5 領主館で
一泊目の宿を出て一行は街道を南下していく。
春と言ってもまだ浅く、晴天ではあったものの空気はひんやりと冷たかった。
街道沿いの木々は芽吹いたばかりの小さな芽を枝いっぱいにつけていて、枝が緑に見えるほどだった。
そしてその奥に広がる、きれいに均されていて植え付けを待つばかりの畑と収穫前のまだ青い麦の畑が見えた。
青い麦の間からは納屋を伴った家が数軒点在しているのが見えた。
その家々は大きさはまちまちでも、きちんと手入れがなされているのが見て取れたし、煙突から登る煙を見れば彼らの生活への不安は感じられなかった。
のどかな田園風景。それが祖父の領地へのオルガの印象だった。
そういえば、昨日泊まった宿場も活気があって治安も良かったことを思い出した。
夫、ノエルに殺されるまで自身も領地運営していた経験上、祖父は領地運営も成功させているようだ。
それにしても、こんなにゆったりとした旅は初めてだった。前世というか前回の人生で馬車といえば、寸暇を惜しむように書類の精査をするか仮眠をする場所でしかなかった。景色を楽しむなど気にかけたことすらなかった。
しかし、初めは物珍しさでいっぱいだった悠々とした旅も、二日目になるといささか飽きてきた。
子供の体ではできることが限られているせいでもあった。
隣で並走するセルジュが、時々、馬車を覗いてはオルガが飽きないように話しかけたり、野辺の花を摘んでくれたりしたが、過去の染み付いた習慣というのは恐ろしい。何もすることのない時間というのを苦痛と感じ始めていた。
そんなオルガの様子を察知したのか、セルジュは馬車を止めることができる草原や空き地を見つけると、進んで休憩を取ってくれた。
そこでオルガは、前回では体験できなかった子供時代を満喫していた。
エマがせっせと野花を集めて髪飾りや冠を作るのを眺めたり、セルジュを伴って辺りを散策するついでにエマのために花を摘んだりもした。
そして渋るセルジュを説き伏せて『少しだけ』とせがんで軍馬にも乗せてもらったりもした。
セルジュの馬はエクリプスという名の芦毛の軍馬で3歳になったばかりだという。
「私と一緒でひよっこなんです」
「こんなに大きいのに?」
「こんなに大きくても」
そう言ってセルジュは笑った。馬と自分とをかけているかのようであった。
一度だけエマを乗せたこともあったが、その時は何故か二人とも無言だった。
降り際にセルジュの胸ポケットにに花を挿していたのをオルガは見逃さなかった。
馬車の中でオルガはわざとエマに問いかけてみた。
こんな時は社交界を渡り合った意地の悪い公爵夫人の顔が出てくる。
「エマ、お馬さん、怖かった?ずっと黙ってうつむいてたから。私は楽しかったけど……」
「……そうですね。ちょっと高くて怖かったかもしれません」
「でもセルジュがいたから大丈夫だったでしょ?」
「……そ、そうですね……」
そう言ったきりほおを赤らめたまま俯いてしまった。
そんなエマを横目で見ながらオルガは『これぐらいにしておこう』と思った。
春とはいえ午後の日は短い。少し日が傾きかけた頃、次の宿泊先が見えてきた。
それは想像していた街道沿いの宿ではなく、母屋から左右に翼棟のある立派な領主館だった。
「オルガお嬢様、今日はあそこに見える領主館に泊まります。そこには伯爵家の領地を管理しているものがおります―――」
そう言ってセルジュは次の言葉をどのように言ったらいいのか、考えているようであった。
が、結局はそのまま前を向いて馬を進めた。
領主館に着くと、中から執事を伴って主人自ら馬車寄せまで出向いてくれた。
オルガが馬車から降りるとき、わざわざ抱き上げてくれさえした。
「ようこそいらっしゃいました。オルガ様。私はエリオット、こちらが私の妻でペネロープ。姓は同じドゥボーですから名乗らずともいいでしょう。私はあなたの義理の伯父にあたります。どうぞ宜しく」
そう言ってオルガの手をとると軽くキスをするふりをした。
茶目っ気のあるその人は、オルガと同じありきたりな茶色のくせ毛にやはり燻んだ青色の瞳をしていた。方や彼の妻は、見た目こそ懐かしさを覚えるような容姿であったが、艶のあるブルネットに美しい紫がかった青色の瞳をしていた。
聞けば義理の伯父と言う人は、近くもないが遠くもない縁のある家から伯爵家に養子に来たと言った。
それを聞いて、どうやらオルガの冴えない髪も目もドゥボー家の家系らしいと直感した。
それにしても、彼はただの管理人ではない。いずれ祖父の後を継いで伯爵家の当主になるのだとわかった。
オルガの頭の中にありとあらゆる可能性が瞬時に浮かんだが、そんなことはおくびにも出さず7歳の子どもらしい振る舞いに気をつけた。
「はい、ありがとうございます。おじさま。私の事はオルガと呼んでくださいな。今日はお世話になります」
そう言って大人びたお辞儀をして見せた。
伯父夫婦がオルガを二心のない、温かい気持ちで見つめているのに気がつき、少し後ろめたい気持ちになった。
いつでも駆け引きというものが念頭にある自分を恥じて『魂が大人というのも存外やっかいだな』そう、ひとりごちた。
そんなオルガの思惑を知らない伯父は、長旅で疲れたのだと勘違いしたようだった。
「お小さいのに馬車の旅は大変だったでしょう。お風呂を用意してありますから旅の汚れを落としてください。その後少しお昼寝されるといいですよ」
そう言って私をメイドの一人に預けた。メイドが部屋へと向かうその後ろを、大きめのカバンを持ったエマが付いてくるのが見えた。
◇◇◇
【母の婚約者】
二日目は祖父の屋敷近くの領主館に泊まることになった。
ここから祖父の家までは馬車でゆっくり行っても二時間はかからないという。
あえて今日、ここに滞在するは子供の私のために時間に余裕をもたせた日程のせいでもあるが、伯父夫婦が私と会いたがったのも大きな一因でもあった。
そこの主人は私の義理の伯父を名乗り、伯爵、つまり私の祖父の養子だという。
30歳前後と思われる年回りからして、彼は母の義理の兄にあたることになるのだろう。
つい最近結婚したとも聞いた。
祖父は、若い二人に気兼ねなく新婚生活を送らせるよう、暫くの間、伯爵邸ではなく此の領主館に居を構えさせたのだ。
前回はあまり接点がなかったせいで失念していたが、爵位と一門の大きさから言って、母が祖父の反対を押し切って父と結婚したのであれば、後継を据えるのはごく自然なことであった。
むしろしていない方が不思議であった。
親戚筋より選ばれた伯父は、祖父の眼鏡にかなうような有能な人なのだろう。
それにしても、この冴えない髪と目は家系だったのか。
家門で集まった時などは、さぞや壮観だろうなと皮肉の一つも言いたくなった。
後で知ったのだが、義理の伯父は実は母の婚約者だったという。
遠縁にあたるらしいその人を、祖父が一人娘であった母の婚約者にと決めたのだ。
父のように美しくはなかったが、温かみのある言葉や仕草から彼の人柄がうかがえた。
服装も公爵夫人であった私の目から見ても、派手ではないがシックでセンスが良かった。
孔雀のように派手に着飾る夫や父を目にすることが多かったので、伯父の服装には大いに好感が持てた。
私という人間がこの世に生まれることがなかったとしても、母がこの人と結婚していれば。と思わずにはいられない、そんな人であった。
彼の隣で微笑む夫人の幸せそうな顔を見て尚更そう思った。
そして彼らが何れこの伯爵家を継ぐのだ。そしてこの先生まれるであろう子供たちが。
セルジュが言い淀んだ理由はこれだったのかと知った。
この国では、余程のことがない限り世襲財産と爵位は男が継ぐものとされていたから仕方のないことなのだが、直系の私が婿をとって伯爵家を継ぐという選択肢が見えてきたのを、セルジュは感じ取ったのだろう。
だが、セルジュは知らない。
私は私の父が生きている間はあの男に付け入る隙を与えない為に、どんなことがあっても伯爵家を継ぐ気は毛頭無いということを。
いや、たとえ生きていなくとも復讐を誓い、この手を汚すことにした私には家門だけはきれいなままで守りたかった。
それにしても、この事を父は知っているのだろうか?
それとも知らないまま、伯爵家を継ぐ夢を未だに見ているのだろうか?
◇◇◇
メイドがオルガを湯浴みさせている間に、エマはオルガの部屋を整えていた。
一泊だけなので大きな荷物は解かず、最低限のものだけを持って部屋に入った。
オルガに用意された部屋は、隣にナニーの部屋が併設された淡いピンクを基調とした可愛らしい子供部屋だった。
真新しい調度品を見れば、この日のために伯父夫婦が用意したとみてよかった。
自領の屋敷のけばけばしい子供部屋と比べると雲泥の差であった。
エマは小さくため息をついた。
『お嬢様は愛されてしかるべきお方なのに……』
エマは、高熱から後のオルガが時折見せる大人びた表情が気になっていた。
何かを諦めたような顔、どこか遠くを見るような思慮深い顔。
どれも7歳の子供がする表情ではない。
あの家は子供が暮らす家ではない。お嬢様の為にも家を出るべきだと考えていた。
ただその方法が一介の侍女には思いつかなかった。
それにしても、やはりドレスを新調しておいて良かったと思った。
今夜、この領主館の主人と簡単な食事をすることになったからだ。
7歳のオルガが、どこまで理解できているかわからなかったが、侍女として仕えているお嬢様に惨めな思いだけはさせたくなかった。
新しい下着と寝間着を持ってオルガの元へ行こうとした時、大きなタオルに包まれたオルガが部屋に運ばれてきた。
メイドにタオルでグルグル巻きにされてはしゃいでいた。
「まあ、お嬢様。お迎えに行きましたのに」
「いいの、いいの。ジュディにお願いして連れてきてもらったの。ジュディは上手にぐるぐる巻きのできる達人なんだって」
ジュディと呼ばれたメイドは恐縮していたが、エマは感謝の意を表しオルガを受け取った。
「では、寝間着にお着替えください。少しお昼寝をしてから伯父様とお夕食ですって」
「寝なきゃダメ?」
「お夕食時に寝てしまっても構わなければ、どうぞお好きになさってください」
オルガはちょっと不満げな顔を見せたが、すぐに言われた通り、寝間着に着替えるとベッドに横になった。エマに布団をかけてもらい少し興奮した様子で湯浴みでのジュディのことを話し始めた。
「あのね、エマ―――」
オルガはそのまま続けることができずに、すぐに寝息を立て始めた。
◇ ◇ ◇
「お嬢様、起きてください」
エマに揺り動かされて目が覚めた。
オルガはベッドの上で体を起こすとぼんやりと前を見ていた。
『子供の体はすぐ疲れる』そう思った。
公爵夫人だった頃は家門の建て直しに馬車での仮眠だけで幾日も働いていたというのに、今はベッドに横になっただけで直ぐに寝てしまう。
食事時にスプーンをくわえたまま寝てしまったこともあった。
『子供とはそのようなものだったか……』
前回は自身にも周りにも子供がいなかったので分からなかった。
まだぼんやりとしているオルガにエマはさっさとドレスを着せていく。
されるがままお嬢様に仕立て上げられていた。
身内だけの簡単な夕食会だということだが、最低限の礼は尽くさなくてはいけない。
新しいドレスは縹色の厚地のサテンで、スカート部分には生成りのレースをふんだんに使ったものだった。
瞳の色に近いドレスはオルガによく似合っていた。
同じ色のリボンで髪を一つに結わえてもらうと、迎えに来た伯父に連れられてティールームへと向かった。
「本当なら食堂にお連れするべきなんだが、そうなるとオペラグラスで見ないとオルガの顔が見れなくなるからね」
そう言って伯父はウインクをして見せた。
手で口元を押さえて笑いをこらえていると、叔母もやってきた。
三人でティールームに入ると丸テーブルに椅子が三つだけ置いてあった。
こじんまりとしたその部屋にはオレンジと黄色を基調とした花が活けてあり、燭台がいたるところに置いているせいで暖かな雰囲気を醸し出していた。
「今日は私が給仕をするよ。好きなものを取ってあげるから言ってごらん」
そう言って伯父はテーブルの脇に置いてある料理を指し示した。
食事はオルガに合わせて簡単なものだった。
とは言っても、コースではなく皿に好きなものを好きなだけ取れるようになっているだけで、品数は沢山あった。
オルガはマッシュルームとチキンをクリームで煮たのと人参のグラッセと豆を煮たのをよそってもらった。
叔母も伯父に給仕をしてもらっていた。
時々、この部屋で二人きり、使用人抜きで食事をするのだと言った。
「気兼ねなくお話ができますでしょ?」
そう言って叔母は微笑んだ。
伯父と叔母はオルガの生活を聞きたがったが、母や屋敷での事はこれと言って話すことはなかった。
言えば言うほど惨めになるのがわかっていたし、日がな一日、窓の外ばかり見ている母のことを話しても場がしらけるだけだからだ。
伯父夫婦も察したのか、ある時点から聞くのをやめた。
その代わり、道中や初めての外泊の話へと自然と流れていった。
伯父や叔母は隣国の保養地への新婚旅行のことを話してくれた。
オルガは反対に軍馬に乗せてもらったことや馬車に揺られてお尻が痛くなったことを話した。
昨晩のエマとセルジュとの食事も楽しかったが、伯父夫婦の食事もまた心に残るものだった。
いつの間にか、お皿の料理はオルガのお腹の中へと消えていった。
空になった皿を見つけた叔母が、オルガの口元をさりげなく拭きながら聞いた。
「オルガ、デザートは何が好きかしら。まだお腹に入りそう?」
「シラバブなら食べられそうかしら。オルガのためにアルコールは抜いてあるのよ」
そう言ってグラスに盛られたフルーツにシラバブのデザートを目の前に置いた。
「わぁ」
オルガは感嘆の声をあげると、無心にシラバブを食べ始めた。
前回同様、シラバブはオルガの好物でもあったのを思い出していた。
ちょっと私用で更新ができませんでした
皆様は花粉症はいかがでしょうか?
今年、どうもデビューを果たしたようで辛いです