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◇
それから三日後。
いつものように森へ行こうと、ソマリが表へ出た瞬間だった。
「こんにちは、お嬢さん」
身なりのいい数名の男達が、そこに立っていた。
ソマリは驚きつつ、小さく頭を下げる。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。突然お訪ねしてしまい、申し訳ありません。こちらに、ノア・グランディルさんという方がいらっしゃると伺って参ったのですが……ご在宅でしょうか?」
にこにこと愛想よく話すのは、先頭に立つ若い男だった。
煌びやかな燕尾服を纏っているわけではなかったけれど、上着もズボンも、汚れひとつない革の靴も、どう見ても庶民の持ち物には見えない。
なんだか嫌な予感がして、ソマリは身構える。
「ノアは……家にいますけど」
「呼んでは頂けませんか?」
男の丁寧な話し方が、ノアのそれに通じているような気がした。
「……えっと」
「すぐに済みますので」
「あの、先に、ご用件を伺っても──」
「ソマリ? お客さんが来てるの?」
と、タイミング悪く、ノアが家の奥から出てきてしまう。
「ノ、ノア……っ」
どうしてかソマリは、ノアを隠したい気分になって、背後を振り返る。
けれども遅かった。
止まっていた時が進み出すように、歯車は回り始める。
「……」
ソマリの側で立ち尽くしたノアは、狭い庭先に佇む男達を見て、瞬きを繰り返す。
彼も直感的にわかったのだろう。
とうとう、お迎えが来たのだと。
「──ノア・グランディルさん?」
黒服の男がノアを見つめて、確認するように尋ねる。
ノアは、静かに肯定した。
「はい。私に何か?」
その、別人のようなノアの反応に、ソマリは言い知れぬ不安を覚えた。
もしかして、ノアは記憶を。
「ノア」
ソマリは思わず、ノアの手を握りしめる。
と、ノアはそんなソマリを安心させるように見下ろして、微笑んだ。手を強く握り返される。
「大丈夫だよ」
男が、側近らしい者たちに目くばせをして、頷きあった。
「間違いないようですね」
「ええ」
そうして男は、もう一度ノアを見上げた。
「お探し申し上げておりました、殿下」
ソマリは「やっぱり」と唇を噛み締める。
ノアはやっぱり、〝やんごとない〟世界の住人だったのだ。
跪かれたノアは、ただ苦しそうに眉を寄せていた。
一同は、ソマリ達の家に入って、話し合いをした。
とは言っても狭い家なので、全員分の椅子はない。
結局、二人がけのテーブルに着席したのは、リーダー格の男──アリオスとノアだった。
アリオスは、時折涙ぐみながらノアを見つめて話し続ける。
「あの日のことは毎晩夢に見ておりました」
アリオスは、ノアの護衛騎士だったのだという。
一年と少し前のあの日。
ノアは、側近達と共に、視察に出ていたらしい。
そこで山間の国境を越えようとしたところを十数名の暴漢に襲われ、一同は散り散りになり、そうしてノアは────隣国の第二王子ヴィンデルは、行方知れずとなってしまったのだった。
アリオス達は主人を必死に探したが、まさか山から転落しているとは思わず、今日この日まで、見つけることが叶わなかったらしい。
「お守りすることが出来ず、申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げられるノアの表情は、変わらず浮かない。
「……そんなに謝られても……悪いけど、何も覚えてないし」
「そんな、ヴィンデル様」
「君たちには悪いと思う。でも俺は戻る気はない。記憶のない俺が城へ戻ったところで、役に立てないと思うし」
「役に立つ立たないではございません」
アリオスは熱く言った。
「皆、ヴィンデル様のご無事を願っていたのです。そしてこうして、ヴィンデル様が生きていらっしゃった。その事実だけで私たちは報われる思いなのです。お幸せに暮されているのであれば、尚更」
アリオスは嗚咽を堪えるように、一度言葉を切った。
「ですがせめて、母君と妹君とだけは会っていただけませんか。御二方とも、ヴィンデル様のことを心底心配しておられたのです。特に母君様はあまりの心労にお倒れになるほどで──」
「母上が」
咄嗟に呟いたノアに、ソマリははっと顔を向ける。
「ノア、もしかして思い出せたの?」
「いや」
ノアは頭を振って否定した。
「アリオスさん、すまない。俺は、戻らない」
「ヴィンデル様」
「ノア」
席を立って、ノアはアリオスに背を向けた。
「ひと月でも構いません。里帰りをなされると思って、お願いです」
懇願するアリオスに、ノアはしかし「お引き取りください」と頑なな態度を崩さなかった。
と、アリオスは最後の頼みとばかりに、今度はソマリに顔を向ける。
「ソマリさんからも説得していただけませんか。悪いようには致しませんから……!」
「……アリオスさん」
「あなたにも分かるでしょう? もし家族がいなくなって、どこかで生きていると知ったら、会いたくはありませんか」
「ソマリを巻き込まないでくれ」
怒ったノアが声を荒げる。初めて聞いた、とソマリは驚く。
「彼女はこの件とは関係ない」
ノアはソマリを思って、そう言ってくれているのだろう。
一緒にいると約束してくれたから。
でも、たとえ記憶がないとしても、自分の母親がどんな人だったのか、妹という人がどんな子なのか、気にならない、なんてことあるだろうか。
それに、さっきのノアの反応。
あれは、明らかに。
ソマリはそっと、ノアのシャツを後ろから握った。
「ノア」
「ソマリ、ごめんね、君を巻き込んで」
「ううん。そんなこと気にしないで。でもね、私も一度、お家に帰った方がいいと思う」
「……ソマリ?」
ノアが眉を強く寄せる。
「どうして。俺と離れて平気なの?」
「寂しいよ。でも、すぐに帰ってきてくれるんでしょ?」
「ソマリ」
「お母さん達を、安心させてあげて」
ソマリはにこりと笑ってみせる。
もし、ノアが突然いなくなったら、ソマリは心配で心配で、苦しくなるに違いない。
母親ならば、なおのこと。
「ね、ノア」
笑ったソマリに、ノアは子供みたいに顔を歪めた。
「嫌だ」
「……お母さんが心配なんでしょう」
「……」
ソマリはそっとノアの頬を両手で挟んだ。
「私は大丈夫だよ、サーシャ達もいるし、手紙だって送れるし」
「……すぐに帰ってくるから、俺のこと忘れないで」
「ノアじゃあるまいし、忘れるわけないよ」
馬鹿だなあとソマリはノアに微笑んだ。
ノアはそれでもぐずぐずと駄々をこねていたが、その夕刻、アリオス達と共に旅立った。
アリオスは頻りにソマリに礼を言って、所持していたありったけの金銭を置いていった。このことは他言無用に願います、と何度も何度も頭を下げて。
「早く帰ってきてね、ノア」
約束だよ。
ソマリはぽっかりと空いてしまった胸の穴を押さえるように、夜空に囁く。
一人きりで眠るのは、随分、久しぶりのことだった。