6 不安
翌朝も伯父夫婦と朝食をとった後、前日見ることがなかった領主館を案内してもらっていた。
叔母が家政婦に呼ばれ一時その場を離れた時、伯父はオルガに聞いた。
「伯爵には初めて会うのかな?」
「はい……」
その先が続かなかった。
同じ領内にいながら実の祖父と一度も会っていなかったその訳を言えなかった。
本当のことを言っても嘘をついても角が立ちそうだったからだ。
それにその訳は伯父が一番よく知っているような気がした。
「その……ロクサーヌ、お母上はお元気なのか―――」
沈黙を破るように伯父が再び口を開いたが、その先を尋ねあぐねていた。
子供らしくないのは重々承知だったが、遠くを見つめてオルガは答えた。
「多分」
伯父がなぜ母のことを聞いたのか、真意はわからなかった。
元婚約者への郷愁だったのか社交辞令的なものだったのか。何れにしても私が尋ねるべきことではなかった。
重い沈黙が支配する中、叔母が戻ってきた。
雰囲気が変わった私たちに怪訝そうな顔をした叔母だが、『これだから男の人は』そんな顔をして見せた。
「天気がいいのでアイリスが見頃な東屋でお昼を頂きましょう。そうすれば馬車でお昼寝している間に伯爵様のお屋敷につきますよ」
それから三人で庭を散策しながらアイリスが咲き誇る東屋でお昼をとった。
その後は、祖父の元へと向かう。それだけになった。
◇◇◇
【不安】
母が出奔に近い結婚をした時より、私は伯爵家にとっていないも同然の人間だった。
それが急に面会と滞在を懇願する手紙が届いたのだ。
祖父はもちろん、伯父夫婦とて内心穏やかではなかったはずだ。
それもで終始、温かく迎え入れてくれた彼らは、私の過去に会ったことのない善人といってよかった。
思えば私の周りには搾取するだけの人間が多すぎたのだ。
奪われることに慣れすぎて、与えられることに違和感を感じるというのは笑える。
それよりも伯父夫婦のように祖父も私を受け入れてくれるだろうか?
目下のところ、それが私の一番の関心ごとだ。
私は今、7歳の子供として暮らしている。
いくら中身は成人だとしても、この国で成人と認められる歳までは拠り所が必要だ。
幻影を追い求めて夢の中に暮らす母ではなく、私を守ってくれる確固たる存在が。
それは今の所、祖父しか考えられなかった。
それにしても、初めは違和感しかなかった子供の生活もだいぶ慣れてきた。
当初は自分の体の小ささを思い知らされ、頭と体が一致しない歯がゆさだけの生活も、日々の暮らしを重ねる中で7歳の私と25歳の私との折り合いをつけることが容易になりつつあった。
むしろ7歳の子供のふりをするあざとさを身につけてしまったように思う。
それぐらい今が安穏で幸せだということだ。
しかし、優しさは時に人を脆くする。
この先、私の記憶がどうなってしまうのか。
やはり前回同様、彼らとまた人生が交わってしまうのか、それとも復讐を成し遂げた後に失われるか。
それは誰にも、私にもわからないことだ。
最悪が起こった時、この日記を読み返し、私の過去であり、己の未来を知ってほしいと切に願っている。
◇◇◇
オルガは馬車の中で落ち着かなかった。
伯父の屋敷を出る時、エマとセルジュに会って感じた言いようのない安心感も、これから向かう祖父との対面の前には霧散してしまった。
それくらいオルガは緊張していた。
『無条件で受け入れてもらうのは無理だと思っておくべきだろう。ならばどうやって祖父に自分を認めさせればいいのか。だからと言って策を弄しすぎるのは良くないだろう』
オルガの頭の中はめまぐるしく回転していたにもかかわらず、外を眺めるでもなく、かといってエマと話をするでもなく、座るところを何度も変えたり髪の毛を弄んでみたりと上の空という風であった。
そのうちオルガは体に異変をきたした。
「きぼぢワルい」
それは突然だった。
「きゃー、お嬢様。少しだけ、少しだけ我慢してください」
エマはそういうと御者に馬車を止めさせ、オルガを抱いて転がるように表へ出た。
表に出たオルガは堪えきれずに道端に盛大に戻した。
精神的には堪えられた長旅も幼いオルガの体には酷であった。
祖父に会うというストレスも思いの外負担だったようだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?さあ、お水でお口をゆすいでくださいな」
そう言ってエマは水筒から水を注いだ。
口をゆすいでいるとなぜか一筋の涙がオルガの頬を伝った。
「お嬢様——」
エマの呼びかけに堰を切ったようにオルガは泣き出した。
悲しかったわけでも、恥ずかしかったわけでもなかった。
わけもなく涙が溢れてきたのだった。
心の奥にあったわだかまりを洗い流すかのようにオルガはただひたすら泣いた。
過去に生まれ変わったことなど、二度目の人生をやり直すなどという話など誰にも言うことができなかった。
一人で抱えるには、たとえ25歳の大人だとしても大きすぎる秘密だった。
そしてあの悪夢が、また自分に襲いかかるのかと思う不安でたまらない日々に押しつぶされそうだったのだ。
「ひっく。うっく——」
エマに鼻をかんでもらい、濡らしたハンカチで顔を拭いてもらうと思った以上にさっぱりした。
時間がないと焦るあまり無理をしすぎたようだとオルガは思った。
この体はまだ7歳の子供のものなのだ。追い込むようなことをすれば何れ自分に返ってくる。
オルガは、ここにいる奇跡を恩寵だと思って少しは楽しんでもいいのではないか。と考えた。
いい思い出のなかった子供時代をやり直すぐらいはいいはずだ。どうせ復讐のために今の私にできることは何もない。
余計なことは考えず、前回は会うことが叶わなかった祖父に会えることを楽しもう。
ノエルとまた交わる運命ならなおさら、楽しい思い出が必要だ。
そう考えると気分が軽くなった。
「セルジュ、ここからお爺様のところまでは遠い?」
「そうですね。あともう少しってところでしょうか」
「あのね、少し歩きたいの」
セルジュは迷った。
伯爵邸まで歩いて行けない距離ではないが、あくまでも大人が前提だ。
多少の遅れは織り込み済みだとしても、馬車や侍従も引き連れて歩かせるとなると面倒だった。
かといって幼いオルガお嬢様と二人きりでは不安もあった。
少し時間はかかるがこれが最善だろうと思いついたセルジュはオルガに言った。
「気分転換に少し歩かれますか?馬車は先に行かせますが、疲れたら私の馬に乗って下さるならいいですよ」
「エマも一緒に乗れる?」
「エマさんがよければいいですよ。お嫌でしたら先に馬車で行ってもらいますが」
そう言ってエマを見る。
セルジュに見つめられたエマが頬を染めた。
「でも、私も乗ったら重いのでは?馬がかわいそうです」
「はははは、お二人合わせても私の鎧にはかないませんよ」
確かにそうかもしれないとエマは思った。
普通の馬ではなく軍馬なのだ。
「わかりました。それではお嬢様と一緒にお願いいたします」
そう言ってエマは丁寧にお辞儀をした。
もちろんオルガ一人を残し、自分だけ伯爵邸に向かう気は毛頭なかったが。
話がまとまればセルジュの行動は早かった。
荷物の中から水筒と少しの食料、毛布を取り出すと、従者には、急ぎ屋敷に戻り、折り返し天蓋なしの小型馬車で迎えに来るよう頼んだ。
指示を与えられた馬車は街道を伯爵邸へ向かって去って行った。
「さて、お嬢様方どうされます?少しお休みになられますか?」
「あのね、あそこにいいものを見つけたの」
オルガが藪の中を指差す先に早生のベリーがなっていた。
「うーん。まだ酸っぱそうですね」
「でもきれい。お爺様へのお土産を何も持ってこなかったし」
ああ、そういうことですか。とセルジュは言うとエマと一緒にベリーを摘み始めた。
「家でもこんなことはやったことがないですよ」
「セルジュにも小さい時はあったの?」
オルガは幼いふりをする自分のあざとさが嫌になったが、セルジュのことをもっと知りたかった。
ベリーを摘みながら訥々とセルジュは語り出した。
セルジュは伯爵領内にある商家の四男で小さい頃から兄弟の中でも体が大きかったそうだ。
「男だけで四人ですよ。毎日が戦争でした」
8歳になった時、父母に頼み込んで騎士見習いになったという。
「そのまま実家の手伝いをしてても、他の商家の婿入ぐらいしか道はなかったですしね。それも上手くいってです」
「修行は大変じゃなかった?」
オルガは公爵家の騎士見習いの中で陰湿ないじめが横行していたのを知っていた。
それが元で失踪した者や亡くなった者がいたことも。
「そうですね。伯爵家の騎士は特に礼儀には厳しかったですから。騎士の礼儀なんて平民にはわからなかったので余計です。でも自分で選んだ道だったので嫌だと思ったことは一度もなかったですね。先輩方は顔こそ怖いですけどみんな紳士でしたし——」
そう言って厳しい時の上司の顔真似をして見せた。
その顔があまりにもおかしかったのでエマと二人で思いっきり笑う中、セルジュはベリーを大事に布に包むと言った。
「さあ、大分ベリーも摘めましたし、日が陰る前にはお屋敷につきたいので行きましょう。歩かれますか?馬に乗りますか?」
「少しだけ歩きたい」
オルガは元気よく言ってセルジュとエマの手を握った。
手をつなぎながらオルガは聞いた。
「お爺様は、伯爵様はどんな人?」
「直接会ったことはないのですが、公正な方だと聞いております。使用人に対しても」
それ以上の情報は得られなかった。
セルジュがお抱えの騎士と言っても新米だ。まあ、そんなことだろうとオルガは思った。
使用人に対して公正だというなら、ないがしろにされることはないだろうと思った。
三人で並んで歩いていると早春の少し冷たい風が若芽の匂いを運んできた。
そろそろ暖かな日差しも陰りを見せはじめた頃、前方から二頭立の小型馬車が現れた。
「ああ、ちょうど良かった。今度の馬車は景色を見ながら行けますよ」
そう言ってセルジュはオルガを抱き上げた。
口にはしなかったが、オルガの体は疲れを感じていた。
そのままオルガはセルジュの首に抱きつくと耳元に囁いた。
「私たちだけの時は、セルジュは私のお友達でいて」
セルジュは驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって
「わかりました。二人の秘密ですね」と言った。
10話で終わらなそうな悪寒