7 訪れ
二頭立の小型馬車は幌が付いているものだった。
幌を倒してもらい、セルジュの持っていた毛布でぐるぐる巻きにされたオルガはエマに抱かれ、さらに御者の持ってきたブランケットにもかけられた。
外の景色はよく見えたが、身動きが取れない。
「動けないよ」
文句を言うオルガにセルジュは
「これからあっという間に冷えますから、我慢してください」
そう言って自分の馬にまたがった。
速歩で馬車に並走するセルジュは伯爵邸に近づくにつれ気安さが取れ、威厳のある騎士の顔に変わっていった。
このまま、なだらかな一本道を行けば伯爵邸に着くという。
暫く行くと御者が声をかけてきた。
「もう少しで伯爵邸に入りますよ」
街道から伯爵邸へ入る道の両脇にはトンネルのように枝を広げる木が植えてあった。
なんという木かわからないが、まばらに咲いた花とほころびかけた薄桃色の蕾が枝いっぱいについていた。
「見頃はもう少し先になりますけど、この木は秋になると赤い実をつけます。それを村総出で収穫してお祭りをするんですよ。旦那様は毎年、赤い実で作ったお菓子やジャム、お酒を村人に分け与えてくれるので、皆心待ちにしています」
御者の話を聞いて、この木が全て咲いたならさぞ見事だろうなとオルガは思った。
開け放たれた外門をくぐると、馬車は伯爵邸の中へと吸い込まれていった。
館が見えてくるとオルガはその大きさに度肝を抜かれた。なぜ、母と住んでいた家を伯爵邸と思っていたのか。とオルガは思い出して苦笑した。
それも仕方ないだろうと思い直した。もともとあの母と暮らした家に思い入れなどなかったのだから。
それにしてもまるで城だ。正面玄関だけで母と暮らす家と同じぐらいの大きさがあった。
玄関の前は馬車が回しやすいように円形に石畳が敷いてあり、中心にはトピアリーになる木が植えてある。
外縁に植えられた木も綺麗に刈り込まれており、ところどころにオルガの背丈ほどありそうなプランターに黄色とオレンジを中心とした花が植えられていた。
その中を馬車は滑るように走っていく。
馬車寄せに馬車が止まるといつの間にかセルジュがいてオルガとエマを下ろした。
それを待っていたかのように、綺麗に刈り込まれたグレイの髪に白い手袋をした初老の男性がオルガを出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、オルガお嬢様。旦那様は書斎でお待ちですが、お会いになる前に汚れを落とされますか?」
エマはオルガの代わりに頷くと「お嬢様のお部屋はどこでしょう」と言った。
ネイザンと名乗る初老の男性はこの屋敷の執事長だということだ。傍に控えていたメイドに部屋まで案内するように言いつけた。
「必要なものがあればマリーに申しつけください。支度が整いましたら旦那様の書斎にご案内いたします」
そういうと現れた時と同じように音もなく下がっていった。
マリーと呼ばれたメイドは15、6歳ぐらいだろうか?仕事を覚えたての初々しさがあった。
きちんとまとめられた小麦色の髪にメイドにしては珍しい青い目が印象的だった。
「こちらになります」
通された部屋は領主館と同じような子供部屋だったが、こちらの方が広くクリーム色を基調とした明るい室内とは対照的に代々伯爵家の子供達がこの部屋で過ごした歴史が感じられ、ずっと重厚な感じがした。
子供部屋の脇には扉がありナニー用の小部屋が付いていた。
『お母様もここで過ごされたのかしら』今はもう、遠い昔のような母を思った。
先に着いた馬車から既に荷物は運び込まれており、荷は解かれドレスはタンスに綺麗にしまわれていた。
エマはマリーから温かいお湯を受け取るとオルガの顔と手を洗い、埃のついた旅行用のドレスを脱がせ祖父に会うためのドレスに着替えさせた。
エマが用意したのは若草色のドレスには淡いピンクの小花の刺繍が施されていて愛らしいものだった。
仕上げにブラシで丁寧に髪をとかしてもらいピンクのリボンで髪を結わえてもらうと、もう後は祖父に会うだけになった。
「お嬢様、素敵です」
出来栄えに満足したエマがオルガを眺めて言った。
「こちらがお爺様への贈り物ですよ」
「エマ、ありがとう。綺麗ね」
エマはどこから見つけてきたのか小さな箱にベリーを綺麗に詰めたのを渡してくれた。
ドアをノックする音が聞こえ声をかけるとネイザンが迎えに来ていた。
「お待たせいたしました。お嬢様」
ネイザンは慇懃に礼をするとオルガを祖父のところまで先導した。
斜め後ろを歩きながらオルガは祖父にどう対応するか未だに考えあぐねていた。
祖父に会うと決めた時からそれはずっとオルガの頭の中にあった。
7歳を装って無邪気に会うべきか、それとも現状を包み隠さず話して助けを求めるべきか。
もちろん、どの場合でも時間をさかのぼって生まれ変わったなどという話はご法度だ。
それよりも下手な小細工は祖父に見透かされそうだ。
過去の知識といっても、祖父にとってみれば25歳の小娘のそれは取るに足らないものだろう。
それに祖父が忌み嫌う父には全く似ていない、むしろドゥボー家の特徴を色濃く映すこの容姿は利点と言えるのではないか。
ならば―――
オルガの気持ちが固まったのと同時にネイザンが立ち止まった。
「こちらが書斎になります」
ネイザンは書斎の扉をノックした。廊下に乾いた音が響き渡る。
飾り気のないシンプルな扉だが重厚な雰囲気があった。
「旦那様、オルガお嬢様をお連れいたしました」
「入りなさい」
ネイザンは扉を押さえてオルガを書斎に通した。
「初めまして、お爺様。オルガ・ドゥボーです」
オルガは軽く膝を折って挨拶をした。
本来なら父の家門を名乗るべきなのだが、オルガはあえてしなかった。
祖父は立ち上がり黙って頷くと側にある椅子に座るよう促した。
「何もお土産がなかったのでこれを。まだ熟れていないそうですがあまりに綺麗だったので」
肘掛椅子に座る前にネイザンにベリーの箱を渡した。
ネイザンは恭しく箱を祖父に見せると、祖父から二言三言指示を受け書斎から出て行った。
生粋の貴族なら感情を表に出すようなことはない。
感動の涙の対面。という訳にはならないことは百も承知だった。
それでもかけられた言葉の少なさに心がくじけそうになるのをぐっとこらえて祖父の顔を見据えた。
磨き抜かれた黒檀の机に座る老人は白髪の混じるオルガと同じ茶色の髪に冬の空のようなくすんだ青い瞳をしていた。
不意に祖父が話しかけた。
「道中不便はなかったか」
「はい。皆に良くしてもらいました」
それは良かったというように祖父は頷くと思案するようにオルガを眺めた。
またしても重苦しい沈黙が二人の間に横たわった。
祖父は、オルガの不安をよそに自分に似た孫娘を好ましく思い始めていた。
『初めて会う私の孫』
未だに思い出す度に不愉快になるあの男には、ちっとも似ていない。
むしろ自分に、娘のロクサーヌの小さい頃に瓜二つなのに驚いた。
家政婦のレネ夫人の言うことには、ドレスは驚くほど少なかったらしい。
あの男のように虚栄心の塊でもなさそうだ。
しかも、幼いながらも知性を感じさせるあの手紙。
事前に家政婦や執事長からある程度の報告は受けていたが、実際会ってみると自分との血のつながりを強く感じた。
「さて、手紙に書いてあったことだが、どういうことだ」
「私を助けていただきたいのです。お爺様」
ここからが正念場だ。オルガは大きく息を吸った。
「母は私に家庭教師をつけるどころかナニーさえつけてくださいませんでした。エマがいなければ私はもう死んでいたでしょう」
気持ちを落ち着けるように手を胸の前で握った。
「お母様は来るはずのない父を待ち続け、私が三日も意識が戻らなかったことすら知らなかったのです」
話を聞いていた祖父はギョッとした顔でオルガを見た。
「意識が戻らなかった?」
「ええ、お爺様にお手紙を出す前ですけど、熱で三日ほど。そうマイエ先生が言ってました。エマがマイエ先生を呼んでくれなければ……」
「お願いです。図書室の本で勉強するのも、食事の手配を自分でするのも、病気の時に面倒を見てもらうのも……」
『そうだ、私はそうやってあの家を出るまでの15年を過ごしたのだ』そう思ったら自然と涙が溢れてきた。
机に向かっていた祖父はハンカチーフを取り出すとオルガも元へ歩み寄り涙を拭いた。
「では、あの手紙は?」
「お母様がまだ…まとも…だった頃、字を教えてもらいました。そのあとは図書室の本を読んで一人で練習しました。お母様の気分がよければ教えてくれることもありましたが……」
祖父は驚きのあまりその場に棒立ちになったままオルガを見下ろしていた。
彼は自分の娘があの山師に入れあげていたとしても、母としてあの男との娘を大事に育てていると思っていたからだ。
あの屋敷には自分の息のかかったものもいたが、それにしてもあまりにも長い間、娘と孫娘にあえて無関心でいた自分を恥じた。
それにしても、この子は聡い。
女に取り入るだけのあの男の子供とは思えなかった。
我が家門の血が濃いのだろう。そう思うと尚更、今まで放置していた後悔が襲いかかった。
しかし、実家とはいえ嫁した娘が子供を送り出すのに手紙の一つも送れないというのは。
こんな小さい孫娘ですら気を使うのに。一体、娘はどうしてしまったのか——。
だが、そんな母親でも親は親だ。母と子を気軽に離れ離れにしてもいいものだろうか。
何れにしても直ぐには決められないことだった。
「わかった。暫くこの家にいなさい。その間、家庭教師はつけよう。ただ、その先はお前の母の意向は聞かねばならん」
「ありがとうございます。お爺様」
ほっと小さくオルガは息を吐いた。
とりあえずは首の皮は繋がった。
「それと、一つお願いがあります」
「なんだ」
「私がいないことにお母様は気がついていないかもしれません。それでもあのお屋敷に一人きりはおかわいそうです。たまにお父様に、帰ってきてもらうようにできませんか?」
祖父が父を毛嫌いしているのをオルガはよく知っていた。
だが、これは父へのちょっとした嫌がらせだった。祖父がこの言葉の裏側をわかってくれることを願った。
祖父は考えあぐねていたが、オルガを見て言った。
「オルガ、随分大人びたことを言うのだな」
「はい。あの家では子供でいるのが難しいので」
遠くを見るように答えた。
あの家で生きていくのに、何度も子供であることを捨てたことを思い出していた。
「考慮しておこう。さあ、疲れただろうから部屋に戻りなさい。あとは明日だ」
祖父はそう言ってネイザンを呼ぶと部屋に連れて行くよう伝えた。
二人が出て行った後、再び机に戻り伯爵家の事務弁護士に宛てて手紙を書き始めた。