8 変わる未来
子供部屋に戻るとエマはナニー部屋に居を構えていた。
「お嬢様が心配ですので、執事長のネイザン様にお願いしました」
賓客の侍女なら使用人の棟に個室が用意されているはずだ。それなのに窮屈な続き部屋でいいという。
オルガはエマがひな鳥を守る母鳥のようだと思った。
ドレスを脱がせてもらい、簡単に湯浴みをして楽な部屋着に着替えた。
髪を梳かしてもらっているところにマリーがお茶を乗せたワゴンを運んできた。
「お茶と簡単な食事をお持ちしました。今日はお疲れでしょうからお食事はお部屋でお取りくださいとのことです。足りなければ何かお持ちしますけど……」
ワゴンの上にはお茶と暖かいミルク、温野菜が添えてある肉料理とパン、フルーツの乗ったプディングが載っていた。
「エマはどこで食べるの?」
「ご心配無用ですわ、お嬢様。私はこの後、使用人用の食堂で皆といただきます」
エマと一緒に食べたかったが、特別扱いをすればこの先ここでの仕事がやりにくくなるだろう。
それに今日は心身ともに疲れ果てて直ぐにでも寝てしまいたかった。
「エマ、お願い。今日は食べさせて」
両手を広げて抱っこの催促をする。
エマが母鳥のように甘やかすならとオルガは思い切って甘えてみた。
案の定、エマはオルガを膝の上に抱き上げると嬉々として面倒を見始めた。
小さく切った肉と野菜を交互にオルガの口に運ぶ。合間に焼きたての温かいパンをちぎっては渡してくれた。
「エマ、もう眠い」
エマがちぎったパンを口に入れたが目はもう開けることができなかった。
◇◇◇
【日々のこと】
祖父と面会した翌日の晩餐は、食堂で略式なディナーを取った。
その席で今後は早めの夕食を子供部屋でとるようにと言われた。
その時にナニーをつけようかと祖父から提案されたが、エマがいるのでいらないと断った。
ただ『父が何か言ってきてもエマが私のそばにいれるようにしてほしい』とだけ頼んだ。
執事からエマのことを聞いていた祖父は私の言い分を聞いてくれて、後日、エマは祖父の使用人として契約を結び直した。
お給料も待遇もあの家よりも格段に上がったはずだ。それでもエマはあの狭い部屋から移ることはなかった。
甲斐甲斐しく世話をやく姿に、伯爵家の使用人の中でエマは私の親鳥の地位を確立していた。
祖父との対面から三日が過ぎた頃、家庭教師が来た。
赤毛をきっちりとまとめ榛色の瞳を眼鏡で隠すアデラインと名乗る女性は、準男爵の娘ということだった。
学園で優秀な成績を収めたのでガヴァネスとしての職を得て、家を出ることができたとも言った。
その通り彼女は博識で勉強家だった。男であれば学術員にでもなれただろうに。惜しいことだ。
私も通った道だからわかる。彼女はどれほど修練したのだろう。
準男爵でありながら作法は完璧だった。
前世と合わせれば彼女との年の差はそれほどなかったせいもあるだろうが、その公平で我慢強かった彼女とは思いの外、気があった。
午前中は図書室か自室で勉強、お昼は祖父がいれば祖父と不在ならアディと取った。
その後、昼寝を少ししてから午後は乗馬やスケッチ、行儀作法の修練などをした。
日曜日はアディが気分転換を兼ねて伯爵邸の礼拝堂ではなく、邸外の教会に行くので勉強はお休みになる。
それが嬉しい習慣として伯爵邸の中で定着していった。
アディは私の覚えの速さに驚いていたが前回の公爵夫人の記憶があるので当たり前だ。
それでも前回不得意としていた乗馬や刺繍、ピアノを教えてもらうのは楽しかった。
特に祖父から聞いていたのだろう。どんな些細なことでもアディは作法のレッスンを欠かさなかった。
前回は母から何も教わらず学園に行ったので、本当に大変だった。
学園は貴族の子女が集う場なので、ただ勉強だけしていればいいというものではなかったからだ。
最初の一年は人目につかないよう心がけ、作法の勉強に打ち込んだ。
それでも、小さい頃より教わってこなかったので乗馬やピアノは大人になっても不得意なままだった。
そのことでいつも夫に馬鹿にされたことを思い出した。
本当に見た目だけのどこまでも不愉快な男だった。
◇◇◇
「お爺様、昨日お母様からお手紙が届きました。お父様と仲良くやっているようですわ」
春の日差しを浴びながら、中庭のガゼボで祖父の空になったカップに紅茶を注ぎながら言った。
オルガは10歳になっていた。
オルガの話を聞いて祖父はニヤリと笑った。
初めてオルガと話したあの日、事務弁護士に手紙を書き、このまま我が娘を蔑ろにするなら品格維持費は渡さないと伝えたのだ。
途端、あの男はロクサーヌの元に訪れるようになった。『現金な奴め』そう心の中で舌打ちをした。
合わせて主治医のマイエにも手紙を書いてロクサーヌを定期的に見るように頼んでいた。
病んだ心が治るとは思わないが何もしないよりマシだと思ったからだ。
あの男は月に2~3度しか滞在しないらしいが、それでもロクサーヌの体調は驚くほど良くなったとマイエは言っていた。
体調が良くなったのは喜ばしいことだが、反面『娘より男か』と思うと自分の娘ながら落胆した。
気を取り直し、オルガの入れた紅茶を飲む。
10歳ながら上手に紅茶を淹れられる。この子は何をやらせてもそつなくこなすと思った。
そう言えば、行儀作法も勉強ももう教えることは無くなったとガヴァネスが言っていたな。
オルガは我が家に来るまで放置されていたとは思えないほど洗練された。
そして商才も子供とは思えない鋭さを見せていた。
自分の孫ながら末恐ろしいとさえ思うほどに。
ただそれだけに、あの山師のような男が父親でなければと思わない日はなかった。
「オルガ、どうだ。王都に行ってデビュッタントの準備でもしてみないか?」
祖父としてもう直ぐ11歳になる孫娘のために、他の貴族の子女と当たりをつけてやりたかった。
だが、いつもオルガの答えは決まっていた。
「いいえ。私が王都に行けばお爺様と叔父様にいいことなど一つもありませんわ。それに…父がおとなしくしているとは思えませんし」
この頃には父にもう一つの家庭があり、オルガとさほど年に変わらない妹がいることは公然の秘密であった。
父は何としてでもオルガの腹違いの妹を社交界に売り込もうと躍起になっていた。
ドゥボー家に寄生虫のように集っている紳士階級でもない父が、娘の美しさだけで上流階級に入り込むなど夢物語に過ぎないのに。
オルガが王都に行けば、きっと父は何としてでも妹と駆けつけ騒ぎを起こす可能性があった。
「しかし、あの男が入れる夜会は殆どあるまい」
「そうですが、そんなことぐらいで黙っているような父ではないと思いますよ。特に私がデビュッタントの準備をしているとなれば尚更です」
オルガは最近、祖父との会話にも子供らしさを気にすることをやめた。
毎朝、祖父と投機や政治の話をするようになったのに子供のふりをする意味がなくなったからだ。
「それに……火がなくとも誰かが煙が見えたと言えば、そこは火事になる。それが社交界だとお爺様が教えてくださったではありませんか」
「―――」
急に紅茶の味が苦く感じられた。
「ガヴァネスがもうお前に教えることはないと言っていた。まだ学園に通うまでは時間があるだろう。どうしたい?」
祖父は話題を変えた。
「そうですね。もし、お爺様がよろしければ自分で投資をしてみたいのです。その為の資金を貸していただけませんか?」
【母のこと、投資のこと】
伯爵邸での滞在がひと月になりやがて半年になり、気がつけば伯爵邸に来てから三年の月日が流れていた。
母は前回の私の人生で亡くなった時をとうに過ぎていた。
父に対する態度は相変わらずだったが、私とは簡単な手紙を交わせるまでになっていた。
あの時は生きる気力をなくし蝋燭の炎が消えるように亡くなった母が、今は定期的に父が来るせいか女主人として家を切り盛りしているらしい。
残念だが父の力は偉大だった。
もう一つ、嬉しい誤算があった。
祖父との生活は考えていた以上に楽しいものだということだ。
早起きをして祖父ととる朝食の時間は今では習慣になり、楽しい勉強の場になった。
そこで投資や商売のノウハウ、政治のことを学んだ。
祖父は子供でもわかるように噛み砕いて教えてくれた。
今では祖父の急ぎの仕事がなければ書斎や中庭を散歩しながら、様々なことを話し合える間柄になっていた。
今日、とうとう祖父に、投資の実地訓練をしてみたいと打ち明けた。
当初の計画では学園に通うときに本格的にビジネスに乗り出そうと思っていた。
しかし、前回と今回は明らかに違う未来がありそうなので新しいことに挑戦してみるのもいいと思ったからだ。
母はまだ元気で生きているし、父の別の家庭のことも露呈した。
(私が手紙を送った時に既に調べはついていたらしい)
何より、あの時は二つ下だったエリーズが今回は半年しか違わないという点だ。
彼女も学園に通うとするなら(通えるならだが)同学年ということだ。
私が人生をやり直していると気がついたのは7歳だが、実際はその前から始まっていたのかもしれなかった。
とにかく、未来は変わりつつある。
このまま、何事もなく父と妹と会うこともなく普通の一生を送る可能性もあるということだ。
幸せは人を寛容にすると身をもって知った。
もちろん備えはするが、何事もなければこのままこの人生を全うしてもいいとさえ思い始めた。
とは言っても、この先、叔父夫婦の庇護下に入るつもりはなかった。
それに、祖父との話を聞けば聞くほど自分の力を試してみたくなった。
祖父同様、公爵夫人だった時に感じたリスクとリターンの魔力に抗えない自分がいた。
長いこと更新できなくてすみません。
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