合える家族なのだ。
ソマリとの穏やかで代わり映えのない、けれど豊かな生活が、ノアを内から温かいもので満たしていた。
本当のノアは、やさしくもなければ穏やかでもない。計算高く狡猾で、腹違いの兄からどう王太子の座を奪おうか、そんなことばかりを考える傲慢な男だった。
故に兄とは命を狙い合う仲で──この社会では珍しくもないことだが──だからあの日、記憶を無くす原因となった事件が起きてしまったのだった。兄の放った刺客に襲われたノアは、谷底へと落ち、そうして、異国の村娘──ソマリと出会った。
ノアにはもう、王位を狙うつもりはない。
ただソマリの元へ帰りたい。
それだけが今の望みだった。
だが、母は違った。
父の愛妾に過ぎない母は、城では日陰者だった。
ノアを失ってからは、さらに蔑ろにされていたのだろう。
──母が、無事に戻った自分を喜んでくれたのは最初だけだった。
今では生きていたノアを利用し、今度こそ忌々しい正妃の鼻を明かしてやろうと企んでいる。
そんな考えが透けて見えて、ノアはひどく虚しい気持ちになった。
自分は一体、なんだったのか。
「殿下、どうかこのままお留まりください。私たちには貴方が必要です」
懇願するアリオスに、ノアは静かに告げる。
「ヴィンデルは死んだ。母上にはそう伝えてくれ」
ノアは、村の生活を経て知った。
民は、王族の派閥争いなど興味がなくただ平穏に暮らせることを望んでいるのだと。
ノアと兄との争いは、無駄だったのだと。
「兄上と俺は確かに気は合わなかった。だが、あいつは慕われている。良い王になるはずだ──横暴な俺と違って」
アリオスが目を見開く。
「殿下、やはりご記憶が」
「戻ってない」
頑なに否定して、ノアは派手すぎる上着を脱いだ。
「俺の服を返してくれ」
「……ございません。母君がお捨てになりました。それに──もう遅いのです」
気の毒なほど蒼白になったアリオスは、唾を飲み込み、口を開く。
「ソマリ様には、謝礼とお別れの文をお出ししました。ソマリ様も分かったと、お受け取りになられて──」
アリオスが言葉を発せたのはそこまでだった。
ノアに胸ぐらを掴まれ、無理やり引き立たされる。
喉が締まる。
すぐそばで、暗い瞳が揺らめいていた。
かつての悪名高い王子が、そこにいた。