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◇
それから三ヶ月後。
「ノアさん、戻って来ないね」
しとしとと雨の降る季節がやってきた。
お茶をしようと訪ねてきたサーシャは、ソマリの様子を見にきてくれたのかもしれない。結構な値段のするハーブティーと焼きたてのパウンドケーキをつつきながら、ふたりは窓の外を眺めた。
糸のような雨が綺麗で、見惚れそうになる。
「うん。元気にしてると良いんだけど」
こぽこぽと、ソマリは二杯目のお茶を注ぐ。
「そんな、他人事みたいに」
サーシャは呆れたように言って、ソマリの注いだお茶を啜った。
「ノアさん、記憶も戻ってないんでしょう? 大丈夫なの?」
「うん……お付きの人? みたいな人たちがいたから、大丈夫だとは思う」
でも、帰りが遅すぎる。
ソマリはしだいに、花が萎れるように元気をなくしていった。
ノアの本当の家族が現れて、里帰りをすることになった、と伝えた時、サーシャはソマリもついていけばよかったのに、と不安そうに眉を寄せた。
そうしておけば良かったと、ソマリも今は思う。
けれどあの時は、ひと月だけならば大丈夫だと思ってしまったのだ。
ソマリは易々とここを離れることができない。
畑も放ってはおけないし、街にはソマリの草花を待っている薬師もいるからだ。
それになんと言ってもノア自身が「すぐに戻ってくる」と約束してくれていた。
だからソマリも最初はのんびりと彼の帰りを待っていた。
けれど、あれから三ヶ月も経つというのに、ノアは戻ってこなかった。
毎日毎日、ソマリは手紙が届いていないかを確認し、落胆した。
せめて彼がどうしているのかわかれば、少しは気も楽になると思うのに。
しかしソマリには、ノアへ連絡をとる術がなかった。
なにせ彼は隣の国の〝王子さま〟だったのだから。
このまま戻ってこない、なんてことも十分あり得るのだ。
そう気づいて、ソマリは一層気落ちした。
ノアと暮らした暖かでやさしい日々が、今は幻のように思える。
サーシャにすら真実を打ち明けることが出来ず、ソマリはそれでも毎日を乗り越えていた。
生活は穏やかだ。
いつも通りに起きて、部屋を掃除して、ご飯を食べて、畑の世話をして、森へ行く。
仕事が終わったら、残りの時間はのんびりと過ごす。
好きな本を読んだり、こうしてサーシャとお茶をしたり。
けれどそこに、ノアはいない。
ただ、前の生活に戻っただけなのに、前と同じとはいかないのだ。
ノアは元気にしているだろうか。
記憶は、本当は、戻っているのだろうか。
だから彼は戻らないのだろうか。
このまま、忘れるべきなのだろうか。
「ソマリ。ノアさんはちゃんと戻ってくると思うよ。だから元気出して」
サーシャに励まされて、ソマリは小さく頷いた。
「ノアに会いたい」
ソマリが呟くと、どうしてかサーシャまで泣き出しそうな顔をして、ソマリを抱きしめてくれた。
それから数日後。
また雨の日だった。
村外れにあるソマリの小さな家の前で、一頭立ての荷馬車が止まった。
家の中で読書をしていたソマリは、音に気づいて、表に出る。
手綱を握っていた男が、近寄ったソマリに訊ねた。
「こちら、ソマリ・グランディルさんのお宅で間違いありませんか」
「え、ええ」
一体何の用だろう。
驚くソマリに、異国風の服を纏ったその男は御者台を降りた。
「お届けものです」
荷台の上には、雨除け用の布がかけられていた。
男は荷崩れしないように縛ってあったロープと共に布を剥ぐ。
布の下から現れたのは、大きな木箱だった。
「あの、これは」
「重量がありますので、中にお運びしても?」
「は、はあ。どうぞ」
男は早く仕事を終わらせたいのか、やや強引に家の戸口に木箱を置いた。
そうしてすぐに去っていく。
「なんだろ」
ソマリはおろおろと、木箱についている荷札を確認する。
差出人は「アリオス」だった。
あの日やってきた男性の名前に、ノアのことかもしれないと、ソマリはすぐに箱を開けた。
頑丈な木箱の中には、高級な葡萄酒、レースのハンカチ、装飾品などが所狭しと詰められていた。
ソマリはそのどれにも目をくれず、一番上に乗っていた手紙を手に取る。
流麗な文字が綴られていた。
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ソマリ・グランディル様
ご無沙汰しております。
その後如何お過ごしでしょうか。
先日は突然の訪問にも関わらず、おもてなしを有難うございました。
礼が遅れたこと、伏してお詫び申しあげます。
あれからヴィンデル様は王城にて養生し、心身ともにお健やかに過ごしておられます。
母君と妹君とも再会され、大変歓喜なさっているご様子でした。
先日、記憶も無事に戻り、今は一日も早く執務に戻られるため、勉学に励んでおいでです。
故に、殿下に代わって、僭越ながら私が筆を取らせていただいた次第です。
幸いなことに、殿下はこのまま王城にお留まりくださることとなりました。
ソマリ様に直接お会い出来ないことを殿下は気にしておいででしたが、同時に大変感謝しておられました。
ご一緒にお送りした品々は、殿下からのご好意によるものです。
心ばかりですが、どうぞお納めくださいませ。
アマツエリ語は、こちらの言葉と似ていますが、やはり難しいですね。
もしもおかしな文面がございましたら、ご容赦くださいませ。
ソマリ様のご幸福をお祈り申し上げております。
アリオス・リ・クレモール
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ソマリの手から、便箋が滑り落ちていった。