34 遺言
「___ガーネットのブローチと紹介状。次にメイド長の……」
『くそっ。俺の金が』
オルガの父、アランは、遺言状が読み上げられる度に声をあげそうになった。
『一体あの女は何処まで施せば気が済むんだ?』
始めは銅貨やらワインやら他愛もないものだった。
だが、開示が進むにつれ贈与の質が変わっていった。
『このままじゃ、俺の番がきた日にはオケラ同然だ』
組んでいた足を右に左に落ち着きなく組み替えては、小刻みに足を揺らす。
アランは書類上の妻だった女の資産を知らなかった。
いや、正確には教えてもらえなかったと言うのが正しいだろう。
『俺に執着していたくせに、肝心の金の事にはいつだって渋かった』
「管財人に任せてあるから」気取った口調でそう告げるあの女を、何度、揺さぶってやりたかった事か。
『チッ、あの時あれほど負けが込んでなきゃ、絶対サインなぞしなかったのに』
月に一度、妻と食事を共に摂り、屋敷に泊まる。
品格維持費の増額とともに出された条件がそれだった。
初めアランは、オルガの祖父が出した条件を、造作もないことだと鷹を括っていた。
あの女の陰気な顔を見るのが嫌で、滅多にこの屋敷に訪れることはなかった。
だが、金のためと思えば、一日や二日ぐらいならあの女と一緒でも耐えられる。
どうせ、広い屋敷だ。顔をあわせることもないだろう。と、気楽に考えてもいた。
それに、アランが顔を出すと、オルガの母が喜んで賛美の表情を向けていたことも決め手になった。
『ついでにあの女からもう少し巻き上げてやるか』あの時は、旨みのある話にしか思えなかった。
それがいつからだろう。二人の関係が急速におかしくなっていった。
賛美の目が、咎めるでもなく、ただただ冷めた目で俺を見つめ出した。
食事の作法がわからなかったからか?書斎で隠れて泥酔するほど酒を飲んだ時?
それともあいつの宝石箱からミリに渡すアクセサリーを物色して……。
不意に妻だった女の顔が脳裏に浮ぶ。
俺を見て喜んだあの女の表情が、途端暗く翳るのだ。
唯でさえ陰気な女の感情のない目が鬱陶しかった。
『賭けの負けが込んで無心する時に来るくらいが丁度よかったんだ。それにしたって、あの女に金の無心なんぞしたくなかった。あいつが爺いを説得してさえいれば……』
アランは、あの女が小切手を切ればいいものを、わざと執事に金を持って来させるのも嫌だった。
顔には出さないが、あの執事のひんやりとした空気。
いつも奪うように金を受け取ると、踵を返すように屋敷を後にしていた。
「___長年私を支えてくれた侍女のメラニーには感謝を込めて青い小花のティーセットと年金を贈ることとする」
顧問弁護士の声が響く。
『っ!何だってあれこれ気前よくやっちまうんだ』
アランは無意識に爪を噛んでいた。
爪を噛む癖もアランの悪癖の一つだった。
カードで負けが込んでくると、気がつかないうちに爪を噛んでいた。
頭に血が上り冷静でいられなくなるアランは、賭け事師らのいいカモだった。
自分でもよく分かっていたがどうしようもできなかった。
それをミリはわざと甘えた声を出し我儘を言って拗ねてみせ、テーブルから引き離してくれた。
ミリ。俺の可愛い妻。
誰よりも俺をわかってくれる。
美しい娘、エリーズを産んでくれた俺の伴侶。
揺する足が大きく音を立てた。
ハッとして顔を上げると、あの女の産んだもう一人の娘、オルガと目が合う。
蔑むでも咎めるでもない、感情のない目。
あの女と同じ、寒い冬の空の色をした瞳。
裏路地で凍えていたのを思い出す嫌な色だ。
慌てて目を逸らすと彼奴の言葉が聞こえてきた。
『お前は欲をかきすぎる』
本当なら、お高くとまった貴族の娘を辱めて口止め料を貰うだけだった。
『まさか、一度で子供ができるとは』
アランは初め面倒なことになったと思ったが、次第に欲が出てきた。
よくよく話を聞けば伯爵の一人娘だという。調べれば領地に引っ込んではいるが、金のある家だ。
上手くいけば娘婿として入り込める。2〜3年我慢して、後継になって仕舞えば……。
欲という名の砂をかき集め城を建てようとしていたアランにその男は言った。
『お前には謀は無理だ。口止め料を貰ったら直ぐにここを離れるんだ。ミリに子供のことがバレる前に……』
彼奴は頭が切れた。頼りにもなった。
だが、いつも上からの命令口調に辟易としていたアランは、その時初めて男の忠告を無視した。
「___エリオット卿の夫人に、ドゥボー家の女主人の指輪を継承する」
アランはハッとした。
夢想に耽ってる間に遺言状は親族へと移っていたのだ。
思わず立ち上がると、アランは勢いに任せて弁護士に怒鳴っていた。
「待て!ドゥボー家の女主人の指輪なら俺の妻が受け取るのが筋だろ?俺があの女の夫だったんだから!」
それは道理ではなかったがアランには関係なかった。アランの中ではあの女の物は全て自分の物だ。
「しかし、アラン様のお連れ様にはそのような権利は……」
「連れじゃない。ミリはれっきとした俺の妻だ。ここに教会の結婚証明書がある」
アランは証明書を弁護士の元へ突きつけた。
「これは……確かに正式なものですが。しかし、奥様が亡くなられ……いや、まあいいでしょう。ふむ。こうなると遺言の内容が少し変わってきますな。伯爵、先にアラン様の遺言を開示してもよろしいですかな」
そう言って弁護士はオルガの祖父を見た。祖父は、元義理の息子が喪も明けないうちに再婚したことなど問題ないとでも言うように、手で合図をすると先を続けさせた。
「順番でしたら、アラン様はオルガお嬢様の後でお呼びするはずでしたが、ご結婚されているとなると遺言が大きく変わりますので、先に進めさせていただきます。遺言者であるロクサーヌ様より”夫であるアラン氏には全財産を譲るものとする。但し___」
弁護士は側にあった紅茶を飲み干すと静かに遺言状の続きを読み始めた。
「第一子であるオルガが成人するまで再婚、内縁関係は認めない。これに反して__」
「なんだって!」
アランは驚きのあまり、馬鹿みたいに口を開けたまま棒立ちになった。
ようやく事の次第が飲み込めると、自分に言い聞かせてもいるかのようにボソボソと喋った。
「___それなら、離婚すればいいのか?」
その言葉尻を弁護士は離さなかった。追い討ちをかけるように続ける。
「いいえ。残念ながら、今この時点でアラン様の遺言は無効になりました」
無情な言葉にアランは途方に暮れた。
何の為に、今まで耐えてきたと?
足元が揺れている感じがして倒れそうになる。
弁護士はそんなアランの気持ちなどお構いなしに遺言を読み上げていった。
「これに反して結婚した場合、全ての権利が放棄され、その代わりに商業地区にあるタウンハウスと信託財産からの年金が与えられる」
まるで自分のことではないようだった。それでも全財産は貰えなかったが(あの女の財産がどれほどのものか分からないが)少なくとも、家と金はもらえるようだった。
弁護士から家の住所を聞いたアランは喉がヒュッと鳴った。
そこはアランが、永年住みたくて仕様がなかった場所だったからだ。紳士階級や下級貴族のひしめく閑静な住宅街。
どんなに足掻いても、アランが足を踏み入れることの叶わない紳士クラブのある街でもあった。
先程の失望が嘘のように、これも悪くないな。と思い始めていた。
こんな片田舎の広いだけが取り柄の屋敷より、街中の洗練された家の方がどれだけ価値があるか。
いずれそこで知り合った金持ちの男にオルガをくれてやるのも悪くないだろう。
何と言ったって伯爵の孫娘だ。お飾りとしては悪くないはずだ。
うまくすれば一緒にクラブへ出入りできるかもしれない。
これは運が向いてきたのではないか。そう思い始めたアランだった。
「遺言の途中だがな、アラン」
不意にオルガの祖父が沈黙を破るように口を開いた。
「ロクサーヌから、オルガの身の振り方を頼まれておってな。単刀直入に言おう。親権を儂に譲らぬか?」
「……」
アランは警戒をした。
書類上の妻がいなくなった今、貴族との繋がりを感じられるオルガを手放す気にはなれない。
それにまだ”オルガには利用価値がある”のだから。
「お義父さん、それはどうでしょう。オルガは私の娘ですからね」
その言葉を聞いて、オルガの瞳が暗く翳るのをアランは見逃さなかった。
あの女の娘などどうなっても構わないが『全財産を相続する娘なら尚更繋ぎ止めておかなくては』と本能が告げていた。
「確かにそうだな。だが、あのタウンハウスに住むのならこれが必要なのではないか?」
祖父はヘッダーに紋章のような模様の付いた紙を広げた。
アランは目を凝らす。その紋章には見覚えがあったからだ。
興味のないふりをして何度も通り過ぎた建物にさりげなく描かれた紋章、まさにそれだった。
「こ、これは……」
「そうだ。紳士クラブの紹介状だ。無論、無料で渡すわけにはいかん。ここは紳士らしく取引と行こうじゃないか」
アランの弱みをつくような言葉を祖父は並べた。
アランは”紳士”という言葉に弱かった。もはや急所と言っても良かった。
美しさでは王族に引けを取らないはずの自分が、裏路地で燻っているのは爵位がないからだと本気で信じていた。
せめて”紳士”の肩書さえあれば、いつだって表舞台に出ていけると根拠のない自信を常に胸の中に秘めていた。
「それとこれは支度金だ。紹介状だけではクラブの会員とは言えんからな」
更にアランが今まで見たこともない金額の小切手が置かれた。
アラン親子が、ゆうに一年は遊んで暮らせる金額。
『あの女の金があっても、あの街で暮らすならミリやエリーズ、いや、俺にこそふさわしい服が必要だ。クラブの会員になるんだから』
アランは既に、貰った金をどう使うかと考え始めていた。
「裏書はない。もし、お前が親権を放棄するのであればお前の名を書き込もう。この紹介状と共に」
祖父は無駄な駆け引きをしなかった。アランがそれをわかる人間ではないからだ。
それでもアランは目の前にある小切手の額と紹介状を前にどうするべきか悩んだ。
『彼奴ならどうするだろう。ああ、こんな時にこそ彼奴がいてくれたなら……』
オルガを手放すのは賢くないことだとわかってはいても、目の前には欲しくてたまらなかった物が自分のものになろうとしている。
彼奴ですら手に入れることの出来なかったものが自分の物となるなるのだ。
悩んでいたアランは顔を上げると、はっきりと言い放った。
「いいでしょう。親権はお義父さんにあげますよ」
オルガの父親の回が終わったら、新章に入ります




