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30 因果

目が覚めるとオルガは祖父と馬車の中にいた。

何故、祖父とともにまだ馬車に揺られているのか、直ぐにはオルガは理解する事ができなかった。

全て曖昧な霧の中にいる感じで、まだ夢から覚めていない。そんな気さえしていた。

御者が馬にかける掛け声と車輪が轍を進む音すら、遥か遠くに聞こえる様だった。

何より、早馬を待っていたはずが、何故か毛布に包まれて祖父に肩を抱き抱えられているのか理解できなかった。

あれからどれぐらい経ったのだろうか。辺りはもう夕暮れ色に染まっている。

早春の日が落ちた馬車は冷え冷えとし、肩を抱く祖父の大きな手の暖かさだけが毛布越しから伝わるだけだった。

身じろぎもせず祖父に抱えられていたせいだろうか。オルガは腕が少し窮屈に感じられ位置をずらそうとした時、祖父はオルガが目覚めたのに気がついた。


「気がついたか?」

「お祖父様。此処は——」

オルガのぼんやりとした問いかけに祖父は答えなかった。

しかし、祖父の苦痛に満ちた表情を見て、オルガは瞬時に悟った。

頭の中の霧が晴れ渡ると同時にオルガは軽く混乱もした。


「——お祖父様、お母様は?危篤ってどうして?この間の手紙には元気だとあったばかりなのに。何かの間違いですよね。だって暖かくなったらお母様の元へ行くと約束したばかりなのに。お祖父様、危篤って本当にお母様のことなのですか?」


次々と不安の言葉が溢れ出すオルガの肩を祖父はまたしっかりと抱えた。


「オルガ、聞きなさい。危篤という伝令は本当だ。だが、事実を知るために——私たちは今荘園に向かっている所だ」


祖父の声は優しく落ち着いてはいたが、僅かだが震えているようにも感じられた。


「オルガ。母の元に早く行きたいだろうが、日も暮れてきた。今日はこの先で宿をとって早朝、出発をする。いいね」

「でも……」

「人も馬も休む時間だ。急げば事故になりかねん」


そう言うと、あやす様にオルガの肩を叩いた。

確かにその通りだった。領主館から戻る途中、何の準備もなく折り返してきたのだから。


「心配はいらん。日の出前に出れば昼頃には向こうに着くだろう」


初めて伯爵邸へ、祖父の元へ向かった時は、幼いオルガの為にゆったりとした行程を組んでいた。

しかも、オルガに会いたいという叔父夫婦の希望で遠回りもしたので2泊かかったが、実際にはそれほど遠くはない距離にオルガの育った荘園はあった。

とは言っても、騎士が騎馬で早朝に出て夜には着く距離——途中で馬を替える時間ぐらいしか休みを取らないとして——通常ならば途中で一泊するのが常であった。


「宿までもう少しだから、これを飲んで少し寝なさい」


そう言って祖父は胸のポケットから純銀製のスキットルを取り出し、中の液体を少しだけオルガの飲ませた。

苦くて熱い物がオルガの喉から胃へと落ちてく。


「お母様は大丈夫なの?」

「ああ、大丈夫だ。マイエ卿が面倒を見てるそうだ。奴の腕なら死人も生き返るからな。心配することはない。絶対、大丈夫だから……」


その後も、オルガの肩を優しく叩きながら祖父は『大丈夫』と『心配ない』を繰り返していた。

それはオルガに語りかけると言うより、まるで自分に言い聞かせている様でもあった。


馬車は、宵の明星が輝き出す頃に宿屋に着いた。

そこはオルガがエマとセルジュと初めて泊まった宿だった。

あの時は、母が亡くなるなど微塵も考えていなかった。

回帰前の通りなら、後3年もすれば母の死に直面しなくてはならないとしても、祖父が受け入れてくれさえすれば何かが変わるのではと希望があったからだ。


「簡単な食事を部屋に運ばせるから食べたらすぐ寝なさい。いいね。明日は夜明けと共に出立するのだからな」


それだけ言うと祖父は自分の部屋へ下がった。


食欲はなかった。それでもスープを無理やり押し込むと、宿の小間使いに寝る支度を手伝ってもらいベッドに潜り込んだ。


暗い天井を見つめながら母との思い出を思い出そうとしたが、おかしな事に何一つ思い浮かばなかった。回帰前も回帰後の事も……。

それなのに母がこのまま亡くなってしまうのでは。と、思うと妙に心がざわついて眠れる気がしないでいる。

母に対して何の感情もなかったはずなのに、オルガの心は今、千々に乱れていた。

それでも、何度も寝返りを打ちながら暗闇を見つめるオルガに、何時しか微睡が訪れた。


その夜、オルガは夢を見た。


<気がつくとオルガは真っ白い部屋の中にいた。

令嬢が好むような少女趣味の華奢な天蓋のついた寝台に横たわる女性の手を握る一人の少女がいた。

ベッドの上の女性からは死の匂いが漂っていた。

血の気のない頬に乾いた唇。虚に見開かれた目は、母の手を必死に握る少女を見ようともせず(くう)を見るだけだ。


「お母さま、死なないで。お願い。私をひとりにしないで」


少女は今にも命の火が消えかかる女性を必死に呼び戻そうとしている。


「アラン……アラン、どこ?」


うわ言のように呼ぶ名は少女のものではなかった。


暫くすると、女性の侍女らしき女が近づいて、泣きじゃくる少女を叱責し部屋の外へと連れ出した。

その後も女性は少女を気にも止めず、来るはずのない男性の名を呟くだけだった。>


オルガはそこで目が覚めた。

それは回帰前の母が亡くなった時の記憶だとオルガは気づいた。

やるせない夢だった。

あの時、母は幻を愛したまま孤独に死んでいった。


オルガは、もう眠れそうになかった。

それに喉が痛い。起き上がりサイドテーブルに置いてあった水差しから水を注ぐと一気に飲んだ。

水は涙の味がした。

無意識に頬を撫でると濡れている。夢を見ながら泣いていたのだとオルガは気がついた。

『母は今度もやはり父の名を呼びながら死んでいくのだろうか』

ふと、冷静になったオルガはこれから会う母のことを思った。

手紙のやりとりからあの頃の母とは違っていると理解しているつもりだったが、それでもオルガは未だ確証できずにいた。



翌朝はどんよりと曇った陰気な天気だった。

日の出前だとしても、天気の悪さは隠しようがない。

オルガは昨日の小間使いに着替えを手伝ってもらい、慌ただしく朝食をすますと急いで下へ降りた。


「雨さえ降らなきゃいいんだが」

「なあに道が乾いてりゃあ、ぬかるむ前につけるだろうよ」


表へ出ると御者と宿の主人のやりとりが聞こえてきた。

傍で馬丁はランプを灯し、併走する騎士は雨よけのマントを羽織っている。

不安と胸騒ぎで空を仰ぐと今にも落ちてきそうなほど厚い雲が広がっていた。

『どうか雨が降りませんように』と、オルガは心の中で神様に祈った。


祈りが通じたのか、どうにか天候は持ち堪えてくれた。

御者はぎりぎりまで馬車を飛ばし、なんとか昼前には荘園へ着く事ができた。

荘園に着き、やつれた面持ちのオルガと祖父が馬車を降りると、これまた同じようにやつれた執事が出迎えてくれた。

飛ばす馬車に揺られ疲れ切ってはいたが、執事の様子から母の具合が思わしくないと察せられる。

オルガはドレスの埃を払う事もお茶を飲む間も惜しんで祖父と母の部屋へと急いだ。

どちらの人生でも数回しか入ったことのない母の部屋は、夢の中で見た部屋によく似ていた。


白とピンクとフリル。それがオルガの母の世界といえた。

白地にピンクの薔薇が描かれた壁紙。窓にかかったカーテンは落ち着いたスモーキーなピンクではなく淡いパステルのピンク色で白のレースがあしらわれている。

中央にある少女趣味と言われても可笑しくない華奢なベッドにもフリルをふんだんに使った天蓋がついていた。

家具も未婚の女性が好みそうなものばかり置いてある。

夫人(既婚者)であり母でもある女性の部屋とは思えない幼い雰囲気の残る室内に、オルガは胸を痛めた。


母は幼かったのだ。


若くして誰の助けもなく親になった母。

卑劣で不実な男を愛した為に、孤独の中で子供を産み生きなくてはならなかった。

自業自得と言えばそうかもしれないが、それでも誰かが彼女を助けるべきだったのだ。

貴族社会に於いて父と呼ばれる人間ができうる限りのことを祖父はやっていたとは思う。

だが、本当に必要だったのは彼女の心に寄り添ってくれる人だったのだ。

それは子供の父であり彼女の夫である男。あるいは彼女の人生の先輩となり得る人が。


「お母様……」


オルガはその次の言葉を発する事ができないでいた。

夢の中で見た女性の様に、母もまた死の匂いが漂っていたからだろうか。それとも、母親の中の幼さを垣間見てしまったからだろうか。

夢の中の女性と違うことといえば、今は熱のせいか頬が紅潮していた。


祖父に促されるように母の元へと足を運ぶ。

記憶の中の母より若く、いや幼く見えた。


「お母様、オルガです」

「オルガ……すっかり…大きくなって。……見違えたわ。もっと……よく…顔を……見せて」


オルガの母は、話すのもやっとと言う感じだったが、オルガの顔を嬉しそうに見つめ、頬を撫でた。

顔に添えられた母の手の上にオルカの手を重ねる。

熱のある身体とは裏腹に母の手は驚くほど冷たかった。


「ごめん…なさい。何も…して……やれなかった……お母様を…許してちょうだい」

「いいえ、お母様。これから……これからいくらでも時間があります。私のデビュタントのドレスの相談だって、王立学院(アカデミー)の入学式だって……」


黙って頷くオルガの母の顔は穏やかだった。

その穏やかな母の目尻からは一筋の涙がこぼれた。


「オルガ。お祖父様と…二人きりで……話す事があるの。少しだけ……少しだけ…外で…待っていてくれるかしら」


いつの間にかオルガの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

祖父に渡されたハンカチで涙を拭くと、頷いてそのまま看護婦と共に部屋の外へ出た。

祖父にとっては娘であるオルガの母との別れ。

オルガは過ごした時間の長さを思い、娘としての母の思いを尊重しようとした。


部屋の外には医師(マイエ先生)が待っていた。


医師(せんせい)

「オルガお嬢様。もうすっかり淑女になられましたね。見違えましたよ」


涙でまともに答える事ができないオルガにマイエは優しく語りかけた。

あえて母のことに触れないのは、医師の優しさだろうか。

それとも絶望しかない母の容態を告げたくないからなのか。

祖父を待つ間、医師はオルガに伯爵邸での生活やエマの事を色々と聞いてきた。

不思議なことに医師との淡々とした会話がオルガを落ち着かせてくれた。


暫くすると険しい表情の祖父が部屋から出てきた。


「オルガ、ロクサーヌの元へいってやりなさい。ああ、マイエ卿。良かった。少し話ができるかな」


そう言うと祖父は医師を伴って書斎のある方へ向かっていった。


オルガが静かに母の部屋へ入ると、母は眠っている様だった。

祖父と何の話をしたのだろうか。幾分、穏やかな表情になっていた。

眠っている母の布団から出された手をオルガは握った。

母の手は先程よりは幾らか暖かく感じられた。


それから2日の間は一進一退、とは言っても母は(アヘンチンキ)で眠っていることが多く、目覚めた時にオルガを見つければ嬉しそうに微笑むだけだった。

神の奇跡があれば助かる。そんな状態だったオルガの母が、奇跡的に3日目にベッドの上に身を起こし、わずかだがスープを飲むまでに回復した。



「今日は気分がいいからオルガ。あなたとお茶がしたいわ。目が覚めてからずっとあなたとお茶を飲むのを楽しみにしていたの」


4日目の朝、顔を見に行くとオルガの母は侍女にお茶の準備をさせていた。

母のベッドの脇にテーブルを置いて簡単なお茶のセットが並んでいる。


「お父様から聞いているわ。オルガはお茶を入れるのがすごく上手だって。私は教えてないのに……不思議ね」


そう言ってオルガのいれたお茶をひと口飲んだ。


「本当に———美味しい。もっと早くに私の目が覚めていたのなら……」


遠くを見つめながら、オルガの母は誰に言うともなく呟いた。



「あの人はやっぱり来ないのね」


オルガが荘園についてから5日目、母は初めて父のことに触れた。

その口調は諦めにも似た抑揚のないものだった。


「オルガ。あなたはドュボー伯爵家の、直系の孫娘だと言う事を忘れないで。あなたの家族はここにいる私達だけだと」


不意に強い口調で母がオルガに告げる。

この時、オルガは初めて母が父を断ち切ったのを確信した。


「私は弱かった。どうしようもなく弱かったのよ、オルガ。でも、それは言い訳にはならないわ。それでもあなたがこんなにも素敵な娘に育ってくれて————ゴホッ」


話の途中で突然、母が激しく咳き込み出した。

側にいた看護婦が医師を呼びに部屋の外へ駆け出す。

一人部屋に取り残されたオルガは、なす術もなく、ただ母の背を撫でるだけだった。


それから、母の具合は一気に悪くなった。

度々、医師が呼ばれ母の部屋に入っていくのをオルガは見た。

オルガも時々母の様子を見に立ち寄ったが、母は(アヘンチンキ)で眠っている事が多く、話すことはできなかった。


6日目、母の(アヘンチンキ)が切れ意識が戻るとこれ以上の薬の投与を拒み、オルガとの時間を取りたいと医師に訴えた。

咳と浅い呼吸で会話もままならなかったが、母はオルガの姿を脳裏に焼きつけでもするように、意識のある間はオルガのことを愛おしそうに眺めていた。


7日目の昼過ぎに、とうとう司祭が呼ばれた。

母の部屋からは乳香の香りが漏れ、告解が行われていることが分かる。

オルガは残された時間が少ないことを悟った。


告解が終わり司祭の祈りが続く中、オルガと祖父は母の脇に座った。

オルガの母はうわ言のように『ごめんなさい』『愛してる』と『お願い』を繰り返すだけだったが、祖父の手を病人とは思えない力で握りしめ『お父様、お願い』と何度も呟いたのが印象的だった。


その日の夜遅く、オルガの母は天に召されていった。

オルガは不思議と涙は出なかった。その時はまだ。

昔のイギリスでは痛み止め(咳止め)の万能薬としてアヘンチンキが用いられました

名前の通り、液体アヘンです

日本でもヒロポン(覚醒剤)が普通に売られていた時代があったりと色々やらかしてますよねー


今は『看護師』ですが時代感を出すために『看護婦』で統一します

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