秘密のレビュー
図書室は学校の二階にある。
図書室の中に階段があって、一階へ降りることができる。一階には木のテーブルがあり、生徒が勉強をしている。
滝本奏太は自習する生徒に交じり、のんびり読書をしていた。
進学校のせいか、純文学から実用書、海外小説や新書も揃っているので退屈しない。
今日は身近で簡単に読める、大衆小説を選んだ。いつも借りられている新刊が残っていたという理由もある。図書室にも流行りがあって、早い者勝ちなのだ。
新人らしいが、今随分話題になっている。どんな内容かワクワクして一ページ目を捲った時、可愛い小さなメモ用紙が挟まっていた。
ハートと猫とマカロンが散らばったファンシーな柄のメモは折りたたまれていて、奏太はそっと開いてみた。
とても美しい文字で、書かれていた。
つまらなかった。物語にのってきたところで興ざめな展開にするから、テンポも悪いし読みにくい。度の過ぎたバッドエンドで後味も最悪。文章に芸術性もなく、何が評価されているのかが分からない。
奏太は信じられない思いで、表だけは可愛いメモ用紙を見つめた。
最悪だ。
一ページ目に挟まっているのもたちが悪い。酷い荒らし行為だ。
奏太はメモを閉じ、レビューを頭の中から消す。
気を取り直し、ページを捲った。
読み終えて本を閉じ、奏太は思わず呟く。
「…言い得て妙」
本の評価はさておき、少なくとも自分と、このメモ帳の主の感想は一緒だった。
これが四月二十五日の事。
それから、一か月の間、歯に衣着せぬ感想文と出くわす事が計4回。
今までこんな事は無かった。
だからおそらく、犯人は一年生だと思う。それもかなりの読書家で、ジャンルも問わない乱読だ。
不運なことに、自分は犯人と感性が似ているらしい。
普段本選びは、タイトルや表紙の絵で何となく決めるのだが、今日も数あるうちの一冊を引き当ててしまった。
読み終えた後、奏太はメモを恐る恐る開いてみる。
タイトルに惹かれて読んでみた。とても面白かった。主人公は、幼い頃から恵まれない境遇で誰からも愛されない。幼少期の愛情が不足している事から、成長する過程で自身の欠陥を自覚していくのがリアルだ。大人になっても人と上手く付き合えず、堕落していく様が残酷で、読んでいて気持ちが良い。読み終えた後も全てを失って絶望する主人公がしばらく自分に憑依した。味のある作品
奏太は頷いていた。
物語はどれだけファンタジーに現実感を持たせるかが重要になってくる。この本はそれがちょうど良い塩梅だから、読者側の現実まで浸食してくるのだ。他人には伝わない感覚だと思っていたが、この悪戯をする人間は自分と同じことを考えているらしい。
メモの犯人は、気に入らない本に対してはとことん悪口を書くが、逆に良かったものはしっかりと褒めたたえる。
何度も被害に遭ううちに、マカロンと猫とハートのメモが憎めない奴に思えてきた。
奏太は複雑な気持ちでメモを細かく折り畳み、ポケットに仕舞った。
〇 〇 〇
六月に入り、体育祭の時期になった。
まったくやる気は無かったのに、保健委員に推薦された。
保健委員は救急箱を手にグラウンドを駆け回り、救護活動をする係だ。養護教諭や受傷者の担任に連絡をしたり、色々な仕事がある。二年生は部活動も忙しい時期で、誰も手を挙げなかったのだ。部活も入っておらず、ちゃんと仕事をしてくれそうな人、という理由でみんなが自分を推薦し、拒否する事が出来ずに決まってしまった。
決まったからには真面目に役割を全うしなければいけない、と奏太は思った。
その日、ちょうど放課後に初めての種目別練習があったので、奏太は様子を見ることにした。
保健委員の腕章をつけ、グラウンドを見回っていると、ムカデリレーの練習をしている一組が圧し潰されるようにして転んでいて、奏太はすぐに駆け寄った。
砂煙が舞う中、転倒した生徒が少しずつ起き上がる。
奏太は驚いた。
ムカデのメンバーは男子生徒4人と、小柄な女子生徒が1人だけだ。
放課後の練習なので、部活のある生徒は参加できない。おそらく男女の割合は合っているが、練習なので、女子生徒が抜けているのだろう。
男子生徒たちは、女子生徒に声を掛ける。
「大丈夫?」
「はい。すみません」
女子生徒はひょこりと頭を下げる。
ストレートの黒髪を肩につくか付かないかくらいまで伸ばしていて、大人しそうな顔立ちをしていた。敬語を使っているので、一年生だろう。
女子生徒は膝を擦り剝いていて、少し血が出ていた。
奏太は救急箱から二枚絆創膏を取り出して、女子生徒に渡した。
「一応」
女子生徒は奏太を見て、礼を言って受け取る。
「すみません、ありがとうございます」
奏太は、男子生徒に言った。
「彼女は真ん中ではなく後ろにした方が良いかもしれません。体格の良い人が前に出て引っ張るのが良いと、ネットに書いてありました」
男子生徒は奏太を見ずに、てきとうに答える。
「へえそうなんだ」
「はい。怪我もしにくいです」
「え、いいよそのままで。俺走りやすいし」
女子生徒の後列の男が言う。
女子生徒はとても可愛いので、近い距離に居たいのかもしれない。
だが怪我を減らし、全員が楽しく体育祭を楽しめるようサポートするのが保健委員の役割だ。
仕事だから言う権利がある、と自身を鼓舞し、奏太は口を開く。
「大ムカデという競技は危ないです」
ムッとしたのか、男子生徒は眉を顰めて強い口調で言う。
「気をつけるから大丈夫だって」
奏太は、一歩踏み出して言う。
「過去に脊椎捻挫や頭部打撲で四肢麻痺、内臓損傷の記録もあります。体育祭当日の受傷者の二割から四割が、練習で怪我を負っているというデータがあります。何らかの改善や練習をしなければ」
「ああ、分かった分かった」
面倒になったのか話を遮り、男子生徒は場所を変える。みんな紐を結び直し始める。
小さく女子生徒が奏太に頭を下げる。
奏太は頷き、他の見回りに向かった。
保健委員は三年生のリーダーが1人、二年に3人、一年生に3人、計7人で構成されている。放課後、保健委員が集まって、ミーティングをする機会があった。
奏太はミーティングを行う場所である家庭科室へ向かったが、まだ誰も来ていない。
鞄から本を取り出し、読み始めた。
今日はホラーだ。初っ端から四肢を切断されるという訳の分からないシーンから始まり、続きが気になって図書室で借りた。大量出血をすると寒いという表現が良く出てくるが、これは本当なのだろうか、などと考えていると、ガラガラと扉が開いて、女子生徒が入って来た。
再び読書に戻ろうとした時、女子生徒が小さく頭を下げて挨拶をしてきた。
「こんにちは」
いっぱく遅れ、奏太も挨拶を返す。
「こんにちは」
女子生徒は隣の机に座ったが、しばらくして、おずおずと話しかけて来た。
「あの時はお世話になりました」
奏太は驚いて本から顔を上げる。
「あの時?」
「放課後練習の時です」
記憶を漁り、女子生徒の顔をしっかり見て、ようやく思い出した。
「ああ、ムカデリレーの」
「はい」
「怪我は大丈夫?」
「はい。後列になったお陰で、すごく負担が減りました。ありがとうございました」
「気にしないで。その…女の子の友達が参加しない時は、参加しなくても良いと思うよ。まだ期間もあるから、塾があるとか言ってはぐらかしておくのが良いかもしれない」
女子生徒は頷いた。
「そうなんですね、教えてくれてありがとうございます」
「いいえ」
会話が途切れる。
女子生徒は言う。
「あの…隣に座っても良いですか」
「あ、うん」
家庭科室には誰も入って来ない。静寂が漂う。夕陽が窓から差して埃に反射し、キラキラしている。
こんなに長く異性と喋ったのはいつぶりだろう、などと思いながら、奏太は緊張を紛らわせた。
やがて保健委員が全員集まり、ミーティングが始まる。三年生が資料を配る。資料には当日の役割や仕事内容以外に、保健委員の名前が載っていた。
女子生徒の名前は「花崎ひなの」と言うらしい。一年生は他二人が男子だから、間違いないだろう。
ふと、隣に座る、花崎の筆箱が気になった。
何故気になったのか、奏太は考え、ハッとした。
わずかに空いたチャックから覗く、そのメモ帳の柄は、悪戯のものと同じだ。
猫とハートとマカロンの可愛いメモ帳。
いや…まさか。メモ帳なんて沢山売っているものだし…この柄が流行っているかもしれないし。
奏太は首を振り、三年生の話を聞いた。
土曜日、学校で模試があり、終わってから図書室へ向かうと、バッタリ花崎に会った。
奏太は挨拶した。
「こんにちは」
花崎は少し驚いた様子で目をぱちくりさせてから、挨拶を返した。
「こ、こんにちは」
花崎は、奏太の持っていた本に視線を落とす。
凝視しているので、奏太は問うてみた。
「この本、知ってるの?」
「あ、はい…私も好きな作家さんです」
同じ作家が好き、というのが、嬉しかった。
奏太は問う。
「花崎さんは読んだことある?」
「あ…いいえ、まだ読んでいません」
「そうなんだ」
「はい」
「面白かったよ」
花崎は頷く。
「楽しみです」
急に気持ちが沸き立って、気付けば本を差し出していた。
「良かったら貸そうか?まだ一週間以上期間あるし」
同時に、それはおかしい、と心の中で自分が突っ込んだ。借りているものを貸すのは変だろ。
しかも図書室は目の前にある。
だが、花崎は頷いて、手を小さく差し出した。
「あ、お願いします。読みたいです」
「分かった」
奏太は渡そうとして、ふと挟んだままのメモに気づき、引き抜いた。
花崎はそれをじっと見つめる。
奏太はメモを開いて見せる。苦笑混じりに言った。
「誰かの感想文。最近よく挟まっているんだ。結構辛口なんだけど、共感できるところが多くて、ちょっと面白くてさ」
花崎は呆気にとられたように目を見開く。
「お、面白いんですか?」
「え、うん」
「そ、そうですか」
「誰が書いたのか分からない所も含めて、気になるんだ」
「へえ、不思議ですね」
「ネタバレになっちゃうから、俺が持っておくね」
「あ、はい。お願いします」
花崎は何度も相槌を打ちながら、本をバッグに仕舞う。
やはり、犯人は花崎じゃなかった。
少しほっとして、奏太は花崎と分かれた。
ーーーーーーーーー
花崎は下校しながら、頭を抱えて呻いた。
「私、本当に馬鹿だ」
あの時正直に言えば良かった。でも言えなかった。あそこで読んでいないと言えば、犯人が自分ではないと証明できると計算してしまった。
それに、本を先輩に返す時にまた話すきっかけが出来ると思ってしまったのだ。
先輩は辛口で面白いと言っていたけれど、あんなのただの、本の悪口だ。自分が書いたとバレれば、先輩は幻滅してしまうかもしれない。それはどうしても嫌だった。
先輩は読書家で、メモは複数読んでいるようだった。
今更、あんな悪戯止めておけば良かったと後悔しても遅い。変な話だが、ネタバレされて憤慨する読者を想像すると、愉快な気持ちになったのだ。
中学から高校に上がり、沢山のストレスに晒されて、自分はどうかしていた。頭がおかしかった。
反省して回収を試みているものの、一時期大量にその場で挟みまくっていたので、どの本に挟んだのか完璧に思い出せない。今回のように数冊見落としているはずだ。
だが、本を借りる時は、必ず受付を通らなければならない。
メモは必ずネタバレを喰らうよう、1ページ目に挟んである。
被害者を装い、司書に直接確認したところ、メモの被害は認知していて、毎回確認するようにしているという。
だから司書によってメモは取り除かれていたはずで、その場で直に読む以外、受付を通して借りている本にメモが挟まっているのはおかしいのだ。
先輩は何故メモの挟まった本を持っていたのか。
可能性として考えられるのは、わざわざメモだけ取り除き、受付で借りてから、また本に挟んでいたという方法だ。
つまり、先輩は面白がって、わざとメモを取っておいているのだ。
あんな悪戯を全部読まれていたのだと思うと、すごく恥ずかしい。絶対に呆れられる。
「ほんと馬鹿」
花崎は両手で顔を覆った。
〇 〇 〇
体育祭まで一週間を切り、保健委員の最終的な打ち合わせがあった。
奏太は人が来るまで読書をしていた。全て読み終えてから、メモを開く。
蟹工船 小林多喜二
最後まで読んで、初めてこの本の凄さが分かる。何も検索せずに予備知識なく、この本がどういった物語なのか考えながら読むと面白い。蟹工船に乗り込んでいるのは、借金で首が回らなくなった人間達で、彼等は毎日十六時間以上も蟹をとり続け、働かなくてはならないという過酷な状況に置かれている。劣悪な環境で食べ物も水もろくに与えられず、大海原に放り出されて帰ることも出来ず、上の立場の人間に搾取され続ける。仲間が一人、また一人と死んでいく様は、サバイバル感があって、ハラハラする。最終的に彼等はストライキを起こし、その気概を持った人間達は日本各地へ散らばり、資本主義の基礎を作り上げた。読みやすく面白い。名作
奏太は笑ってしまった。
予備知識なく読むのがオススメだと言っておいて、ナチュラルにネタバレをしてくるのが無慈悲すぎる。
だが今回は読了してから読んでいるので、問題はない。先にメモを取っておいて、後で読めば良い話なのだ。
その時、扉が開いて、花崎が入って来た。ほかの生徒はまだ集まっておらず、また二人きりだ。
花崎は小さく頭を下げて挨拶をする。
「こんにちは」
「こんにちは」
花崎は奏太に近づき、本を差し出す。
「返すのが遅くなってしまってごめんなさい」
「いや、全然遅くないよ。気にしないで」
花崎は奏太の顔を見て、難しい顔をした。
桜色の唇を薄く開いて、小声で言う。
「そ、その…お話したい事があって」
奏太は驚いて頷く。
「あ、はい」
だが、花崎は黙り込んでしまった。
奏太は考える。
会話はキャッチボールだ。
こういう時は、こちらからパスをしないければ、と思い、奏太は口を開いた。
「みて、これ、蟹工船のレビューが挟んであったんだけど、予備知識なく読むのがお勧めとか言っておいて、その後オチまでネタバレしているんだ、鬼だろ。これを書いてる人はどんな思いでこれを作ったんだろうって考えていた所だったんだ」
花崎は視線を彷徨わせ、苦笑して言う。
「そ、そうですね、相当暇な人間なんですね」
「うん、逆にすごいと思えてくるよ。文章はちゃんとしているし、てきとうな事言ってない。全部読んで書いてるんだ」
花崎は問う。
「先輩は随分イタズラのメモと出会っているみたいですが、本棚にある時点で、メモが挟まっているって気がついたりするんですか?」
「いや、まったく知らないよ。俺も不思議に思ってる。全部の本に挟んでいる訳じゃないだろうし、そういう意味じゃ、この感想文の人と感性は似ているんじゃないかなって思うんだ」
「感性?」
「うん。数ある本の中から同じものをチョイスして読んでいるって事だろ?」
「なるほど」
「いつかこの犯人とも喋ってみたいなって思うんだ。案外話が合うんじゃないかって気がする。メモを通してしか犯人のことは知らないけど、きっと面白い人だと思うんだ」
花崎は二度頷く。
「そ、そうかもしれませんね」
そこで三年生が入って来た。ミーティングが始まり、あまり会話は出来ず解散してしまった。
体育祭当日。
自身の種目に出て、それ以外の時間は保健委員の仕事で、奏太は走り回っていた。
熱中症防止のための呼びかけをするよう、放送部の人間に伝え、保健室へ行って受傷者の確認をする。それから伝書鳩のように、それぞれの担任を探して報告をする。その間に怪我をした人の手当をする。
他の保健委員はさぼりがちな傾向にあったが、奏太は熱中していて、まったく気が付いていなかった。
奏太は一度自身の席に戻り、水分をとっていると、花崎が駆け寄ってきた。
今日は髪をポニーテールにしている。溌剌とした感じで可愛らしい。
仕事の話かと思いきや、花崎は両手でラムネを差し出し、言った。
「先輩、お疲れ様です。少しですがどうぞ」
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「いいえ…友達が飲みきれないって言って、くれました」
気を遣ってくれているのが分かった。
奏太は礼を言って受け取る。
「ありがとう」
「いえ、貰っただけなので」
花崎は一礼して去ろうとするので、奏太は引き止めようと、なんとか言葉を紡ぐ。
「花崎さんが手伝ってくれて本当に助かってる。ありがとう」
「いいえ、保健委員のお仕事をしているだけですから」
花崎は微笑んで首を振る。
その時ちょうど曲が止み、午前の部は終わりです、午後の部は12時40分からです、というアナウンスが流れた。
ちょうどお昼の時間だ。
花崎のお腹がくうと鳴った。目が合って、花崎は顔を赤くする。
奏太は笑った。
はじめは距離を感じていたが、保健委員の仕事でもよく一緒に行動するので、随分話しやすくなった。花崎はあまり話すようなタイプではないようだけれど、逆にそれがちょうど良く、本の話も出来るので一緒にいて楽しい。
奏太は問う。
「はちみつレモン食べられる?」
花崎は目を丸くし、答える。
「あ、はい」
奏太は鞄からタッパーを出し、蓋を開け、楊枝と一緒に花崎に差し出す。
「これ良かったら。お返しにしてはしょぼいけど」
「すごい。先輩が作られたんですか?」
「うん、一応」
「お料理出来るんですね」
「料理ってほどじゃないけどね」
花崎は一枚を取り、食べる。酸っぱさに微かに目を瞑った後、笑顔で言った。
「凄く美味しいです」
「良かった」
花崎は俯き、口を噤む。
どうしたのかと思っていると、花崎は顔を上げて言った。
「あの、良ければ一緒にお弁当食べませんか」
大して考えず、奏太は笑顔で答えた。
「いいね。俺も友人と会えないし、一人で食うのは寂しいって思っていた所なんだ」
「良かったです。どこで食べましょう」
「外は暑いし、中にする?図書室前の廊下のベンチとか、いつも誰もいないから空いていると思う」
「良いですね」
花崎は鞄を持ってきて、昇降口から上靴に履き替えて校舎内へ入る。
その時、女子生徒が花崎に気が付き、話し掛けてきた。
「あ!ハナちゃん!おつかれー」
「なぁちゃんもお疲れ様」
「お弁当一緒に食べよ!」
花崎はいっぱく置き、早口で答えた。
「し、仕事が残ってるんだ。誘ってくれてありがとう」
「え、そうなの?!働きっぱなしじゃん、大変だね。ファイト」
奏太は思わず問う。
「いいの?俺なんかで」
「はい…その…先輩とお話をしたいと思っていました。だから嬉しいですし」
奏太は心底驚いた。
自分は大した取り柄もなく、話は下手だし、顔も良い訳じゃない。
花崎はとても美人だし、これは何かの間違いに違いない。
奏太は思わず問うた。
「俺と話していて退屈にならない?」
花崎は首を振り、微笑んで言う。
「いいえ。楽しいです。その…友達はあまり本は読まないので」
「ああ、なるほど」
趣味友達だ。あと彼女は凄く性格が良いから、先に約束をした先輩である自分を優先してくれたのだろう。腑に落ちた。
校舎の中の図書室前のベンチでご飯を食べた。
「ここはいつもひんやりしていて、涼しいですね」
「そうだね、人もいないし、夏は穴場だね」
花崎が奏太の弁当を見て、言う。
「すごい。お弁当も自分で作れるなんて」
「そんなことないよ」
「普段から、お料理されるんですか」
「うん」
へえ、と言って、花崎は相槌を打ってくれる。
奏太は自然と言葉を紡いでいた。
「うち片親で、父親はまったく家事が出来なくてさ。米も焚けないんだ」
「え、お米が炊けないって、どういう事ですか。間違えようがない気がしますが」
「そう思うよな。けど、水と米の目盛りを逆にしちゃって、線まで米入れててさ、とんでもない目に遭ってからは父さんに任せるのは諦めた」
「ふふ、お父さんはおっちょこちょいなんですね」
「そうなのかなぁ」
奏太は花崎を見る。
花崎と視線が合って、花崎は目を瞬かせて視線を逸らす。
花崎がどんな人間なのか知りたいと思った。
奏太は問う。
「花崎は何部なの?」
「茶道部です」
「へえ、茶道か」
おしとやかな感じがピッタリだ、とは言えず、奏太は頷く。
「先輩は何部ですか」
「部活には入っていないんだ。入っても良いんだけど、この高校部活平気で七時過ぎるし、そうすると買い出しも行けなくなるから」
「そっか、お夕飯を作っているんですよね」
「うん。父さんは頑張って働いてくれてるし、ちゃんと作りたくなるんだ。面倒な時は買って帰るけど、それでも総菜はなくなる時間だから。まあ、家事をしてなくても帰宅部だった可能性は否めないけど。花崎はどうして茶道部に決めたの?」
花崎は視線を落として言う。
「昔から茶道をやっていて、家族のすすめもありました。本当はテニス部が良かったんですけど、塾や習い事の関係で反対されてしまいました」
「そうだったんだ。大変だね」
「はい。高校に上がって、沢山のことがあって疲れました。ようやく落ち着いてきた感じがします。勉強もついていくのがやっとです。数学が大変で…河村先生は名指しで答えを聞いてくるので、凄く緊張します」
花崎は顔を歪め、辛そうな表情をした。
奏太は思わず言っていた。
「あの先生最悪だよな。分からない人間ばかり指して、分かりませんって言わせて、こんな問題も分からないのか、って蔑んで皆を笑わせるんだ。俺大嫌いだよ」
言ってから、奏太は動揺した。
完全に悪口だ。普段こんな事言ったことがないのに、一体自分はどうしてしまったのか。
だが花崎は目を大きく見開き、肩の荷を下ろしたような、ホッとした表情をした。
見たことのない表情で、彼女が相当ストレスを抱えていたのだと分かった。
「私は地頭が良い訳じゃないので、毎回予習をきちんとしていかないと分かりません。笑い者にされるのが怖くて、数Ⅰのある日は凄く辛いんです」
「分かるよ。俺も最初そうだった。開き直って馬鹿なのを晒しておけば良いのかもしれないけど、そんな勇気は無くてさ」
花崎はコクコクと頷く。
「そうなんです。先輩はどうやって勉強をしていますか?どうやったら良い点が取れますか」
奏太は考えて言う。
「数学だと、テスト前は課題をもう一度解き直してる。それだけでも完璧に解けるようにしておくと、平均より少し上くらいには入れると思う」
「すごい。私初回のテストが平均点で、ショックでした。数学とか、丸がついていたのはたったの五個で、最後の方はぜんぜんダメで…」
はうっと聞いた事のない情けない声を出して、花崎は顔を覆う。
花崎は勉強以外にも習い事をしていると言っていた。両親に期待されている分、責任を感じているのかもしれない。
「最後に出てくる応用問題は得点率が高いから出来る人との点数差がつきやすくなっていて、平均点が上がっているんだ。総合成績が書かれた紙には点数ごとの人数も書いてあるから、それを見ると良いかもしれない」
花崎は深く頷く。
「なるほど。盲点でした。でも、問題を解けなかったのは事実なので、もう少し勉強しないといけません」
「いや、応用問題はどっかの大学入試の問題だし、解けないのは当然だよ。今はしっかり基礎だけやっていれば良いと思う。ここは進学校だから、難関大学に出来るだけ受からせようとしていて、上の人間に合わせて授業をしているんだ。習い事も部活もしている中で平均点を取れる花崎は絶対よくやってるよ」
花崎はそうでしょうか、と自信がなさげに首を傾げる。
奏太は出来るだけ力強く言った。
「うん。応援してるよ。あまり頼りにならないかもしれないけど、困ったら教えて欲しい。一年分だけだけど、過去のテストはあげられるから一通り解いておくと良いかもしれない。先生によって変わるけど、同じ問題を出すこともあるし、出題傾向も掴めると思う」
「え、ありがとうございます…私、頑張れそうな気がしてきました」
花崎は頬を染め、明るく奏太に微笑んだ。
「良かった。花崎なら出来るよ」
言ってから、随分格好つけているな、と自覚した。
奏太はミニトマトを噛み潰して、急に込み上げて来る恥ずかしさを堪えた。
体育祭が終わって、通常通り授業が始まった。
放課後になって、後ろの席の斎藤が話しかけてきた。
「ノート借りていい?」
「うん」
奏太は差し出し、斎藤は手を合わせて感謝のポーズをする。
「来週までに返してくれよ」
「はい。ありがとうございます、滝本様」
奏太は苦笑した。
斎藤は顔を上げ、言った。
「そういえば、体育祭の時、お前花崎と二人きりで弁当食ってたな」
奏太は驚いた。
斎藤は問う。
「連絡先とか交換した?」
「いや、してない」
「お前…ほんっと勿体ねぇ」
「あ、でも保健委員の連絡網で一応知ってる」
「話してみれば良いじゃん」
「いや、でも、彼女とは趣味友なだけだよ」
「趣味友?」
「ああ、彼女読書好きでさ」
「はあ?そんなの嘘に決まってるだろ」
「本当だよ」
斎藤は額に手を当て、じゃあさ、と言う。
「思い返してみろ、体育祭の時、読書の話なんてしたか?」
「…そういえばしてない」
「だろう?お前に興味があるんだよ。じゃなきゃ、一緒に弁当なんて食わないよ」
「それは、そうかもしれないけど」
「保健委員なのも、お前が好きで入ったんじゃねーの?」
それには、奏太は眉を顰めた。
「そんな都合の良いことある訳ないだろ。大体、なにも接点がない」
「一目惚れかもしれないぜ」
「アニメの見過ぎだよ」
「事実は小説よりも奇なりって言うじゃん」
「小説で恋が上手くいってハッピーエンド、っていうのは少ないよ」
「そうなのか?」
「うん。夏目漱石の三四郎、川端康成の伊豆の踊子、小栗風葉の青春、全て上手くいくと思えた話は悲惨な終わり方をする」
「それこそニ次元の話だろ。それに、お前は花崎と話していて楽しそうだったよ。上手くいくと思う」
斎藤はじゃあ部活行ってくる、と踵を返す。
奏太は焦った。単純に恥ずかしくて、何も言えなかった。
斉藤はいつもすぐ部活に行くのに、わざわざ自分に話しかけて、応援してくれたのだ。
奏太は身を乗り出して、言葉を投げた。
「ありがとう」
その声が予想外に大きくて、自身でも動揺していると、斎藤は振り返り、サムズアップして応えてくれた。
斎藤のすすめ通り、勇気を出してチャットをしてみたら、意外とあっさり話す事が出来た。
今日も花崎の方から、今この本を読んでいます、と画像が送られてきた。
数年前のライトノベルだ。
懐かしい。自分もこの話が大好きで、小説にハマったきっかけだった、と打つと、すぐに同じです、と返ってきた。
直接会って話したいと思った。
花崎が茶道部のない日の放課後は、一緒に過ごすことがあった。
校舎には廊下に机と椅子があって、自由に勉強できる場所が沢山あるのだが、その内の一つに座り、二人で勉強をしていた。
大して会話もないが、ゆったりとした時間が流れる。
二人で現代国語の過去問題を解き、採点をして話し合った。
「ここ、どうして主人公が恥ずかしいと思ったのか、こっちの文よりもこっちの方が説得力があると思います」
花崎が紙を少し近づける。
奏太はふと、花崎の文字に既視感を覚えた。
とても美しくて力強い、習字のような形。
「あ」
メモのものだと気が付いた。筆跡が全く一緒だ。
花崎は奏太を見る。
奏太は内心の動揺を誤魔化しながら言う。
「確かに先生の作った問題だし、答えは複数あるかもしれない。あとで聞きに行っても良いかもね」
「はい! そうしましょう」
花崎は嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。
冷静に、メモの犯人が花崎なのではないか、と奏太は思った。
一緒に過ごしているうちに、花崎のことが少しずつ分かってきた。その中で、今までバラバラだったパズルのピースのようなヒントが、少しずつ集まって、花崎という人間の心の形が見えて来る。
話をしていて、たまに出るハッキリとした物言いや、可愛い、綺麗などを言う時に、〇〇みたい、と丁寧に比喩表現するのが、犯人と重なる。
花崎が自分に興味を持った理由も納得できるし、最初に見た筆箱のメモ帳の柄も、本の感想が合うのも、犯人と同じだ。
ある日、奏太は思い切って、問うてみた。
「メモって、花崎が書いてた?」
「メモ?」
「ネタバレ辛口レビューのさ」
花崎はフリーズした。
「は、え、あ…」
花崎は顔を真っ赤にして視線を泳がせ、しどろもどろになる。
リアクションで大正解だったのだと分かるが、それでも花崎は懸命に首を横に振った。
「ち、ちが、ちがいます」
必死すぎて、奏太は面白くて笑ってしまった。
「筆跡が一緒だ。それに本の趣味も合う。隠さなくて良いって」
「う…」
花崎は肩を落とす。
その日は普通だったけれど、翌日から避けられるようになった。
花崎は自分では意識していないのかもしれないが、結構分かりやすいし、感情が顔にも出る。廊下の先に花崎がいたなと思うと、花崎は踵を返して行ってしまうし、放課後も会ってくれない。チャットも返事が遅い。
責める気など一切ない。そう伝えても、はい、としか返信が来ない。
はじめは恥ずかしがっているだけで大した事ないと思っていたけれど、一週間も続くと不安になった。
自分にとったら大事でなくても、花崎にとってはずっと抱えてきた大きな秘密だったのかもしれない。無神経なことを言ったと思っても遅い。
会ってくれないので、話をする機会もない。
どうしようと思っていると、朝、机に本が置かれていた。
カバーを外すと、それは人間失格だった。
一ページ目にメモが挟まっていた。
私はすごく幸せな家庭に生まれました。けれど、幸せ過ぎて、私には余りあるものでした。幼い頃から塾やお稽古を毎日通わされ、様々なものを与えられ、いつしか私は余裕がなくなっていきました。ネタバレをして怒っている人がいると想像すると、愉快な気持ちになってしまいました。とてもつまらない理由ですが、これが私の犯行動機です。
花崎を傷つけてしまった。
言わなきゃ良かった。
奏太はきつく目を閉じる。
希望があるとすれば、メモを通して向こうから話をしてくれた事だ。
奏太は本にメモを挟んで、放課後、花崎の机の上に置いておいた。
― 全然気にしてないよ
翌日、登校すると机の上に人間失格が置いてあった。
― 嘘をついてごめんなさい。あの時、メモを挟んでいた本を読んだことが無いって言えば、感想文を書いた犯人じゃないって思われるかなって計算しました。
言われて思い出した。
そういえばそんな事もあった。でも記憶をたどってようやく思い出すくらいだ。しかも誰かを傷つける嘘でもない。
「どうしよう」
花崎と話さなければいけない。だが話せる気がしない。時間が経てば経つほど、どうしたら良いのか分からなくなっていく。
ちょうど現代国語の授業で、夏目漱石の「こころ」を勉強していた。
先生の奥さんに感情移入をしてしまう。
どうやったら心を開いてくれるのか、花崎は何故自分を避けるのか、嘘をついていたという後ろめたい理由だけじゃないはずだ。教えて欲しいのに分からない。無神経な自分の事を嫌いになってしまったかもしれない。ずっと心の中を、不安がぐるぐると巡っている。
皮肉なことに、感想文を書かなければならなくなった。
奏太はシャープペンを握り、ノートに感想を書く。
この作品は、登場人物の感情の揺らぎが重要だと思う。ハッキリとした形にならないからこそ、それは捉えどころがなくて、読むのが難しい。実際、Kの死因を先生は裏切ったからだと手紙に書いているけれど、そうとは限らない。先生もKも、思考に潔癖すぎると思った。
こころを開く、閉ざすという場面がよく出てくる。それは襖で表現されて、Kと主人公のやり取りに使われているのが、印象的で丁寧に書かれていると思った。
奏太は手を止めた。
自分の心が、勝手にシャープペンを動かし始める。
でも、こころというのは閉ざす、開くじゃ表現しきれない、複雑なものだ。
様々な側面があり、常に形は変わり続ける。
だからこそ、沢山話をしなければいけない。そうして、こころを想像するしかない。
君のこころをもっと知りたい。
俺のこころを知って欲しい。
だから、小説で表現するのは止めにしよう。
君は人間失格なんかじゃない。
俺は…
奏太はペンを置いた。
メモを捨て、授業が終わり、立ち上がった。
一年生の教室へ行ったが、既に授業は終わって解散していた。
何となく、花崎は図書室にいる気がして、奏太は図書室へ向かった。
階段を降り、一階の本棚が並ぶ埃っぽい場所まで行く。
花崎が本棚の側面に、身を縮めるようにして隠れていた。
奏太が声を掛けようとすると、花崎の方から言ってきた。
「先輩、急に避けてしまってごめんなさい。嘘をついていてごめんなさい。呆れられたと思います。先輩は私のこと…嫌いかもしれないけど、それでも私…どうしても先輩に伝えたい事があって」
花崎は唇を震わせて、何かを言おうとするが、言葉が出て来ないのか、沈黙してしまう。
その様子を見て、奏太はやっと気が付いた。
花崎も自分と同じように、話をするのが苦手なのだ。
自分の言葉の後に、相手がどう反応するのか、それが怖くて、話せないのだ。
奏太は言った。
「嫌いになんかならない。全然呆れてなんかいないよ。俺の方こそごめん、そんなに気にしてないと思って、無神経なこと言った」
花崎は瞳を潤ませた。涙声で言う。
「先輩が優しい人で良かったです」
花崎と見つめ合う。
奏太は言う。
「俺も伝えたいことがある。花崎がレビューを書いていたのは全然気にしていなくて、俺が気にしているのは……もっと別のことなんだ」
奏太は拳を握って、言う。
「花崎と過ごしていて、すごく楽しくて、これからも一緒に居て欲しいって思っていて……」
「私もです」
花崎が目の端に溜まった涙をぬぐい、不器用に笑顔をつくって頷く。
言わなきゃ、と思った。
奏太と花崎は、同時に口を開いた。
二人の声が重なった。
「好きです」